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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

タクワンの話2013-3

2013年08月21日 | タクワン
米ぬかの用途
現在の糠の用途
稲の籾を脱穀し、さらに籾殻を除いたものを玄米といいます
玄米で精米することによって発生する米糠の主な用途は米糠油が33%、飼料12%、キノコの苗床11%、漬物5%で残る39%は廃棄されていると思われます。米糠油を取った後の脱脂糠は配合飼料としての利用価値が非常に高く、実際に、この分野において最も多く利用されています。
酒造りの精米時発生する糠
酒の原料となる米は、「うるち米」と呼ばれる種類のものです。
米の表面や胚芽には、タンパク質や脂質・灰分・無機質など多く含まれています。これらが必要以上に多いと清酒の味、香り、色に悪い影響を与え、酒質を劣化させることから精米により十分に取り除かねばなりません。
 糠の種類は赤糠、中糠、白糠、上白糠の4種類あります。赤糠とは、玄米の表面を飯米と同じくらい削って出てきた糠のことです。飯米の玄米を精米したとき出る糠と同じ。赤糠→中糠→白糠→上白糠の順にデンプンの割合が多くなります。
赤糠は家畜の飼料、米糠油を製造している工場に引き取ってもらい米油、漬物用に、中糠は、飼料に白糠と極上糠は菓子原料、友禅用のり、 インスタントラーメン、 せんべいなどに使用されています。米糠は、その「臭さ」が敬遠されていたのか、今までは積極的に利用されてきたとは言えません。ほとんどが、飼料や肥料に利用されてきたのです.

江戸時代の練馬の沢庵漬は石高制社会『米の生産、流通、加工、消費を中心とした社会』の中で不思議な地位を占めていた。米は現在の通貨のような地位をしめていた。
 江戸の郊外となった、練馬の地から江戸市民や武士のために練馬大根(沢庵)を供給することが必要となった。3年に一度ほど大火がある江戸は重石を乗せ保存する食品は避難の妨げになるので、自らの排泄物(ウンコ及びオシッコ)と交換して練馬の農家とタクワン漬を取引していた。また、農村部でも塩、米糠、肥料(下肥)桶樽等を商人や消費者から購入せざるを得なかった。農村部において、自給自足という制度が崩れていった。大根を加工して沢庵漬にすることは農村部貨幣経済の進展の象徴である。
 沢庵漬は単なる漬物でなく、米の歴史とそれを大切にする文化と、塩の文化,杉の木による樽の文化、宗教―禅宗・茶の湯、大根をめぐるリサイクル文化、日本食の発酵文化等が語る事ができる。そして中国や朝鮮に材料的にはあっても不思議でない沢庵漬は大陸にはなく日本独自の漬物である。朝鮮半島にタクワン漬が浸透したのは明治以降のことである。

東アジアの糠(ぬか)漬
糠味噌の始まりは‘じんだ‘と呼ばれ古くから存在していて,今で言う糠味噌床のようなもので,麹や大豆、米糠のようなものを水と塩で練ったもので、これ自体調味料(江戸時代)になっていて,魚,肉類や野菜を漬けて食べたり、じんだ床に漬けておけば漬物になりました。糠に塩を混ぜて漬ける糠漬けは、庶民が作るようになったのが江戸時代中期。米の生産の増加と精米技術の発達で糠が手に入るようになってからです。
 米糠を塩水で練っただけの糠味噌床は米食民族ならどこでも作っていそうですが,中国や東南アジアでも聞かれません。日本の漬物のほとんどは中国や朝鮮からですが糠漬けはありません。米糠を利用した漬物として「沢庵漬」がありますが中国や朝鮮(江戸時代の)に全くなく、日本の食文化が生んだ独自の漬物です。2005年韓国において沢庵製造の余り野菜のごみで作った餃子の腐敗事件がありました。韓国でも沢庵漬は(タックワン)といわれ,戦前,日本が朝鮮を植民地支配していた時、日本から輸出して,現地に普及した名残です。
 中国や朝鮮に沢庵漬(糠漬大根)の漬物がない理由として、
1 気温 中国南部の米作地方は気温が高く、米糠は腐敗しやすく,気温の低い中国北部は粉食(小麦の産地)で米糠が出ない。
2 中国や朝鮮の容器として,甕や壷で一般に使われていて,重石をかけて漬ける沢庵漬は樽か桶の容器でなければ漬からない。キムチ等のつけ方をみると重石は無いかあっても軽い。日本の鹿児島県のつぼ漬はほとんど重石をかけていないので甕や壷に漬けています。
3 大根の品種が沢庵漬に適していない。
4 沢庵を必要とする食文化がない(茶の湯等によって始まった会席料理)
中国における食文化
中国に「南粒北粉」という言葉がある。「南稲北麦」とも言われる。長江流域以南の湿潤地帯では稲が栽培され、それ以北の乾燥地帯では麦・雑穀の栽培がおこなわれる。これに応じて、南での主食は米飯(粒食)であり、北では粉食が主流となる。
米は杵、小麦は碾き臼の技術が必要となる。
江戸市中の沢庵漬
江戸の庶民は自分では沢庵漬を漬けない人もあった。江東区 深川江戸資料館に江戸時代の八百屋(当時は青物屋と呼ばれていた)が再現されている。店頭には大樽に入れられた沢庵漬がおかれ、干した大根が売られていた.今と違って冷蔵庫もなく,舟運と牛馬・荷車による輸送では旬の野菜しか売られていなかった。
江戸の庶民の長屋で木樽を据えて、沢庵を何樽も漬けこむのは難しかった。頻発する火事などの火災に遭遇した場合、重石をのせてびくともしない漬物樽は、逃げ場を塞ぐ障害物になる危険もあったのである。
明暦3年(1657)、死者10余万人を出す江戸史上最大の火災となった。俗に明暦の大火とも呼ばれるこの大火は、江戸の人々に多くの教訓をもたらした。幕府は災害後の新たな対策として多様な都市改造を実施した。町人達の間でも災害対策の意識は浸透した。明暦の大火の以後は火事の際に荷物を持って逃げる者は少なくなった。しかし、江戸はこの後もたびたび大きな火事にみまわれた。
守貞謾稿より
京坂(京都・大阪)は、毎冬毎戸、味噌と香々は自家にこれを制す。香々、江戸に云う沢庵なり。江戸は各居塁地なきが故にか,自家これを制すこと稀なり。専ら味噌、巨戸は一、二樽を買ひ、中以下は百文二百文と大小戸とも毎時これを買ふ。また、沢庵は年用を計りて、城北練馬村の農家にこれを買う。毎冬、練馬農人、江戸得意の家に来たり、明年所用の沢庵を樽数を問ひ、また価を取りて、その戸の人数を計り、毎時馬をもつて沢庵を送る。

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