タクワンの話
文献
『茶道と天下統一』ヘルベルト・プルチョウ著という本が2010年4月に出版された。この著者は純粋な日本人でないため新鮮な視点で芸術と政治の関係を記述している。沢庵漬の名称の由来は徳川三代将軍家光の政治に関係していると思っているのでこの本は非常に参考となる。
近代以前の国家は宗教と結びついた儀礼のシステムがあって、儀礼の内容が江戸時代初めには『公的な地位にあるものがその立場にふさわしい茶の作法を学ぶ』ことが必要だったという。システム化された儀礼を教える職業が発生するようになる。各大名はその儀礼を習うため雇用するようになる。武道師範と茶道師範は各大名の内部情報を幕府にもたらすようになる。また各大名は間接的に師範を通じて幕府の方針を探る場でもあった。沢庵禅師の大名好きという言葉は各大名が接近したことを現している。このような腹の探りあいのようなことを揶揄して、京都大徳寺で同時代修行した柳生宗矩・沢庵禅師・千宗旦の三人の関係から『沢庵漬』の名称が後の時代に付けられたと思う。
柳生宗矩は、徳川家康に見出される。徳川の敵を倒すため幕府成立初期に大名統治政策作った。親族や門弟を諸国の大名のもとへ剣術指南として送り込み、内部情報を収集することを宗矩がしていて世間一般には悪役として描かれている。同様に大徳寺で面識のあったと思われる千宗旦(せんのそうたん)は、千利休の孫で、宗旦の子供が現代まで続く表千家、裏千家、武者小路千家の祖である。当時は茶道師範も各大名の内部情報を収集するための手段の一つにになったと思われる。柳生宗矩は、京都大徳寺の禅僧・沢庵と交流があり三代将軍家光の政策顧問として活躍した。そして、徳川政権成立後も続いた豊臣恩顧の大名との統治策はいわゆる問題を起こした大名が沢庵禅師に接近するきっかけを作ったと思われる。沢庵の『大名好き』と当時から言われたのはこの辺から出てきたのかもしれない。沢庵漬と言う漬物は沢庵禅師の創始と言われるがその名前が今も残っているのは柳生宗矩・千宗旦・沢庵禅師との交流と徳川幕府の大名制御政策とそれに対する諸大名の情報収集ために沢庵禅師に近づき沢庵漬が普及したと思われる。沢庵が生存中は沢庵漬という名称はなく、文献に現れるのはもう少し後の時代である。
結論 沢庵漬は外様大名等のゴマスリの結果今でも名前が残っているのであって、もし柳生宗矩・千宗旦・沢庵禅師の交流がなければ沢庵漬と言う名でなく単なる干し大根の糠漬となっていたでしょう。
本朝食鑑 人見必大 1697年(元禄10)刊行
百本漬というものあり、大根百本を洗浄し、数日干して、水分が乾いて曲がりやすい状態になれば,粉糠一斗・麹4升・白塩3升半を混ぜ合わせ、干し大根と混ぜ合わせた糠と交互に一重重ねに漬けていく。やはり、30日余で出来上がる。これはあるいは沢庵漬ともいう。大徳禅寺にて始めて造られ、各家に伝わってこう名づけられているのである。
この当時、京坂の方では香香とか百本漬と呼ばれていたらしい。元禄時代の関東では沢庵漬と言う名称ついていた。
漬物の名称のほとんどは野菜の名称(白菜+漬)、生産地の地名に漬の字と加えたもの(野沢+菜+漬)野菜の形(千枚+漬)等で、人の名前が付いて長い歴史があり、今も呼ばれているのは沢庵漬だけであり、法律に定義されている。農林水産物規格法(JAS法)
農業全書 宮崎安貞 1697(元禄10)年刊
干し大根10月の末、いまだ寒気の甚だしいくない時に(大根を)抜き洗って,ヒゲ根を取り去り、2把をくくり合わせ、軒下あるいは樹木のまたに掛け干し,又は竹木をわたし掛けて干すも良い。シシビに干たる時もみなやしもとの如く干し、二三度各の如くしてその後よく干しそこないようにして、コモに包み、湿気なきところにおさめ置き,折々出し干棚にて干してカビのはえないようにすべし。または極めて良く干してつぼに入れ、口を封じ置き,梅雨前に取出し、少し干してまえの如く壷に入れ置くべし。また,良き程干したるとき,盤の上に置き、横槌にてしっかりと打ち付けておくも味が良い。打つときは(大根)頭より尾の方へ打つ方が良い。(大根の)甘味が尾まで行き渡ることになる。初めまず揉み上げ和らげその後打っても良い。
又漬物にする事、糠に漬け、味噌に漬け、其の他漬け様色々ありてどれもおいしく家事を助け利益多いものなり。
また、中国(地方の人)は国によっては多く作って、根葉も漬け置き、冬中これのみ菜(野菜の代用)に用いて朝晩のおかずとしている。最も飢えを助けるものと言う。このように山野の植物の中で大根に勝るものは少ない。土地があるときは必ず余分に作るべし。
一種小大根あり,野生の大根で正月に掘って漬物とする。伊吹菜またはねずみ大根と云う。その大根はねずみの如く細い。近江・伊吹山にあり、そこの名物である。干し(ねずみ)大根の方法は良い大根を寒中30日の間木または枝の間に縄を引いてそれに掛け干し、その後は前と同じ方法で干し置く。とっても味が良い。
参考
シシビ 干し肉を刻み、麹(こうじ)と塩に漬け込んだもの。
小大根とは西国にての呼び方、はだの大根は小大根より少し大なり。
宮崎安貞1623~1697(元和9~元禄10)近世の三大農学者の一人
九州・山陽道・畿内などの農業事情を見聞する旅を行い,先進地域の農業技術を実地に移すべく農書の刊行を行った。
当時、西日本はまだ大根の糠漬・沢庵漬を知らなかったとも言えるので記述がなかったと思う。今の鹿児島県山川漬・山口県寒漬の製法と農業全書の漬け方と似ている。
耳袋 根岸鎮衛(やすもり)著 天明(1781年より)から30年間に書かれた本。
江戸時代の町のウワサ話などを集めたものです。沢庵漬の由来の話では大抵"耳袋”の話が引用されている。
沢庵漬
公事に寄りて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧禅師の事物語りの序に、世に沢庵漬といふ事は、東海寺にては貯漬と唱へ来り候趣、大猷院様品川御成之節、東海寺にて御膳被召上候節、「何ぞ珍敷物献じ候様」御好みの折から、「禅刹何も珍舗もの無之、たくわへ漬の香の物あり」とて、香の物を沢庵より献じければ、「貯漬にてはなし。沢庵漬也」との上意にて、殊之外御称美有りし故、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を青貝にて麁末なる塗の重箱に入て持参相納けるよし。今に安左衛門が家に右重箱は重宝として所持せしと、彼老僧の語りはべる。
仕事のついでに品川の東海寺に寄り、老僧の案内で沢庵禅師の墓を訪ねた。老僧が禅師の逸話を語った。
「世間で沢庵漬と漬物は、当寺では(貯え漬)と呼んでおります。大猷院様(徳川家光)が品川にお成りの際、東海寺で食事を召し上がられたことがございました。『何か珍しいものはないのか』とのお申し付けに『禅寺ゆえ何も珍しいものはございませんが保存食(貯え漬)の漬物がございます』と沢庵が献じましたところ、「貯え漬ではなかろう。沢庵漬じゃ」と、ことのほか褒めて頂きました。
現在東海寺の代官役橋本安左衛門の先祖が青貝細工の粗末な塗りの重箱に納めた沢庵漬を御城の御台所へ日々持参したということでございます。この重箱は安左衛門の家に家宝として伝わっております
品川区歴史博物館の学芸員の話では今でも東海寺ではタクワンの漬物を「貯え漬」と言っているそうだ。
物類称呼 (ぶつるいしょうこ) 越谷吾山著。1775年刊
日本最初の方言辞書。天地・人倫・草木・言語などに分け約4,000語の俚言(土地のことば)を解説している。
大根漬
京にて唐(から)漬と云う
九州にて百本漬と云う
関東にて沢庵漬と云う
今、按に武州品川東海寺開山 沢庵禅師制し始めたまう。
依って沢庵漬と称すと言ひつたふ。
貯漬という説、これを取らず。又彼の寺には沢庵漬と唱えず。百本漬と呼ぶなり。
疑問 九州にて百本漬と言うのに沢庵禅師は経歴から九州に行っていない。東海寺は沢庵禅師が開山している。
沢庵漬の名前は文献から、沢庵和尚の死後約40年経った元禄時代には江戸では大根の糠漬が沢庵漬とよばれていた。しかし、農村部では”こんこ”などと呼ばれていた。沢庵漬は江戸時代末期に出版された「守貞慢稿」に書かれているように、関東付近と武士階級のみの呼び方であったかもしれない。そして、全国的に沢庵漬になったのは明治時代になってからで“伊勢沢庵・阿波沢庵・東京沢庵”等は明治時代に発展した。
守貞慢稿 天保8年頃より
塩糠にて乾大根を漬けたる、京坂にて専ら香の物あるいは香々とのみ云ふ。江戸にては沢庵漬と云ふなり。沢庵禅師に始まる故なり。
江戸砂子(えどすなご) 菊岡沾涼著
江戸時代の日常生活に必要なガイドブック。享保17年(1732)に『江戸砂子温故名跡志』で近世地誌の形式を確立する。紀行・案内記・史跡名称案内
沢庵漬
今、江戸にて漬かる香の物、沢庵和尚の漬け始められしもの也
ある人 梅干を沢庵和尚に送りにけりに
むかし見し 花すがたは 散りうせて
しわ(皺)うちよれる 梅ぼうしかな(梅干かな)
又、にごり酒に十里酒と銘を書きて送る。同じく沢庵和尚の返歌
十里とは 二五里(にごり)といえる 心かや
すみかたき世に 身を絞り酒
享保の頃には「沢庵漬」の名称が少なくとも関東・江戸では定着していた。
耳袋 沢庵の書
沢庵が書いたという書を山村信州が所持していたのを写させてもらった。
ご飯は何のために食べるのか?腹が減るからやむを得ずに食べるのか。腹が減らずば食べずにに済むものを、美味いオカズがなければご飯など食べないと人のいうのは大きな間違い。ただ腹が減ったから食べるに過ぎぬ。オカズがなければ飯が食えぬなどという人は飢えを知らぬ。飢えなければ一生食べる必要などありえない。ひとたび飢えれば、たとえ糠味噌だろうとも喜んで食べる。ご飯であればいうまでもない。なぜオカズがいるなどというのか。
食を得ること、薬を服する如くせよと仏も言い残しておられる。衣類もまた同様。人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い。
こんなものは落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたまで。
元和の酉の冬に
沢庵 宗 彭
糠味噌とは今とは違って味噌汁の増量剤として米糠を入れて食していたから、美味しくなかった。糠味噌漬のことを言っているのではない。糠味噌漬は江戸時代中期以後に現れた漬物である。錬金法印とは沢庵の書を売っている人のことを言うのだろうか
耳袋 柳生家の門番のこと
あるとき、柳生但馬守の屋敷へ沢庵が訪れたところ、門番所に一首の謁が掲げられていた。
蒼海魚竜住 山林禽獣家 六十六国 無所入小身
(海には魚が住み、山には獣がすんでいるが日本にはわが身を置くところが無い。)
「なかなか面白い歌だが、末の句には欠点がある。」
沢庵がひとりつぶやいていると、門番がそれを聞いて言った。
「大げさなことなどという欠点はありません。私の歌です」
沢庵は驚いた。
「どうしてか?」
いろいろと話を聞くと、この門番は朝鮮の人であり、本国から日本に脱出してきて但馬守の門番をしているという。
但馬守が沢庵からこの話を聞き、
「身を入るに所無きことなどない事などない」
と、二百石を与えて侍に取り立てた。今も柳生家にはその子孫が仕えているという。
根岸の耳袋には沢庵と柳生但馬守の交友に関しての話題が数々ある。沢庵漬の命名の由来は耳袋から広まったと思われる。
和歌や狂歌でも知られていた沢庵
沢庵の和歌の師は細川幽斎であり、三斎・忠利・光尚と四代にわたって親交があった。沢庵の和歌を細川幽斎がほめたそうです。
品川・東海寺を訪れた家光公が、船に乗ろうとして見送りの沢庵和尚とで禅問答を交わしたとされます。『海近くして如何か是東海寺(遠海寺)』、沢庵答えて『大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し』
沢庵の歌
後撰夷曲集(寛文十二年刊)近世文学資料類従 狂歌編3 404頁
香物
大こうのもとはきけど糠みそに打ちつけられてしおしおとなる
大こう とは豊臣秀吉のことと大根を掛けている
糠とは康の字が入っており家康を意味する
大根(秀吉)が糠みそ(家康)に漬けられて、しおしおとなる(屈服する)。
大根の糠漬を知っていた証拠である。
家光と老臣会議の後、沢庵と二人で夜、遅くまで話しこんだと、沢庵和尚が故郷に宛てた手紙に書いてあります。
文献
『茶道と天下統一』ヘルベルト・プルチョウ著という本が2010年4月に出版された。この著者は純粋な日本人でないため新鮮な視点で芸術と政治の関係を記述している。沢庵漬の名称の由来は徳川三代将軍家光の政治に関係していると思っているのでこの本は非常に参考となる。
近代以前の国家は宗教と結びついた儀礼のシステムがあって、儀礼の内容が江戸時代初めには『公的な地位にあるものがその立場にふさわしい茶の作法を学ぶ』ことが必要だったという。システム化された儀礼を教える職業が発生するようになる。各大名はその儀礼を習うため雇用するようになる。武道師範と茶道師範は各大名の内部情報を幕府にもたらすようになる。また各大名は間接的に師範を通じて幕府の方針を探る場でもあった。沢庵禅師の大名好きという言葉は各大名が接近したことを現している。このような腹の探りあいのようなことを揶揄して、京都大徳寺で同時代修行した柳生宗矩・沢庵禅師・千宗旦の三人の関係から『沢庵漬』の名称が後の時代に付けられたと思う。
柳生宗矩は、徳川家康に見出される。徳川の敵を倒すため幕府成立初期に大名統治政策作った。親族や門弟を諸国の大名のもとへ剣術指南として送り込み、内部情報を収集することを宗矩がしていて世間一般には悪役として描かれている。同様に大徳寺で面識のあったと思われる千宗旦(せんのそうたん)は、千利休の孫で、宗旦の子供が現代まで続く表千家、裏千家、武者小路千家の祖である。当時は茶道師範も各大名の内部情報を収集するための手段の一つにになったと思われる。柳生宗矩は、京都大徳寺の禅僧・沢庵と交流があり三代将軍家光の政策顧問として活躍した。そして、徳川政権成立後も続いた豊臣恩顧の大名との統治策はいわゆる問題を起こした大名が沢庵禅師に接近するきっかけを作ったと思われる。沢庵の『大名好き』と当時から言われたのはこの辺から出てきたのかもしれない。沢庵漬と言う漬物は沢庵禅師の創始と言われるがその名前が今も残っているのは柳生宗矩・千宗旦・沢庵禅師との交流と徳川幕府の大名制御政策とそれに対する諸大名の情報収集ために沢庵禅師に近づき沢庵漬が普及したと思われる。沢庵が生存中は沢庵漬という名称はなく、文献に現れるのはもう少し後の時代である。
結論 沢庵漬は外様大名等のゴマスリの結果今でも名前が残っているのであって、もし柳生宗矩・千宗旦・沢庵禅師の交流がなければ沢庵漬と言う名でなく単なる干し大根の糠漬となっていたでしょう。
本朝食鑑 人見必大 1697年(元禄10)刊行
百本漬というものあり、大根百本を洗浄し、数日干して、水分が乾いて曲がりやすい状態になれば,粉糠一斗・麹4升・白塩3升半を混ぜ合わせ、干し大根と混ぜ合わせた糠と交互に一重重ねに漬けていく。やはり、30日余で出来上がる。これはあるいは沢庵漬ともいう。大徳禅寺にて始めて造られ、各家に伝わってこう名づけられているのである。
この当時、京坂の方では香香とか百本漬と呼ばれていたらしい。元禄時代の関東では沢庵漬と言う名称ついていた。
漬物の名称のほとんどは野菜の名称(白菜+漬)、生産地の地名に漬の字と加えたもの(野沢+菜+漬)野菜の形(千枚+漬)等で、人の名前が付いて長い歴史があり、今も呼ばれているのは沢庵漬だけであり、法律に定義されている。農林水産物規格法(JAS法)
農業全書 宮崎安貞 1697(元禄10)年刊
干し大根10月の末、いまだ寒気の甚だしいくない時に(大根を)抜き洗って,ヒゲ根を取り去り、2把をくくり合わせ、軒下あるいは樹木のまたに掛け干し,又は竹木をわたし掛けて干すも良い。シシビに干たる時もみなやしもとの如く干し、二三度各の如くしてその後よく干しそこないようにして、コモに包み、湿気なきところにおさめ置き,折々出し干棚にて干してカビのはえないようにすべし。または極めて良く干してつぼに入れ、口を封じ置き,梅雨前に取出し、少し干してまえの如く壷に入れ置くべし。また,良き程干したるとき,盤の上に置き、横槌にてしっかりと打ち付けておくも味が良い。打つときは(大根)頭より尾の方へ打つ方が良い。(大根の)甘味が尾まで行き渡ることになる。初めまず揉み上げ和らげその後打っても良い。
又漬物にする事、糠に漬け、味噌に漬け、其の他漬け様色々ありてどれもおいしく家事を助け利益多いものなり。
また、中国(地方の人)は国によっては多く作って、根葉も漬け置き、冬中これのみ菜(野菜の代用)に用いて朝晩のおかずとしている。最も飢えを助けるものと言う。このように山野の植物の中で大根に勝るものは少ない。土地があるときは必ず余分に作るべし。
一種小大根あり,野生の大根で正月に掘って漬物とする。伊吹菜またはねずみ大根と云う。その大根はねずみの如く細い。近江・伊吹山にあり、そこの名物である。干し(ねずみ)大根の方法は良い大根を寒中30日の間木または枝の間に縄を引いてそれに掛け干し、その後は前と同じ方法で干し置く。とっても味が良い。
参考
シシビ 干し肉を刻み、麹(こうじ)と塩に漬け込んだもの。
小大根とは西国にての呼び方、はだの大根は小大根より少し大なり。
宮崎安貞1623~1697(元和9~元禄10)近世の三大農学者の一人
九州・山陽道・畿内などの農業事情を見聞する旅を行い,先進地域の農業技術を実地に移すべく農書の刊行を行った。
当時、西日本はまだ大根の糠漬・沢庵漬を知らなかったとも言えるので記述がなかったと思う。今の鹿児島県山川漬・山口県寒漬の製法と農業全書の漬け方と似ている。
耳袋 根岸鎮衛(やすもり)著 天明(1781年より)から30年間に書かれた本。
江戸時代の町のウワサ話などを集めたものです。沢庵漬の由来の話では大抵"耳袋”の話が引用されている。
沢庵漬
公事に寄りて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧禅師の事物語りの序に、世に沢庵漬といふ事は、東海寺にては貯漬と唱へ来り候趣、大猷院様品川御成之節、東海寺にて御膳被召上候節、「何ぞ珍敷物献じ候様」御好みの折から、「禅刹何も珍舗もの無之、たくわへ漬の香の物あり」とて、香の物を沢庵より献じければ、「貯漬にてはなし。沢庵漬也」との上意にて、殊之外御称美有りし故、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を青貝にて麁末なる塗の重箱に入て持参相納けるよし。今に安左衛門が家に右重箱は重宝として所持せしと、彼老僧の語りはべる。
仕事のついでに品川の東海寺に寄り、老僧の案内で沢庵禅師の墓を訪ねた。老僧が禅師の逸話を語った。
「世間で沢庵漬と漬物は、当寺では(貯え漬)と呼んでおります。大猷院様(徳川家光)が品川にお成りの際、東海寺で食事を召し上がられたことがございました。『何か珍しいものはないのか』とのお申し付けに『禅寺ゆえ何も珍しいものはございませんが保存食(貯え漬)の漬物がございます』と沢庵が献じましたところ、「貯え漬ではなかろう。沢庵漬じゃ」と、ことのほか褒めて頂きました。
現在東海寺の代官役橋本安左衛門の先祖が青貝細工の粗末な塗りの重箱に納めた沢庵漬を御城の御台所へ日々持参したということでございます。この重箱は安左衛門の家に家宝として伝わっております
品川区歴史博物館の学芸員の話では今でも東海寺ではタクワンの漬物を「貯え漬」と言っているそうだ。
物類称呼 (ぶつるいしょうこ) 越谷吾山著。1775年刊
日本最初の方言辞書。天地・人倫・草木・言語などに分け約4,000語の俚言(土地のことば)を解説している。
大根漬
京にて唐(から)漬と云う
九州にて百本漬と云う
関東にて沢庵漬と云う
今、按に武州品川東海寺開山 沢庵禅師制し始めたまう。
依って沢庵漬と称すと言ひつたふ。
貯漬という説、これを取らず。又彼の寺には沢庵漬と唱えず。百本漬と呼ぶなり。
疑問 九州にて百本漬と言うのに沢庵禅師は経歴から九州に行っていない。東海寺は沢庵禅師が開山している。
沢庵漬の名前は文献から、沢庵和尚の死後約40年経った元禄時代には江戸では大根の糠漬が沢庵漬とよばれていた。しかし、農村部では”こんこ”などと呼ばれていた。沢庵漬は江戸時代末期に出版された「守貞慢稿」に書かれているように、関東付近と武士階級のみの呼び方であったかもしれない。そして、全国的に沢庵漬になったのは明治時代になってからで“伊勢沢庵・阿波沢庵・東京沢庵”等は明治時代に発展した。
守貞慢稿 天保8年頃より
塩糠にて乾大根を漬けたる、京坂にて専ら香の物あるいは香々とのみ云ふ。江戸にては沢庵漬と云ふなり。沢庵禅師に始まる故なり。
江戸砂子(えどすなご) 菊岡沾涼著
江戸時代の日常生活に必要なガイドブック。享保17年(1732)に『江戸砂子温故名跡志』で近世地誌の形式を確立する。紀行・案内記・史跡名称案内
沢庵漬
今、江戸にて漬かる香の物、沢庵和尚の漬け始められしもの也
ある人 梅干を沢庵和尚に送りにけりに
むかし見し 花すがたは 散りうせて
しわ(皺)うちよれる 梅ぼうしかな(梅干かな)
又、にごり酒に十里酒と銘を書きて送る。同じく沢庵和尚の返歌
十里とは 二五里(にごり)といえる 心かや
すみかたき世に 身を絞り酒
享保の頃には「沢庵漬」の名称が少なくとも関東・江戸では定着していた。
耳袋 沢庵の書
沢庵が書いたという書を山村信州が所持していたのを写させてもらった。
ご飯は何のために食べるのか?腹が減るからやむを得ずに食べるのか。腹が減らずば食べずにに済むものを、美味いオカズがなければご飯など食べないと人のいうのは大きな間違い。ただ腹が減ったから食べるに過ぎぬ。オカズがなければ飯が食えぬなどという人は飢えを知らぬ。飢えなければ一生食べる必要などありえない。ひとたび飢えれば、たとえ糠味噌だろうとも喜んで食べる。ご飯であればいうまでもない。なぜオカズがいるなどというのか。
食を得ること、薬を服する如くせよと仏も言い残しておられる。衣類もまた同様。人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い。
こんなものは落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたまで。
元和の酉の冬に
沢庵 宗 彭
糠味噌とは今とは違って味噌汁の増量剤として米糠を入れて食していたから、美味しくなかった。糠味噌漬のことを言っているのではない。糠味噌漬は江戸時代中期以後に現れた漬物である。錬金法印とは沢庵の書を売っている人のことを言うのだろうか
耳袋 柳生家の門番のこと
あるとき、柳生但馬守の屋敷へ沢庵が訪れたところ、門番所に一首の謁が掲げられていた。
蒼海魚竜住 山林禽獣家 六十六国 無所入小身
(海には魚が住み、山には獣がすんでいるが日本にはわが身を置くところが無い。)
「なかなか面白い歌だが、末の句には欠点がある。」
沢庵がひとりつぶやいていると、門番がそれを聞いて言った。
「大げさなことなどという欠点はありません。私の歌です」
沢庵は驚いた。
「どうしてか?」
いろいろと話を聞くと、この門番は朝鮮の人であり、本国から日本に脱出してきて但馬守の門番をしているという。
但馬守が沢庵からこの話を聞き、
「身を入るに所無きことなどない事などない」
と、二百石を与えて侍に取り立てた。今も柳生家にはその子孫が仕えているという。
根岸の耳袋には沢庵と柳生但馬守の交友に関しての話題が数々ある。沢庵漬の命名の由来は耳袋から広まったと思われる。
和歌や狂歌でも知られていた沢庵
沢庵の和歌の師は細川幽斎であり、三斎・忠利・光尚と四代にわたって親交があった。沢庵の和歌を細川幽斎がほめたそうです。
品川・東海寺を訪れた家光公が、船に乗ろうとして見送りの沢庵和尚とで禅問答を交わしたとされます。『海近くして如何か是東海寺(遠海寺)』、沢庵答えて『大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し』
沢庵の歌
後撰夷曲集(寛文十二年刊)近世文学資料類従 狂歌編3 404頁
香物
大こうのもとはきけど糠みそに打ちつけられてしおしおとなる
大こう とは豊臣秀吉のことと大根を掛けている
糠とは康の字が入っており家康を意味する
大根(秀吉)が糠みそ(家康)に漬けられて、しおしおとなる(屈服する)。
大根の糠漬を知っていた証拠である。
家光と老臣会議の後、沢庵と二人で夜、遅くまで話しこんだと、沢庵和尚が故郷に宛てた手紙に書いてあります。