タクワンの話 2013-4
酒税制度と沢庵漬
柳田国男著 木綿以前のこと の自序に「女と俳諧、この二つは何の関係も無いもののように、今までは考えておりました。」と始まっている。沢庵漬の歴史を調べると、日本の税制の問題が知識として必要になってくる。江戸時代以前は石高制によって、米の生産、流通、消費の知識が必要となり、その途中に発生する米糠は、文献にはほとんど無く,想像で推測するしかない。漬物についても、江戸時代の金銭消費の文献にも、酒、塩、味噌、醤油等の購入記録はあるが、漬物を金銭で購入した文献は無いといってよい。ただ贈答品のときに出てくるくらいである。奈良漬は奈良の酒造りから出来た漬物です。山科家礼記に「明応元年(1492年)11月3日宇治からの土産に「奈良漬」を持って来」とある。
沢庵和尚とコメ事情
日本酒は、神に供える最も重要なものとして、造られてきました(神饌)。その神々に捧げた同じお酒を、神事に集まった人々が飲むことによって連帯感を生んでいきました。(直会)古代中国の歴史書 魏志倭人伝によると当時の日本人の習俗として葬儀の時,喪主は泣いているが他の人は酒を飲んでいる。風俗として父子男女の区別なく酒をたしなんでいる。古代の酒は神に捧げるものとして、朝廷が製造していました。(造酒司)これが鎌倉時代になり、朝廷の力が衰えてくると、寺院や神社が強い力を持ち始め、大きな収入元となる酒造りを始めるようになりました。これは「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれ、各地で始まった「僧坊酒」によって、酒造りの技術は格段の向上を見せます。その後、麹米と蒸米、水を一度に仕込んで発酵させる、「諸白酒(もろはくしゅ)」というお酒が主流になります。諸白とは、麹米と掛米すべてに精米をした白米を使うことです。「諸白酒」の中でも「南都(=奈良)諸白酒」と呼ばれるお酒は非常に高品質でした。このときの諸白にした精米の過程で米糠が大量に発生したと思われます。
室町時代に入って、1371年に、酒造業者に対し、酒つぼ当たり二百文を課していたのが、酒税制度化の第一歩とされています.これ以後も、朝廷や室町幕府からたびたび臨時の賦課を負わされた酒屋は、室町幕府財政の基盤となった。こうした賦課の見返りとして、貴族や社寺に保護された「座」という組織が生まれ、その庇護によって商権を独占、業域を拡大していきます。
京都の戦国時代の酒
鎌倉時代末期から室町初期にかけて一世を風靡した「柳酒」を頂点に、京都周辺に多くのの造り酒屋が現れたのには二つの理由がありました。
京都には各地から年貢米が集まり、米の市場があって、酒の原料米が容易に手に入りました。また、酒造りには欠かせない米麹の製造と販売の権利を北野神社が持っていたので、この神社の周辺に麹製造業者が多数ありました(麹座)。その頃の酒造りは、壷に酒の素になる麹と蒸した米を入れて、その中で醸造するのです。壷を地面に埋めて、その中で酒を造る非常に原始的な造り方です。その為、アルコール分のうすい酒しか出来ませんでした。そうしてつくられた酒はいわゆる濁り酒でした。戦国時代末期の話ですが、当時日本にやってきたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、日本酒を買ってきたら、すぐに飲まないと酢になっていたという話が残っています。(『日本史』)また、フロイスは米を籾の状態で購入しており、酒の製造方法等考えると、当時の京都では大量の糠の発生は無かったと思われます。信長や秀吉が賞味した酒は京都の「柳酒」でなく、河内の「天野酒」や奈良の正暦寺で造られた「菩提泉」といわれます。
樽は戦国時代後期に京都周辺において広まっていき、江戸時代には日本国中へ普及しました。輸送性に優れ、作りやすい結樽が大いに発展し、清酒製造は樽が主役の座を占めることになりました。
沢庵漬に必要な米糠、塩、ダイコン、木の樽は丁度、沢庵和尚が堺にいた時期に揃ったのです。塩は瀬戸内海の製塩技術の進歩と海運によって堺に運ばれ、ダイコンの掛け干しが始まり、吉野からスギの木樽が堺に運ばれました。奈良から僧坊酒のための精米によって大量の米糠が発生したと思われます。沢庵は壷に漬けていた糠みそ(モチ米糠)から酒造りための精米によって発生した糠(ウルチ米糠)を使い、干し大根と瀬戸内の塩で木の樽に漬けた漬物を知り、沢庵和尚が堺や兵庫県出石で工夫したと思われる。
堺と沢庵の関係
1601年 29歳 沢庵、京都より堺に向かう。
1602年 30歳 細川幽斎に和歌百首を見てもらう。
1604年 32歳 沢庵の号を授かる。
31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。沢庵が糠で漬けた大根の塩漬けを知ったのは堺にいたときだろう。
兵庫は中世前期まで淀の外港としての国内最大の湊町で、ここに出入りした船舶はほぼ瀬戸内一帯から来航していました。京都に物資を送る者はここで川舟に荷物を移す必要があり、港には東大寺の北関、興福寺の南関と関銭徴収のための関所がありました。
堺の地は中国と日本の交易の中心地で京都や大和川によって奈良(東大寺、興福寺)とも結ばれていた。応仁の乱以後は新興の騒乱から離れていた堺が物資集産地の地位を兵庫から奪った。堺が繁栄した戦国動乱の時代。堺の商人たちは鉄砲や軍需品の生産と売り込みの「死の商人」たちでもあった。一時の安堵も得られない世の中。彼等はせめて安心立命と子どもの将来をおもんばかって、京都の本山復興だけでなく堺の市内各所に私財をなげうって寺院を建立した。
大徳寺は「茶づら」と呼ばれ、これをもっても茶の湯との関係が深いことがわかる。
大徳寺が茶の湯と緊密な関係をもち、繁栄したのは一休が応仁の戦乱を避けて堺に逃れ、村田珠光が堺の地で焼失した大徳寺伽藍の復興資金を信徒から集めて以来のことである。堺衆と大徳寺といった関係が生じた。珠光の弟子宗悟は古岳宗亘に参禅したといわれ、武野紹鴎も同じく古岳に禅を学んだ。また、千利休もしばしば参禅した。
そして、紹鴎の師である古岳が堺に南宗庵を開き、三好長慶が父の菩提を弔うためにこれを南宗寺と改めてから、堺の豪商はその本山大徳寺との緊密な関係が構築され、財政的にも多大な支援がなされた。とくに南宗寺一世、大林宗套に対する堺の豪商たちの帰依は厚く、紹鴎門下の今井宗久、津田宗達、その息子宗及らは競って参禅した。こうして大徳寺を中心として、しだいに茶禅一味の思想が起こり、大徳寺と茶の関係が深化していくのである。戦国動乱の世の中を厭い。たとえ成功した豪商たちといえども、心の不安定は拭いようがなく、宗教の世界に救いを求めたといえる。
沢庵が49歳のとき、郷里の出石に帰り、荒廃していた宗鏡寺を再興し、後山に投淵軒を立てる。投淵軒という名は時勢を憂いて汨羅の淵に身を投じた、詩人屈原の故事からとった。すでに当時、富貴に近づき、媚び、仏法を売って渡世を営む坊さんがいた。沢庵は世間の名利から離れ、麻衣を一枚まとい、小鍋ひとつだけで野菜根を煮、米をとぎ、粥を作り、ただ自己の探求を深めた。出石で沢庵によって糠漬けダイコンが沢庵漬になった。
一般に歴史学者は日本人が精白米を食べるようになったのは、元禄時代頃(17世紀末から18世紀初頭)からで、沢庵和尚の生存していた時代の少し後である。従って、沢庵和尚の時代の糠はどこから得られたのだろうか?沢庵和尚の経歴を見てみよう。
沢庵漬と沢庵和尚の経歴は密接に関係している。とにかく不思議な漬物である。
沢庵漬の発案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)兵庫県出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。
京都 大徳寺とは
大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
後醍醐天皇の勅願所となり庇護を受けたが対立した室町幕府足利義満により格下げされた。以後在野的立場を取る。
応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興。
一休禅師に学んだ茶礼を堺の村田珠光・武野紹鴎・千利休へと伝えられ、茶の湯の完成へと到る。
大徳寺は茶道の高級サロン化し、権力者の情報交換の場となる。
沢庵との関係者
一休宗純 一休さんとして有名な一休禅師、大徳寺出身
千利休 茶の湯・大徳寺山門に置かれた利休の木像のため秀吉に切腹を命じられる。
明智光秀 沢庵が三条河原で処刑された光秀を大徳寺に埋葬する。
柳生 宗矩 大徳寺で知り合う、紫衣事件の後、赦免に尽力
千宗旦 千利休死後、茶道再興・沢庵と同期で大徳寺にて修行
沢庵が堺・南宗寺に住んでいた時代に江戸幕府は寺院法度制度を作った。慶長年間、家康は全国の寺院を政治的、経済的に規制して、中世寺院が持っていた特権を剥奪することだった。寺院法度制度によって、僧侶に階級が生まれ、本山末寺関係が生まれ、民衆はすべていずれの寺の檀家になることを強制され、檀家制度が生まれた。葬式仏教化が始まった。
天皇の帰依によって設立された大徳寺、妙心寺の二寺は日本でも純粋禅の道場であった。宗風は権門高貴にこびることなく、純粋禅の復興であった。二寺は皇室ゆかりの寺で江戸幕府の管理する五山とは別格であり、出世入寺は紫依出世といい、天皇の綸旨が必要だった。
紫衣(しえ)事件
寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の綸旨で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。紫衣は僧侶最高位のもののみが着用できる。この紫衣着用許可の勅許を、収入目当てに乱発したことが、いわゆる紫衣事件の引き金となる。
沢庵は兵庫県出石の投淵軒から怒って上京、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、その不当性を説明した。幕府に対する抗弁書は沢庵自らが書いた。幕府は中心人物である沢庵を山形県上ノ山に流罪にしました。ついには後水尾天皇の退位をみるにいたった。(明正天皇―860年ぶりの女性天皇が誕生し、天皇は上皇となり、天皇の生母の和子は東福門院と呼ばれる)沢庵と皇室との関係が生まれる。
上山藩主 土岐頼行は歓迎し、沢庵が上の山に到着すると沢庵の庵を営んで住まわせいたれりつくせりの厚遇をした。沢庵はこの庵に「春雨庵」と名づけた。
寛永9年に2代将軍秀忠が54歳で他界した。柳生宗矩等の尽力で7月に沢庵は赦免されて江戸に帰る事になった。
沢庵和尚の経歴から、沢庵漬を知ったのは出石の投淵軒に来る以前だろう。大徳寺で修行中は貧乏で筆耕にて生計し、堺についても着るものがなく、汗臭いので洗濯したら乾かないので居留守を使ったといわれている。大徳寺時代は糠の出る米を食したと思われない。堺の地に滞在していたとき、何処で沢庵漬となるものに出会ったのだろうか。茶道と大徳寺派南宗寺の関係から、裕福な堺の町人との関係が生じ、酒造時の精米の糠、酒の空き樽、瀬戸内の塩、干し大根等が揃い、禅寺の大根の塩漬から貧乏性の糠の貯え漬があったのを知った、もしくは工夫したと思う。木の樽に大根の糠漬を直接漬けたのは酒造りの税金を逃れるためかも知れない。この場合、沢庵漬けの発祥地は奈良か河内長野の天野山金剛寺付近になるだろう。
堺の茶の湯には振舞がつきものでした。振舞は美味しい料理(会席料理)、美味しい酒が必要となります。最後に香の物(漬物)が出ます。このために工夫したかも知れません。
前田安彦氏の研究より
戦国時代に連掛け,高架はぜ掛けに干し大根の掛け干しが始まりました。
大根を生のまま漬けたのでは、糠床が大根から出る水分でだめになり、塩がたくさん入ります。干して水分を抜いた大根は、糠床からうま味を吸収しやすくなります。また、干すことで大根がしんなりして、漬ける時に曲がり樽に漬けやすくなります。漬け上がりの歯ごたえも良くなり、甘味が増します。秋口に収穫した大根を冬に漬けて、1年間食べていたため、保存期間を長くするためにも、大根を干して漬けるようになりました。堺と奈良の間の生駒山から干し大根のために良い風が吹いていました。
紫衣事件によって山形県上山に流罪になった沢庵に藩主・土岐頼行が崇敬している沢庵のために小さくも豪華な一庵を建立した。沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し、「春雨庵」と名づけた。沢庵は流罪の身であったが、その名声を慕って教えを乞う者も多く、上山藩の相談役になっていた。時に沢庵和尚57歳
また頼行は歌人としても知られていた沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。流罪の身であっても何これと気遣ってくれるために、何不自由のない日々であった。ちなみに上山市に現存する春雨庵は昭和二十八年に沢庵の草庵を復元したものです。当時の春雨庵は後に品川・東海寺に移築されます。春雨庵を見学すると抹茶が出ます。案内の人のお茶の手前が良いので驚きました。茶道の文化が沢庵和尚によって、普及したのでしょう。当時の農民が持ってきた野菜で沢庵漬を教えてもらったという話もあります。
二代将軍秀忠が死ぬと、柳生宗矩らの尽力によって赦免されました(沢庵60歳)。そのときの沢庵の狂歌
御意なれば参りタク庵おもえどもむさしきたなし江戸はいやいや
と詠んだと伝えられている。
山形県の漬物組合は沢庵の遺徳をしのんで香の物まつり(たくわん祭り)開いている。
沢庵の人生で紫衣事件までと赦免された後と評価が分かれる。前者は権力に対抗する人であったが赦免の後は幕府権力の中枢に入り、江戸幕府の宗教政策の相談役となっていった。特に島原の乱の後の対キリスト教政策・紫衣事件によってこじれた朝廷との関係の修復が三代将軍家光の政策として重要になっていった。柳生 宗矩は将軍に沢庵を推薦した。沢庵は赦免後故郷に隠居する予定であったが家光によって江戸に来ることになった。その理由として紫衣事件の抗弁書を直接・将軍に説明し・誤解を解くことと上山から江戸に来て滞在した折・鎌倉の禅寺の荒廃をみて、京都・大徳寺の行く末を案じたのかもしれない。
柳生宗矩(やぎゅう むねのり(1571年) - 1646年)、剣術の面では将軍家師範としての地位を確立した剣豪政治家である。宗矩が沢庵と交友が始まるのは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦以前で大徳寺にて参禅した折、知り会ったと思われる。室町時代の末期に至ると、剣術の主たる流派は臨済禅宗の真理と結び付いた。江戸時代初期の臨済禅僧沢庵は「剣禅一如(真理は一体)を説いた。茶道においても茶禅一味(茶の湯は禅宗より出でたり、珠光、紹鴎、皆な禅宗なり)という言葉もある。特に印可という言葉が示すように師がその道に熟達した弟子に与える許可のことは禅宗・武道(剣術・槍術・柔道など)・茶道において使われていて、そして作成される書面は印可状と呼ばれる。
宗矩と沢庵の交流に茶道の三千家の父・千宗旦が加わった。
大徳寺の長老が、宗旦をひきたてる。沢庵が宗旦を柳生但馬守宗矩にひきあわせる。特に沢庵は千宗旦の子供たちの茶道師匠の地位を宗矩に頼んで世話してもらった。
寛永11年8月沢庵、京都にて後水尾上皇と仙洞御所にて歓談する。紫衣事件で退位した後の、後水尾上皇は、京都左京区に修学院離宮を創建し、幕府との交渉を絶つことになる。上皇となった後水尾は、以後51年間、院政をしくことになるが、文化人として茶道、立花、建築、造園、詩歌、連句等の分野で力を発揮した。
幕府・朝廷・禅宗・茶道等と沢庵漬の不思議な関係が生じるようになった。漬物のタクワンだよ!!
東海寺(とうかいじ)
臨済宗大徳寺派、万松山。臨済宗京都紫野大徳寺の末寺。開創、寛永15年(1638)。開山、澤庵宗彭。開基、徳川家光。明治維新後は、将軍家や大名家の支援が無くなり東海寺の財政基盤が破綻し、瞬く間に衰微した。江戸時代は寛永寺、増上寺とともに三大寺といわれていた。
★所在地:東京都品川区北品川3-11-9
★交 通:京浜急行・新馬場駅下車徒歩5分
三代将軍家光は沢庵のために品川に東海寺を建立し、徳川実記によると短い期間に70回以上来訪し茶会も開かれていた。寛永17年(1640)9月16日、御殿山の大茶会の後、家光は沢庵を招いて酒を振舞う。寛永の末期より家光は茶会の席で老臣会議を開いていた。
ある日のこと。三代将軍家光は「余は近頃なにを食べてもおいしくない。美味なものはないか」と問うた。沢庵は「それは簡単なことです。明日お出ましください。ただ準備に時間がかかります」と話した。
翌日、家光はやってきた。茶室へ案内すると、禅師は引きさがってしまう。どんなご馳走が出るかと、しばらく庭の景色など楽しんでいたが、一向に姿を現さない。次第にいらだってきたが、禅師に約束したので動けない。もう我慢も限界だと思ったとき、沢庵が現れ、お膳を出した。
お膳を見ると、黄色いものが二三切れ皿に載せられてあるだけで、あとは飯椀が添えられているだけであった。家光は空腹であったので「ご馳走になるぞ」と言うや、お椀を取って飯を食べ、その黄色いものを恐る恐る口に運んだ。ところが食べてみると、ほどよい塩加減で味はよく、こりこり実に歯ごたえがよい。顔の相好をくずして、「これはまことによい味じゃが、一体なんであるのか」と聞く。沢庵は「それは大根のぬか漬けでございます」と答えた。
沢庵はこの漬物はとても保存性があるので、「貯え漬け」と名づけ、日ごろから常食にしていたのである。そう説明すると、家光は「そうか、それなら貯え漬ではのうて、沢庵漬けがよいぞ。さすが和尚じゃ」と褒め称えたという。
東京都漬物事業協同組合の年史によると、このとき大根の糠漬が沢庵漬となったとされている。明治・大正期の東京の名産品は浅草のりと練馬の沢庵漬であった。A
酒税制度と沢庵漬
柳田国男著 木綿以前のこと の自序に「女と俳諧、この二つは何の関係も無いもののように、今までは考えておりました。」と始まっている。沢庵漬の歴史を調べると、日本の税制の問題が知識として必要になってくる。江戸時代以前は石高制によって、米の生産、流通、消費の知識が必要となり、その途中に発生する米糠は、文献にはほとんど無く,想像で推測するしかない。漬物についても、江戸時代の金銭消費の文献にも、酒、塩、味噌、醤油等の購入記録はあるが、漬物を金銭で購入した文献は無いといってよい。ただ贈答品のときに出てくるくらいである。奈良漬は奈良の酒造りから出来た漬物です。山科家礼記に「明応元年(1492年)11月3日宇治からの土産に「奈良漬」を持って来」とある。
沢庵和尚とコメ事情
日本酒は、神に供える最も重要なものとして、造られてきました(神饌)。その神々に捧げた同じお酒を、神事に集まった人々が飲むことによって連帯感を生んでいきました。(直会)古代中国の歴史書 魏志倭人伝によると当時の日本人の習俗として葬儀の時,喪主は泣いているが他の人は酒を飲んでいる。風俗として父子男女の区別なく酒をたしなんでいる。古代の酒は神に捧げるものとして、朝廷が製造していました。(造酒司)これが鎌倉時代になり、朝廷の力が衰えてくると、寺院や神社が強い力を持ち始め、大きな収入元となる酒造りを始めるようになりました。これは「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれ、各地で始まった「僧坊酒」によって、酒造りの技術は格段の向上を見せます。その後、麹米と蒸米、水を一度に仕込んで発酵させる、「諸白酒(もろはくしゅ)」というお酒が主流になります。諸白とは、麹米と掛米すべてに精米をした白米を使うことです。「諸白酒」の中でも「南都(=奈良)諸白酒」と呼ばれるお酒は非常に高品質でした。このときの諸白にした精米の過程で米糠が大量に発生したと思われます。
室町時代に入って、1371年に、酒造業者に対し、酒つぼ当たり二百文を課していたのが、酒税制度化の第一歩とされています.これ以後も、朝廷や室町幕府からたびたび臨時の賦課を負わされた酒屋は、室町幕府財政の基盤となった。こうした賦課の見返りとして、貴族や社寺に保護された「座」という組織が生まれ、その庇護によって商権を独占、業域を拡大していきます。
京都の戦国時代の酒
鎌倉時代末期から室町初期にかけて一世を風靡した「柳酒」を頂点に、京都周辺に多くのの造り酒屋が現れたのには二つの理由がありました。
京都には各地から年貢米が集まり、米の市場があって、酒の原料米が容易に手に入りました。また、酒造りには欠かせない米麹の製造と販売の権利を北野神社が持っていたので、この神社の周辺に麹製造業者が多数ありました(麹座)。その頃の酒造りは、壷に酒の素になる麹と蒸した米を入れて、その中で醸造するのです。壷を地面に埋めて、その中で酒を造る非常に原始的な造り方です。その為、アルコール分のうすい酒しか出来ませんでした。そうしてつくられた酒はいわゆる濁り酒でした。戦国時代末期の話ですが、当時日本にやってきたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、日本酒を買ってきたら、すぐに飲まないと酢になっていたという話が残っています。(『日本史』)また、フロイスは米を籾の状態で購入しており、酒の製造方法等考えると、当時の京都では大量の糠の発生は無かったと思われます。信長や秀吉が賞味した酒は京都の「柳酒」でなく、河内の「天野酒」や奈良の正暦寺で造られた「菩提泉」といわれます。
樽は戦国時代後期に京都周辺において広まっていき、江戸時代には日本国中へ普及しました。輸送性に優れ、作りやすい結樽が大いに発展し、清酒製造は樽が主役の座を占めることになりました。
沢庵漬に必要な米糠、塩、ダイコン、木の樽は丁度、沢庵和尚が堺にいた時期に揃ったのです。塩は瀬戸内海の製塩技術の進歩と海運によって堺に運ばれ、ダイコンの掛け干しが始まり、吉野からスギの木樽が堺に運ばれました。奈良から僧坊酒のための精米によって大量の米糠が発生したと思われます。沢庵は壷に漬けていた糠みそ(モチ米糠)から酒造りための精米によって発生した糠(ウルチ米糠)を使い、干し大根と瀬戸内の塩で木の樽に漬けた漬物を知り、沢庵和尚が堺や兵庫県出石で工夫したと思われる。
堺と沢庵の関係
1601年 29歳 沢庵、京都より堺に向かう。
1602年 30歳 細川幽斎に和歌百首を見てもらう。
1604年 32歳 沢庵の号を授かる。
31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。沢庵が糠で漬けた大根の塩漬けを知ったのは堺にいたときだろう。
兵庫は中世前期まで淀の外港としての国内最大の湊町で、ここに出入りした船舶はほぼ瀬戸内一帯から来航していました。京都に物資を送る者はここで川舟に荷物を移す必要があり、港には東大寺の北関、興福寺の南関と関銭徴収のための関所がありました。
堺の地は中国と日本の交易の中心地で京都や大和川によって奈良(東大寺、興福寺)とも結ばれていた。応仁の乱以後は新興の騒乱から離れていた堺が物資集産地の地位を兵庫から奪った。堺が繁栄した戦国動乱の時代。堺の商人たちは鉄砲や軍需品の生産と売り込みの「死の商人」たちでもあった。一時の安堵も得られない世の中。彼等はせめて安心立命と子どもの将来をおもんばかって、京都の本山復興だけでなく堺の市内各所に私財をなげうって寺院を建立した。
大徳寺は「茶づら」と呼ばれ、これをもっても茶の湯との関係が深いことがわかる。
大徳寺が茶の湯と緊密な関係をもち、繁栄したのは一休が応仁の戦乱を避けて堺に逃れ、村田珠光が堺の地で焼失した大徳寺伽藍の復興資金を信徒から集めて以来のことである。堺衆と大徳寺といった関係が生じた。珠光の弟子宗悟は古岳宗亘に参禅したといわれ、武野紹鴎も同じく古岳に禅を学んだ。また、千利休もしばしば参禅した。
そして、紹鴎の師である古岳が堺に南宗庵を開き、三好長慶が父の菩提を弔うためにこれを南宗寺と改めてから、堺の豪商はその本山大徳寺との緊密な関係が構築され、財政的にも多大な支援がなされた。とくに南宗寺一世、大林宗套に対する堺の豪商たちの帰依は厚く、紹鴎門下の今井宗久、津田宗達、その息子宗及らは競って参禅した。こうして大徳寺を中心として、しだいに茶禅一味の思想が起こり、大徳寺と茶の関係が深化していくのである。戦国動乱の世の中を厭い。たとえ成功した豪商たちといえども、心の不安定は拭いようがなく、宗教の世界に救いを求めたといえる。
沢庵が49歳のとき、郷里の出石に帰り、荒廃していた宗鏡寺を再興し、後山に投淵軒を立てる。投淵軒という名は時勢を憂いて汨羅の淵に身を投じた、詩人屈原の故事からとった。すでに当時、富貴に近づき、媚び、仏法を売って渡世を営む坊さんがいた。沢庵は世間の名利から離れ、麻衣を一枚まとい、小鍋ひとつだけで野菜根を煮、米をとぎ、粥を作り、ただ自己の探求を深めた。出石で沢庵によって糠漬けダイコンが沢庵漬になった。
一般に歴史学者は日本人が精白米を食べるようになったのは、元禄時代頃(17世紀末から18世紀初頭)からで、沢庵和尚の生存していた時代の少し後である。従って、沢庵和尚の時代の糠はどこから得られたのだろうか?沢庵和尚の経歴を見てみよう。
沢庵漬と沢庵和尚の経歴は密接に関係している。とにかく不思議な漬物である。
沢庵漬の発案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)兵庫県出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。
京都 大徳寺とは
大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
後醍醐天皇の勅願所となり庇護を受けたが対立した室町幕府足利義満により格下げされた。以後在野的立場を取る。
応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興。
一休禅師に学んだ茶礼を堺の村田珠光・武野紹鴎・千利休へと伝えられ、茶の湯の完成へと到る。
大徳寺は茶道の高級サロン化し、権力者の情報交換の場となる。
沢庵との関係者
一休宗純 一休さんとして有名な一休禅師、大徳寺出身
千利休 茶の湯・大徳寺山門に置かれた利休の木像のため秀吉に切腹を命じられる。
明智光秀 沢庵が三条河原で処刑された光秀を大徳寺に埋葬する。
柳生 宗矩 大徳寺で知り合う、紫衣事件の後、赦免に尽力
千宗旦 千利休死後、茶道再興・沢庵と同期で大徳寺にて修行
沢庵が堺・南宗寺に住んでいた時代に江戸幕府は寺院法度制度を作った。慶長年間、家康は全国の寺院を政治的、経済的に規制して、中世寺院が持っていた特権を剥奪することだった。寺院法度制度によって、僧侶に階級が生まれ、本山末寺関係が生まれ、民衆はすべていずれの寺の檀家になることを強制され、檀家制度が生まれた。葬式仏教化が始まった。
天皇の帰依によって設立された大徳寺、妙心寺の二寺は日本でも純粋禅の道場であった。宗風は権門高貴にこびることなく、純粋禅の復興であった。二寺は皇室ゆかりの寺で江戸幕府の管理する五山とは別格であり、出世入寺は紫依出世といい、天皇の綸旨が必要だった。
紫衣(しえ)事件
寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の綸旨で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。紫衣は僧侶最高位のもののみが着用できる。この紫衣着用許可の勅許を、収入目当てに乱発したことが、いわゆる紫衣事件の引き金となる。
沢庵は兵庫県出石の投淵軒から怒って上京、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、その不当性を説明した。幕府に対する抗弁書は沢庵自らが書いた。幕府は中心人物である沢庵を山形県上ノ山に流罪にしました。ついには後水尾天皇の退位をみるにいたった。(明正天皇―860年ぶりの女性天皇が誕生し、天皇は上皇となり、天皇の生母の和子は東福門院と呼ばれる)沢庵と皇室との関係が生まれる。
上山藩主 土岐頼行は歓迎し、沢庵が上の山に到着すると沢庵の庵を営んで住まわせいたれりつくせりの厚遇をした。沢庵はこの庵に「春雨庵」と名づけた。
寛永9年に2代将軍秀忠が54歳で他界した。柳生宗矩等の尽力で7月に沢庵は赦免されて江戸に帰る事になった。
沢庵和尚の経歴から、沢庵漬を知ったのは出石の投淵軒に来る以前だろう。大徳寺で修行中は貧乏で筆耕にて生計し、堺についても着るものがなく、汗臭いので洗濯したら乾かないので居留守を使ったといわれている。大徳寺時代は糠の出る米を食したと思われない。堺の地に滞在していたとき、何処で沢庵漬となるものに出会ったのだろうか。茶道と大徳寺派南宗寺の関係から、裕福な堺の町人との関係が生じ、酒造時の精米の糠、酒の空き樽、瀬戸内の塩、干し大根等が揃い、禅寺の大根の塩漬から貧乏性の糠の貯え漬があったのを知った、もしくは工夫したと思う。木の樽に大根の糠漬を直接漬けたのは酒造りの税金を逃れるためかも知れない。この場合、沢庵漬けの発祥地は奈良か河内長野の天野山金剛寺付近になるだろう。
堺の茶の湯には振舞がつきものでした。振舞は美味しい料理(会席料理)、美味しい酒が必要となります。最後に香の物(漬物)が出ます。このために工夫したかも知れません。
前田安彦氏の研究より
戦国時代に連掛け,高架はぜ掛けに干し大根の掛け干しが始まりました。
大根を生のまま漬けたのでは、糠床が大根から出る水分でだめになり、塩がたくさん入ります。干して水分を抜いた大根は、糠床からうま味を吸収しやすくなります。また、干すことで大根がしんなりして、漬ける時に曲がり樽に漬けやすくなります。漬け上がりの歯ごたえも良くなり、甘味が増します。秋口に収穫した大根を冬に漬けて、1年間食べていたため、保存期間を長くするためにも、大根を干して漬けるようになりました。堺と奈良の間の生駒山から干し大根のために良い風が吹いていました。
紫衣事件によって山形県上山に流罪になった沢庵に藩主・土岐頼行が崇敬している沢庵のために小さくも豪華な一庵を建立した。沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し、「春雨庵」と名づけた。沢庵は流罪の身であったが、その名声を慕って教えを乞う者も多く、上山藩の相談役になっていた。時に沢庵和尚57歳
また頼行は歌人としても知られていた沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。流罪の身であっても何これと気遣ってくれるために、何不自由のない日々であった。ちなみに上山市に現存する春雨庵は昭和二十八年に沢庵の草庵を復元したものです。当時の春雨庵は後に品川・東海寺に移築されます。春雨庵を見学すると抹茶が出ます。案内の人のお茶の手前が良いので驚きました。茶道の文化が沢庵和尚によって、普及したのでしょう。当時の農民が持ってきた野菜で沢庵漬を教えてもらったという話もあります。
二代将軍秀忠が死ぬと、柳生宗矩らの尽力によって赦免されました(沢庵60歳)。そのときの沢庵の狂歌
御意なれば参りタク庵おもえどもむさしきたなし江戸はいやいや
と詠んだと伝えられている。
山形県の漬物組合は沢庵の遺徳をしのんで香の物まつり(たくわん祭り)開いている。
沢庵の人生で紫衣事件までと赦免された後と評価が分かれる。前者は権力に対抗する人であったが赦免の後は幕府権力の中枢に入り、江戸幕府の宗教政策の相談役となっていった。特に島原の乱の後の対キリスト教政策・紫衣事件によってこじれた朝廷との関係の修復が三代将軍家光の政策として重要になっていった。柳生 宗矩は将軍に沢庵を推薦した。沢庵は赦免後故郷に隠居する予定であったが家光によって江戸に来ることになった。その理由として紫衣事件の抗弁書を直接・将軍に説明し・誤解を解くことと上山から江戸に来て滞在した折・鎌倉の禅寺の荒廃をみて、京都・大徳寺の行く末を案じたのかもしれない。
柳生宗矩(やぎゅう むねのり(1571年) - 1646年)、剣術の面では将軍家師範としての地位を確立した剣豪政治家である。宗矩が沢庵と交友が始まるのは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦以前で大徳寺にて参禅した折、知り会ったと思われる。室町時代の末期に至ると、剣術の主たる流派は臨済禅宗の真理と結び付いた。江戸時代初期の臨済禅僧沢庵は「剣禅一如(真理は一体)を説いた。茶道においても茶禅一味(茶の湯は禅宗より出でたり、珠光、紹鴎、皆な禅宗なり)という言葉もある。特に印可という言葉が示すように師がその道に熟達した弟子に与える許可のことは禅宗・武道(剣術・槍術・柔道など)・茶道において使われていて、そして作成される書面は印可状と呼ばれる。
宗矩と沢庵の交流に茶道の三千家の父・千宗旦が加わった。
大徳寺の長老が、宗旦をひきたてる。沢庵が宗旦を柳生但馬守宗矩にひきあわせる。特に沢庵は千宗旦の子供たちの茶道師匠の地位を宗矩に頼んで世話してもらった。
寛永11年8月沢庵、京都にて後水尾上皇と仙洞御所にて歓談する。紫衣事件で退位した後の、後水尾上皇は、京都左京区に修学院離宮を創建し、幕府との交渉を絶つことになる。上皇となった後水尾は、以後51年間、院政をしくことになるが、文化人として茶道、立花、建築、造園、詩歌、連句等の分野で力を発揮した。
幕府・朝廷・禅宗・茶道等と沢庵漬の不思議な関係が生じるようになった。漬物のタクワンだよ!!
東海寺(とうかいじ)
臨済宗大徳寺派、万松山。臨済宗京都紫野大徳寺の末寺。開創、寛永15年(1638)。開山、澤庵宗彭。開基、徳川家光。明治維新後は、将軍家や大名家の支援が無くなり東海寺の財政基盤が破綻し、瞬く間に衰微した。江戸時代は寛永寺、増上寺とともに三大寺といわれていた。
★所在地:東京都品川区北品川3-11-9
★交 通:京浜急行・新馬場駅下車徒歩5分
三代将軍家光は沢庵のために品川に東海寺を建立し、徳川実記によると短い期間に70回以上来訪し茶会も開かれていた。寛永17年(1640)9月16日、御殿山の大茶会の後、家光は沢庵を招いて酒を振舞う。寛永の末期より家光は茶会の席で老臣会議を開いていた。
ある日のこと。三代将軍家光は「余は近頃なにを食べてもおいしくない。美味なものはないか」と問うた。沢庵は「それは簡単なことです。明日お出ましください。ただ準備に時間がかかります」と話した。
翌日、家光はやってきた。茶室へ案内すると、禅師は引きさがってしまう。どんなご馳走が出るかと、しばらく庭の景色など楽しんでいたが、一向に姿を現さない。次第にいらだってきたが、禅師に約束したので動けない。もう我慢も限界だと思ったとき、沢庵が現れ、お膳を出した。
お膳を見ると、黄色いものが二三切れ皿に載せられてあるだけで、あとは飯椀が添えられているだけであった。家光は空腹であったので「ご馳走になるぞ」と言うや、お椀を取って飯を食べ、その黄色いものを恐る恐る口に運んだ。ところが食べてみると、ほどよい塩加減で味はよく、こりこり実に歯ごたえがよい。顔の相好をくずして、「これはまことによい味じゃが、一体なんであるのか」と聞く。沢庵は「それは大根のぬか漬けでございます」と答えた。
沢庵はこの漬物はとても保存性があるので、「貯え漬け」と名づけ、日ごろから常食にしていたのである。そう説明すると、家光は「そうか、それなら貯え漬ではのうて、沢庵漬けがよいぞ。さすが和尚じゃ」と褒め称えたという。
東京都漬物事業協同組合の年史によると、このとき大根の糠漬が沢庵漬となったとされている。明治・大正期の東京の名産品は浅草のりと練馬の沢庵漬であった。A