数年前に都立中央図書館の地方史が並んでいる書架を眺めていた。東千葉の幕末に博徒同士のいさかいがあり、これを浪曲にして(天保水滸伝)となった。二足のワラジの飯岡助五郎が悪役になり、今に至る。史実とは違う。醤油醸造の地域と綿花栽培の肥料となる干し鰯漁業との争いだった。
将軍の東房総の小金原のしし狩りの準備で大掛かりの博徒包囲網でライバルの博徒が自決した。この時に活躍したのが土浦の内田佐左衛門と言う人だった。地元の人は博徒集団をかばっていて、包囲網を巧みに抜け出ていた。この土浦の人物の記録を調べるため、茨城県史の棚を眺めていた。色川三中と言う土浦の人の本が並んで5冊あった。それで読んでいると千葉の騒動を記録している6巻目が見当たらなかった。あとで気が付いたのだが当時はまだ東京都が購入していなかったと思っていた。ふと思って、土浦へ行って見よう。(上段の片隅に6巻目があったのを見落とした)
土浦へ着いて、歩いて市中を散策しながら、土浦博物館へ行く。そこから土浦図書館へ感ピュ-タで歩くが、見当たらないので、目にした土浦警察署に入って図書館の位置を聞く。そしてぶらぶら歩いて図書館へ着き、郷土資料の所で色川三中の本の所在を聞くが、何か勘違いされ待たされ、もう一度土浦博物館へ戻ることになった。あとで気が付いたのだが色川三中と言う人物は学者しか知らない様で土浦の人は図書館では読まない様だ。当然こちらも事情は知らない。
土浦博物館へ行って図書館から来たというと、学芸員が来て、都立中央図書館で6巻目が見当たらないと言ったら、ワザワザそんなことだけで東京から来たの言う感じで不思議そうな顔していた。博物館で6巻目を読み、学芸員に何を調べているのか説明した。福神漬と言ったらさらに不思議そうだった。ついでにタクワン漬の話をした。タクワン漬は茶道の知識が無いと本当の意味が解らないと言ってしまった。1回目の訪問はこれで終わった。
大原幽学記念館で打ち合わせがあるため、高野長英の文献を確認していたところ、評伝高野長英・鶴見俊輔著に色川三中所蔵の高野長英の判決文があった。この件で再び、土浦に行き、学芸員に会った。高野長英の文献の話をしたところ、色川三中の文献は見たことが無いが世田谷静嘉堂文庫にあるかもしれないと驚いていた。さらに土浦に長英の墓があると言って、案内をしてくれた。先ほど図書館への道を教えてくれた警察署の先に寺があって、確かに高野長英の名前のある墓碑があった。片道1Kはあった。随分丁寧な人と思ったがそれで忘れた。
今度再び高野長英の判決文の3人が流罪となったのに八丈島に流人の文献が見当たらないことと土浦の醤油の件(国分・日本橋漬)の件で下調べしていたら、学芸員の素性が解った。茶道の世界では有名な学芸員で茶道具の名物の所有者の変遷を研究している人だった。(名物茶入れの履歴書)
タクワン漬で茶道関係の知識が無いとタクワン漬の本当の命名由来が解らないと話したことが、今では釈迦に説法した気分となった。図書館でこの本を借り出し、確認したら本人だった。どうも名物の意味とタクワン漬の命名の意味が似ていると感じる。(東海寺のある品川区立歴史博物館学芸員の話ではタクワン漬は沢庵和尚が作ったものでない。)
コロナ下でも土浦に感染が低下した時訪問したい。でもあの時に6巻が見つかっていたら、学芸員から地元の人も忘れている高野長英の墓が土浦にあることを知らず、再度土浦に行くことも無かったと思う。何か不思議な気分。