土浦博物館でのタクワンの歴史を知るには茶道の歴史を知ることの話。
漬物の文献はあまりないし、あっても少ない。図書館にある農業系の学者の漬物の歴史の根拠は税金関係の文献からの引用が多く、あとは贈答品の記録から書かれている。売買の記録は神社の縁日のようなものを引用している。
そこで文学等から言葉を見つけるのだが現物の漬物が残っていることでないので同定することは難しい。タクワン漬に関してJAS規格のような定義が江戸時代以前にあったのでないのでタクワンと文献にあっても違う可能性もある。
戦国時代末期に大坂-堺付近の豪商あたりからタクワン漬が始まったと思われる。タクワン漬の成り立ちには4種類のものが同時期に揃わないといけない。
1 干し大根 雨が少ない時期に大根が採れ、干すことによって保存性が高くなる。さらに塩の使用量が減る効果がある。
2 塩 瀬戸内の塩が手に入れやすい。塩は食料と保存に使われるが漬物のように野菜の水分を出す目的の使用は塩が余った時しか使えない。つまり大量の塩が手に入る所 泉州堺は貿易港であった。今は大和川の変遷で港が土砂で埋まり、面影が無い。
3 米糠が多く産出する。戦国時代までコメの保存はモミの状態で保管され、食するとき、搗いてもみ殻を取り除く。ルイスフロイスの京都の文献でこの様な記述がある。この様な精米方法では大量の米ぬかが出ず、出ても食の増量として食べていたようだ。江戸料理事典を著した松下幸子と言う人の本では今の糠味噌漬のような漬物は江戸時代も後半だという。米ぬかが余らないといけないし、肥料用の米ぬか使用の方が圧倒的に多い。愛知県半田市は昔尾州海運の拠点で運搬している物資の中に尾張糠と言うのがあった。半田市は今はミツカン酢の発祥地で酒粕から酢を作っていた。この時発生する大量の米ぬかが輸送の記録となる。堺の豪商なら運ばれた酒の容器の再利用を考えることもあったと思われる。昔はモノを捨てなかった。
4 押しても壊れない容器の樽が必要となる。樽の製造には隙間の出ないように板を加工する台カンナが必要になる。長方形の鉋(台鉋) は室町時代から戦国時代に日本に伝わる。タクワン漬には押しが必要でカメでは重石で圧力をかけると割れてしまう。
水分の漏れない容器(樽)ができ、酒作りが盛んとなる。以前は酒はカメ・壺で作られていて、室町幕府から壺税を取られていた。地面に半分埋め温度変化の少なくして発酵を制御していた。しかし壺税を確認する役人が来るとごまかせない。樽なら夏場などの酒作りに適さない時期に壊してしまっておくことが出来るし、馬などを利用して運搬するにも重くなく適していた。
また日本の鉋は、海外の鉋の多くが押して使うのに対し、引いて使うことでも知られています。多門院日記で女性が樽の中に落ちて死去した記録がある。大きくなった樽は今でも各地の郷土資料博物館で見ることが出来る。そして古くなった樽は漬物業者の原料漬け込み用の樽となる。多分醸造に適さない菌が付着し廃棄して流通したと思われる。
この4種類の物が揃った時代が堺の最盛期の時だった。奈良で興福寺の末寺で菩提泉と言う清酒が出来た・それまではどぶろくのような濁り酒だった。漬物で奈良漬という商品はこの奈良の酒の粕で作られたから来ている。
ダジャレで かすが 粕が 春日 となる。ついでに正宗と言う酒のブランドは清酒・正宗.セイシュウとなる。このダジャレブランドが明治になって商標登録の問題があって、今の桜正宗の会社が正宗を登録しようととしたところ、普通名詞扱いされ、やむなく桜をつけ加え 桜正宗となったようだ。同様の問題も正宗を使うブランドで生じていたようだ。酒をおいしくするには米を研ぐ必要がある。この精米技術が進歩していたのが上方だった。そしてコメ余りにならないと糠の発生も少ない。すると江戸時代以前にはタクワンと同じようなものは考えにくい。そこでタクワンと名前がついたのだがこの名前の出所を調べるには茶道を知る方が一番説明しやすい。ただ茶会記が多数あって、全部の考証するには時間が足りない。おおよその調べでは元禄時代からタクワンと記事が出てくるようだ。その前は(香の物)と書かれていることが多い。漬物と言うのもある。
土浦博物館学芸員の著書を読んでいて、名物の名前の付け方に何か寓意のようなものを入れ、その寓意を読み解く文をつける様だ。その謎解きあそびが茶事・茶会の中にあるようで主人の意図をどう解釈するかのあそびのように思える。同じ器でも心の中では色々な解釈が生じる。
タクワンはこの様に考える時代考証も必要かもしれない。そこで資料の多さから茶会記からタクワンの命名時期を探ることを断念した。