異なる食文化へ他の食文化を入れるには、自国の食文化を変化しないように維持し、その間に現地食文化の情報を仕入れ、販売戦略を立てねばならない。戦前日本からアメリカへ多数の労働者が出稼ぎで現地で鉄道建設とか農産物栽培に参加した。次第に出稼ぎから現地在住化したが差別も激しく、そこそこの地位が得られたが先の戦争で本国と戦って元に戻った。それから日本経済が回復しアメリカ駐在員に日本食品は故郷をしのぶ食品として神戸から輸出されていた。阪神大震災で神戸は打撃受け、東京の方に少し日本食品輸出貿易が移った。昔は日本食品貿易は臭いの強烈さから揶揄して業界用語でタクワン貿易と言っていた。
韓国はキムチにこだわり、キムチの本家と自称しているが輸出のトン数では中国からの韓国向けが多い。そして韓国から金額では日本向けが多く、今は諸外国に輸出が増えているが、詳しく分析していないが戦前の日本人向けのタクワン貿易(日本食輸出)と同じように、異国の食文化に慣れない韓国人労働者向けのキムチ輸出と考えた方が良いのではないのだろうか。従って日本がタクワン貿易なら韓国はキムチ貿易である。どちらも臭い仲間である。
さて日本での韓国製ビン入りキムチを努力して成功し、成功したが故に災害で倒産した日本人経営者のHさんの話を書こう。
88年ソウルオリンピック前、韓国製発酵キムチが日本で一般のス-パ-に並び、韓国国内よりの高価格で韓国製ビン入りキムチが売れているのを見た在日の韓国人が様々なブランドを韓国から日本に輸出した。韓国でその当時、キムチを入れるガラスビン製造者は確か1社しかなく、類似の韓国キムチはレッテルしか差が無かった。そこである程度日本への輸出急増を抑えたのが夏場の冷蔵コンテナを扱う船の手配が難しかった。それも秋冬に行くに従い解消される。韓国キムチ輸入者の日本人経営者Hさんは需要地に近い港へ韓国製キムチを輸送するのでなく、韓国の日本に近い釜山港からフェリ-で九州に上陸させ、陸路を関東に向かった。船便は何か所の日本の港を立ち寄るので時間がかかるし、何と言っても関釜フェ-リ-は便数が多く、冷蔵コンテナの船積予約も取りやすかったと思われる。冬場は冷蔵輸送しなくても良かった。そこに日本だけの落とし穴があった。1995年1月17日早朝神戸を中心とした大震災があった。道路網が兵庫県で中断した。当然日本輸出入の最大の港の神戸港も被災した。
多くのキムチを積んだ車が西日本で立ち往生し、廃棄せざを得なかった。被害の無かった在日の関東に住んでいた韓国人キムチ輸入業者は横浜とか新潟の港の船便を手配し、立ち往生し、欠品しているHさんの代替として韓国製キムチの売り場をやすやすと占拠した。片方は賞味期限の問題で廃棄や超低価格で処分して大損害を受けた。営業努力もなく新規に売り場を確保した業者の差は大きかった。震災後に日本人Hさんの経営のキムチ輸入業者は資金繰りが苦しくなり倒産した。彼がいなければ今日の日本のス-パ-で韓国キムチはこれほど早く日本に普及しなかったと思われる。日本のキムチの発展史を在日の人から研究している人も80年代の急速な韓国産キムチの増え方が解らないと本に書いてあった。在日の韓国人とキムチの売れる前は深い付き合いが無かったのでこの歴史はだれも知らない。また関西は在日韓国人が多いので需要があり、日本人に媚びてキムチを売る必要性が無かった(味付けのエビなどの海産物を外す行為)。東日本の在日韓国人は少なかったし、Hさんのキムチが急拡大するのを見て、追従したと思われる。その後関東の数字を研究し関西に変化をもたらしたので、関西の韓国系のひとが急拡大の理由が不明だったと思われる。キムチにこだわりのない日本人が関東で韓国産発酵キムチの販売指導した。
同様の事例もあって、アメリカの寿司ブ-ムは日本人の力だけでは中々販路拡大が進まなかったがハリウッドのスタ-が寿司に関心をもってヘルシ-さを強調したので今日の海外での寿司ブ-ムとなった。このスタ-はロバ-ト・デ二-ロで一番高級なすし屋NOBU/ニュ-ヨ-クの共同経営者だった記憶がある。寿司ブ-ムはハリウッドから始まり、世界に広がる。これは日本人が努力しても無理な話だった。日本政府が旗振りして日本食を広めようとしているが過去の経験から現地のスタ-が美味しいと認め健康性を強調しないと普及しない。世界で生の魚を普通に食べていたのが日本人だった。食の世界は何処でも超保守的なのだ。今度のコロナ感染はキムチでは防げないようだ。
8へ続く