明治20(1887)年4月、伊藤博文内閣総理大臣官邸で開かれた、仮装舞踏会(ファンシー・ボール)で戸田伯爵夫人極子をレイプ未遂した事件報道があった。このことから明治政府の洋風化政策への批判もあり、演劇や芝居、小説の材料にもなって今日に伝わる。このことがどうしても福神漬を調べていると気になる。
事の始まりは大正12年7月に日本缶詰協会が大手町の三菱商事会議室で缶詰技術の会合があった。そこには来賓として軍の糧秣廠の人が来ていて、福神漬の命名由来を取材に来ていた鶯亭金升(戸田伊豆守3男=ペリ-来航時浦賀で米国国書を受け取る)から聞いて驚いていた。その軍人は上野の博物館の設立等に活躍した田中芳男博士等の命名由来を知っていたようだった。この逸話が缶詰協会の缶詰時報第二巻に掲載され、昭和10年の明治屋食品事典に福神漬(ふくじんつけ)として1項目が与えられ、文献の引用先として(食道楽・昭和6年2月号・味の素食の文化センタ-所蔵)大日本洋酒缶詰沿革史 1915年(大正4年)刊行(田中芳男等の命名由来)となっていて、2ペ-ジ程の記述なっている。
今もある京橋の明治屋は明治18年に日本郵船の発足と同時期に船舶用品納入業者して横浜から業務が始まった。その後会社の発展に伴い、輸入食品の会社となり、明治屋食品事典は従業員のための輸入食品や新規の食品・商品知識を共有するためのマニュアルが一般向けに出版された。従って福神漬はあっても漬物類は事典には項目が無かった。佃煮は大和煮の記述が目立っていた。缶詰の福神漬は今では少なくなって、酒悦の福神漬しか缶詰で市販されていない。国分の日本橋漬は大正元年の商標ブランドの福神漬だが数年前に缶詰は廃番となって今では国分本社1階で瓶詰の福神漬(日本橋漬)が販売されている。
東京都中央区の地域広報誌(月刊日本橋)で平成18年この日本橋漬の記事がある。中央区の郷土資料室で読んだ記事では大正元年に日本橋本銀町(今の本石町)で缶詰を製造していた青木平四郎が切り方や風味を工夫した改良福神漬を製造し、日本橋漬と名付け、缶のデザインと共に商品登録をした。翌年国分商店(現・国分)がこの日本橋漬に目をつけ、商標を譲り受けた。以来今でも当初の味が基本的に残っている感じがする。ただ大正年間の日本橋漬の塩分は今のより多いと思われる。(塩分濃度の変化は未確認)
戦後の食品製造技術の進歩と食品輸送・温度管理の進歩で塩分を高くしないでも長期販売が可能となって、多くの食品が低塩化しているので、過去の塩分から見るとその差が直ぐに気が付く。
鶯亭金升の福神漬命名由来を陸軍の糧秣廠の役人に話したのは関東大震災の一月前の話だった。今から思えば大正デモクラシ-と言う時代を終わらせる天災だった。鶯亭金升のムダ書きが戦後に鶯亭金升日記となり、戦前の演劇関係の資料として重宝されているが、金升はあとで読まれてもよいように自己弁護とかがかなりあって、時代的背景が解らないといけない日記と思われる。そしてこの日記に石井研堂の明治事物起源(缶詰の始まり)が加わる。
普通の親戚付き合いは贈答品の記録とかはがき等の記録が残って無いと解らない。
コロナの感染で思わぬところから内内の秘密の宴会が発覚した事例を知った。