年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

阪谷 朗廬(さかたに ろうろ

2021年04月06日 | 宅老のグチ
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ ・岡山出身
 多分、この人の名前は親族かよほどの谷中墓地を趣味として散策する人、出身地の縁ある人しか知らないだろうと思っていた。
 谷根千工房の谷中墓地掃苔録に取り上げていた自由民権運動福島事件被告人花香恭次郎と同じぺ―ジにあって、漢学者らしい名前だなと思っていて最近まで気にはしていなかった。
 狩野派最後の絵師河鍋暁斎の評伝を未発表のまま死去した飯島半十郎(虚心)が明治の初めに参加していた教科書編纂仲間の洋洋社に阪谷 朗廬がいた。
 念のため、ネット検索と図書館検索で子孫たちが評伝を書いていたので、借り出して読む。子孫の方が書いた(三代の系譜)を読む。結構福神漬を調べているときに出会った人物と重なる。三島通庸・渋沢栄一などが先祖のようで、一番驚いたのが芸州藩主だった浅野長勲が出て来ている。この人は団団珍聞の影の支援者だった。何か岡山、広島の戊辰戦争で複雑な想いで参加し、維新後薩長政権から外されたが個々の縁で結びついて、今に評伝が残る。ある時は悪評判があったと思われるが記憶と記録に残してもらうと助かる。
 岡山県の学校法人 興譲館 興譲館高等学校 はペリ-来航後まもなく阪谷 朗廬によって、学塾が作られ、今の学校はその意思を継承していて、初期の塾舎と校門が残り、興譲館という扁額は渋沢栄一の書と言う。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一が引退する時、唯一残した最後の仕事は身体・知的障碍者関係の支援だった。
コメント
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