営団地下鉄麹町駅上の歩道に二番町の江戸時代の絵図があって、これを眺めていたら、反対側に地学会館と言う建物があった。確か地学協会と言うのが明治12年4月26日 に設立され、協会の会長が北白川宮能久親王だった。あとは農水関係の協会とかも北白川宮が関係していた記憶がある。能久親王は戊辰戦争の上野戦争から歴史の表舞台に出て来て、賊軍の代表として維新後肩身の狭い立場に置かれた。日本と清国の戦争が終わる寸前に、能久親王をいじめていた有栖川宮が死去し、弟の小松宮の計らいで、朝鮮半島に向かい、さらに台湾に行き、そこで戦病死したという。一応明治の日本国の見解では病死だが、森鴎外(医師として台湾に居て)の個人記録では何かトラブルがあって、病気となり、風土病に罹って死去したようだ。マラリアと思われる。もし戦死となれば、犯人捜しの問題が生じると北白川宮は考えていたようだ。戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ、死に所を探して台湾と言う地図で亜熱帯の未知の病がある所へ行ったのは名誉挽回のためで、台湾の人に犯人捜しの迷惑をかけるわけにはゆかないと考えた様だ。西南戦争で鹿児島の城山で自決した西郷隆盛の気持ちと似ている。北白川宮の銅像は北の丸の近衛師団前にある。小松宮の銅像は上野動物園の前にある。そして西郷隆盛の銅像が上野公園山下口の上のある。上野公園には戊辰戦争の想いが残る。
地学協会が伊能忠敬の表彰を明治16年1月に申請している。この時千葉県佐原市の大須賀庸之助 が推薦したのだが第一回衆議院選挙千葉3区で花香恭次郎を大差で破り衆議院議員となった人で、佐原付近の地図で千葉県が茨城に食い込んでいるの大須賀庸之助 の力を今に地図に残している。