福神漬は明治10年代後半に缶詰に入れた醤油で漬けた野菜の漬物から諸説が生まれた。大方の説では明治18年に命名されたという。創製した酒悦さんの話では上野公園が戊辰戦争・上野戦争(彰義隊)の戦争で荒廃し、元の行楽地に復活する時期で、観光客用の持ち運びの出来る食品開発をしていたという。
古い年代から諸説を上げると
河村瑞賢説
了翁禅師説
酒悦主人・野田清衛門説
陶山・田中芳男説などがある。
また日本における缶詰の始まりも3系統の話があって、日本缶詰協会では長崎の松田雅典説で長崎市は日本での缶詰製造の始まりとしている。また缶詰協会の工業的生産として北海道開拓使の缶詰製造が挙げられている。ただ明治事物起源を著した石井研堂は山田箕之助とし、米国人から製造方法を習ったという。
福神漬のJAS規格の定義から行くと酒悦説が妥当だが他の説もそれなりの根拠があって、火のない所に煙が立たないという感じがする。
河村瑞賢説は新川の酒問屋か高橋太華(根岸党)あたりから広まったかもしれない。了翁禅師説は京都の中国風禅宗万福寺の影響から来ているかもしれない。これは長崎貿易の砂糖から来ている可能性がある。
一番研究しにくいのが田中芳男説で彼が農林水産系の業績が残る。
大日本洋酒缶詰沿革史―日本和洋酒缶詰新聞 1915 大正4年頃の出版で、福神漬の史料としては古い。この本で田中説がある。田中の説は彼の業績から、農林水産業の発展の過程で缶詰を取り上げた気がする。福神漬命名時は松方デフレの時代で旧来の産業を保護しつつ、失業した武士へ従来の仕事と競合しない産業開発を目指していたようだ。例を挙げると、牛乳から牧畜などから札幌農学校へ向かう。水産物を缶詰に入れて輸出する。しかし、官営の事業は殆ど失敗し、失敗した事業を引き継いだ人たちが生き残った。多くの西洋から日本に入った事業が西南戦争からほぼ10年毎の戦争で軍隊と言う安定した販売先で事業が継続できた。今は消えた福神漬も大正12年の震災前は缶詰協会の中でも缶詰食品の中で重い地位があった。
先の大戦で日本は負けたが、軍隊と言う組織を支援する食品産業があったことを調べる人は少ない。兵器は戦争や演習で消耗するが、食は日々消化して、さらに国が代価を支払うので安心できる。多くの陸軍師団に納品していた漬物会社が今でも社史に残る。陸軍は福神漬とタクワンと日の丸弁当用の赤い梅干し。
昭和の初めの中国の戦線拡大と練馬の大根の病気がどうかかわったかまだ文献は見つからない。