年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

記憶をたどってゲイシャ・ブランドの缶詰

2021年04月10日 | 宅老のグチ
明治期にゲイシャ営業(料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)がまとめて「三業」) には鑑札があって、一等は新橋と柳橋だった。時期よって変動する。一等の鑑札が高く、花代も高かった。(築地市場の水産部仲卸組合の権利証が今でも鑑札と呼ばれている。)
 明治の新聞で校書と書いてあって、ルビがふってあって、ゲイシャとなっていた。唐の時代元稹(げんしん)が蜀に使者として行ったとき、接待に出た妓女薛濤(せっとう)の文才を認め、校書郎に任じたという「唐才子伝」の故事から芸者のこと意味する。従って校書とあるのは体を売らないで芸能を披露する人を意味する。 

[逆欠如の日本生活文化-日本にあるものは世界にあるか]園田英弘編著 (芸者とホステスと日本と 井上章一著)
 明治のゲイシャは娼婦ではない。しかし娼婦的行為がなかったということもない。18世紀の江戸と上方に芸者が登場した。江戸の遊郭はただ売買春が行われるだけの場所ではなかった。そこには歌や踊りの出し物があり、廓芸者は其の出し物のために養成されていた。初期の遊女の売春と芸能を分離したのがゲイシャの始まりであったという。中国の文献で女性が宴席で詩などを披露していたようだ。音曲もあったと思われる。日本で女流歌人で宴席もこなす人は清少納言が想像できる。しかし彼女は芸者ではない。
 一方廓芸者と対極にある町芸者は江戸や上方の茶屋や船宿の宴席に招かれ、さらに武家や商家の屋敷にも出かけていた。江戸の留守居役の宴席に女性が列席していたのは芸者と推測される。幕末から明治・大正にかけて非合法な町芸者の売春が今日のゲイシャ買春との印象を引きずっている。明治の初期の遊郭等の売買春は不平等条約改正を求める中で問題となっていた。女性が自立できない状態で遊郭から解放されても元の状態に戻るしかなかった例が多かったといえる。明治中期の下谷芸者はどんな状態だったのだろうか。
 明治10年代に缶詰入りの漬物が高価となって、一般人には売れなかった。そこでブランド(福神漬・宣伝文)の作成依頼を有名だった戯作者に頼んだ。口コミ販売を担ったのは、三菱の岩崎邸の池之端茅町に近い、数寄屋町・大茂だった。(岩崎弥太郎の死去時に多数の芸者の写真があった。宴席で客の好みに合う芸妓を選んであたという)芸妓のしつけは厳しく、一等芸者でも大茂の宴席は緊張して行ったという。第三代日本銀行総裁となった日本郵船出身の川田小一郎は横浜富貴楼のお倉に頼み込んで、堅物だった芸者を権妻とした。祇園甲部歌舞練場 は明治6年から京都の芸者教育を担っていて、川田は新興の東京の芸者の教育をするため、新橋演舞場を作り新橋芸者を一流にした。鉄道に終着駅でもあってさらに政府の官僚の出入もあって繁盛した。しかし新橋と隣の築地の海軍の若者が堕落しそうになり、江田島へ海軍の学校が移転した。
 もう少し長く築地に海軍兵学校があったら、陸軍より先に福神漬缶詰が採用されたかもしれない。今豊洲へ移った、旧築地市場に水産部の駐車場がある。ここに終戦まで海軍経理学校があった。築地市場の場内放送で経理学校跡と言う言葉があった。
 今でもアフリカ市場でゲイシャというブランドの缶詰がある。旧野崎産業が川商フ-ズとなり、JFEという鉄関係の孫会社となっている。
フジヤマゲイシャのイメ-ジは今でも続き、京都の舞妓さんたちが被害を受けていた。今はコロナで激変し、昔の落ち付いた姿が見える。
 明治期の食品等の高級なものは4者に売り込むことが言われ、医者・学者・役者そして芸者に口コミ宣伝をお願いしていた。福神漬の販売手法は芸者が気になる。ビールなどの売り込みは医者や学者によって、健康性のある宣伝文があった。福神漬はこれだけでご飯が食べられるという節約性が強調されていた。  

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