年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

徳川元子の本から福神漬

2021年04月21日 | 福神漬
徳川伯爵夫人の75年 遠いうた 徳川元子著 文春文庫2005年
以前、都立中央図書館で読んだ本がコロナで再読することが出来ず、アマゾンで検索するといつの間に文春文庫となっていて、早速購入した。
 元子の大正年間の話では市ヶ谷付近の住まいには元の大垣藩の藩士の子弟が詰めていて、殿様に使えているような言葉使いだった。文庫本と都立中央図書館で読んだ本と何か同じ本とは思えない。
 徳川元子さんの本から大垣藩の戊申の混乱が感じられ、さらに明治の初めの諸事情が解ってくる。
 鳥羽伏見の戦いのとき、大垣藩は藩の重臣小原鉄心の息子達が幕府方に参加していた。この時小原鉄心は朝廷側に参加していて、急遽大垣に戻り、敗北した幕府から藩の方針を朝廷側に変え、藩主氏共を京都に行かせ、朝廷に謝罪させた。さらに岩倉具視の長男具貞の指揮の東征軍大垣藩は参加した。
関ケ原の戦いで示すように大垣は東西日本の交通の要の地で、東征軍は大垣で長期滞在し、その間に西国を朝廷側の支配に置いた。この功績から、岩倉具視は二女の極子(14歳)を戸田氏共(16歳)の妻としました。
 東征軍は中山道を伝い江戸に向かいました。大垣藩は朝廷方に帰順を示す活躍をしましたが途中で軍資金が足りなくなり、横浜の豪商高島嘉右衛門を頼り、外国商人から軍資金を借りることに成功しました。これは高島嘉右衛門の姉が大垣藩9代藩主戸田氏正の側室となって、戸田欽堂を産んだ関係から来ています。大垣藩の窮地を救った小原鉄心はペリ-来航時、親族だった戸田伊豆守の要請で、浦賀の野次馬警備に参加し、アメリカの黒船の装備を実地検分することが出来て藩の兵器の近代化を指導しました。さらに頼山陽と親しかった女流歌人の江馬 細香 に漢詩の指導を受けていた。幕末の攘夷思想の根幹をなす頼山陽との関係を見る必要がある。頼山陽の死後に彼の著作の整理をしたのが関藤藤陰(石川和介)でした。福山藩の儒官 になっていた石川は阿倍伊勢守に抜擢され江戸へ行き、阿部正弘に水戸藩徳川斉昭の赦免を働きかけて実現させ、やがて斉昭は幕府の海防参与に起用されることになった。また 浦賀奉行の人事の陰で活躍し、浦賀の与力たちと水戸藩を結び付けたようです。中島三郎助が生きた鯛を浦賀から水戸藩屋敷に運び入れ、塩の輸送に水戸藩の旗の使用を得たようです。(中島三郎助文書・付属書・芳子聞書・覚書より 中島芳子 )
 日暮里の福神漬顕彰碑と石井研堂の缶詰の始まりに出てくる行徳漬物商人が戊辰戦争の最後の戦いで浦賀の中島三郎助と共に戦死したのはこの様な歴史が隠されていた。
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