幸徳秋水
生年明治4年(1871).9.22. 高知県中村
没年1911.1.24. 東京で死刑死
社会運動家,無政府主義者。本名は伝次郎。1887年保安条例で東京を追われ,大阪で高知県の先輩中江兆民に師事,その思想的影響下に唯物論を学ぶ。のち上京して『自由新聞』で記者生活を始める。自由新聞の絡みで団団珍聞で社説(茶説)を書くようになった。
没年1911.1.24. 東京で死刑死
社会運動家,無政府主義者。本名は伝次郎。1887年保安条例で東京を追われ,大阪で高知県の先輩中江兆民に師事,その思想的影響下に唯物論を学ぶ。のち上京して『自由新聞』で記者生活を始める。自由新聞の絡みで団団珍聞で社説(茶説)を書くようになった。
過日調べた都立中央図書館で 団団珍聞(まるまるちんぶん) 複製版1巻 の初めの解説でこの風刺漫画雑誌の沿革からその影響を解説していて、創立者野村文夫が死去後に、幸徳秋水が団団珍聞に入った経緯が理解できた。
野村の死去時には団団珍聞の勢いが消えていて、かろうじて幸徳の茶説で保っていたが編集・経営の考え方で対立し雑誌は消えた。1877年(明治10年)から1907年(明治40年)まで刊行。自由新聞の大岡育三の経営に移った団団珍聞は銀座4丁目で編集していたのに、団団珍聞の出版住所は神田区雉子町32だった。ここの住所は正岡子規の在籍していた新聞日本と同じで、一時同居となっている。
明治の終わりの社会主義者弾圧事件の大逆事件は今では歴史家から冤罪と見なされているが当時の評価はどうだったのだろうか。鶯亭金升日記には第三者的な目線で書かれて、自分の付き合っていた時の大杉とは違っていたと書いてあった。野村文夫の死去後の珍聞館時代は真木痴嚢と鶯亭金升が編集の二本柱だった。自由民権の時代は遠く、日清戦争・日露戦争に連勝した後の団団珍聞は、政治批判が薄くなり芸妓の話題と漫画が多くなり、風刺戯画雑誌の色彩は薄れて行った。 風俗的な雑誌になって政治批判は避けていたが幸徳秋水の茶説で出版数を保っていたと複製版の解説で書かれいた。
図書館で幸徳秋水全集第一巻を借り出し、返本前にもう一度読んでいたら、明治33年の秋水の茶説に猫の論があった。明治期の猫は二本松の儒者服部撫松が命名したと思われる新橋等の芸者のことを暗示していた。男のところにミャ-ミャ-と泣きすり寄る芸者の姿からだと思うが初出の通説はない。明治期はじめの新聞で校書と書いてルビでゲイシャとふってあった。(中国、唐代の名妓、薛濤(せっとう)がその文才を元稹(げんしん)に認められ、校書郎に任ぜられたことから) 芸妓、芸者の異称。 芸者の始まりは中国から宴席を盛り上げる女性から始まり、日本では幕府内部の情報交換の場で女性が宴席を盛り上げている絵が見える。出自不明の花香恭次郎はこの宴席の女姓と戸田伊豆守氏栄との子と思われるが学者は証拠がないので出自不明となっている。佐倉藩の依田学海を描いた『最後の江戸留守居役』は留守居役の交際時の風景の絵がある。明治の初期の新聞では校書が出ていたが、次第に消えて芸者となった。漢文の素養が消えたと思う。
幸徳秋水の猫の論は風が吹くと桶屋が儲かる話と芸者猫の取り締まりとを面白おかしく団団珍聞の読者に茶説として書いてある。このころはまだ秋水が無政府論者ではなかった。従って鶯亭金升の同僚だった秋水が反逆者として処刑されたのは想像していなかった。金升の雑俳の仲間に和歌山の新宮の大石誠之助も大逆事件で処刑されている。金升は政治から逃げていると感じているが周囲に過激な人が集まる。金升は何か不思議な人物である。反体制派から非体制派の人を集める。しかし自分は政治経済から逃げの姿勢で、これは父の長井昌言の遺言だろう。従って鶯亭金升は人名事典では演劇系の経歴が書かれている。