先の戦争で叔父が沖縄嘉手納沖の米軍艦船の台湾の仲間と知覧からの出撃で多くの戦果をあげた。米軍の記録でも被災記録が残っている。沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。 沖縄の組織的戦闘が終わっても、沖縄への特攻は続いた。
天気情報から昭和20年の今頃は沖縄も梅雨明けだった気がするが情報は米軍しか持っていないと思われる。日本軍の天気情報は軍事機密だった。あれから77年経って時計が元に戻ってウクライナから始まった世界大戦前の気分に今はなっている。
沖縄の南部に戦争で亡くなった人たちの慰霊碑がある。そこには嘉手納沖で特攻死した叔父の名前があるという。まだ行ったことがない。そこと伊江島と台湾国防大学(旧日本陸軍八塊基地)を訪問し、叔父の墓の付近に現地の石を置きたい、どこかの由緒不明の物体が叔父の墓の中にある。
沖縄の梅雨明けは台風の接近の季節となり、中国海軍もこれには負ける。今年はまだ台風2号までで、帳尻合わせが台風が来るかもしれない。ここ数年は線状降水帯の雨で多くの水害が出た。
6月21日に叔父の最後の日々を知っている女性に会った。彼女は当時14歳の台湾女子高校生?だった。戦時下の台湾で敗色が濃い中、縁あって叔父たちの特攻隊員との交流があって、戦後に同期の戦友が亡くなっているのに特攻隊員の選考に漏れ生き残って苦しんでいた特攻隊員と結婚し、今は逆さ歌のユ-チュ-バ-として90歳で活躍している。千葉県習志野の市民会館でのコンサ-トは300名近い観客で楽しんだ。人が消えた会場で初めて話をした。叔父の最後の3週間ほど知っている唯一の人である。もう戦友も生きていれば100歳近くなるので死んでしまっているようだ。
これで叔父の亡念が収まればよいのだがしつこい叔父の亡念はまだ我々家族を調査継続に仕向けるだろう。でも77年の年月に何が残っているのだろうか。
彼女のことが気になる人は、ユーチュ-ブで逆さ歌と検索すれば出てきます。どうやら小学校での講演で戦時下の話もあるようです。