今の日本で生きている人は敗戦直後から数年間の食事情を知っているのだろうか?
北海道弁護士会のコラム(─虚像を斬る─ 山口判事没後55年に思う
函館弁護士会 山形道文)で配給だけで生活し、餓死した裁判官の真実が調べ記述している。山形氏の指摘があるように多くの歴史辞書等で餓死した山口判事の記録に誤りがあって、さらに編纂者の都合の良いように事実を改変や歪曲している部分もあり、それを調査しないで引用している例が多いという。
戦争が終わって、8月15日の記事から翌日には新聞論旨が正反対になった。戦時中は鬼畜米英の紙面が8月16日からは見習え民主主義と転換した。この価値観の大転換は江戸幕府が崩壊した時にもあった。言論統制に慣れた論説委員はどんな気持ちだったのだろうか。
敗戦後の国土は田畑山林が荒廃し、さらに台風などの災害で食料が不足し、配給の食料だけでは生きてゆけない状態だった。消えた軍隊の戦争継続のための備蓄食料を力任せで盗んでいた。弱肉強食。特攻隊崩れという言葉もあった。 敗戦により復員してきた特攻隊の生き残りで、社会的な規範を無視したり、平気で常識外れの行動をとる連中をこう呼んでいた。
坂口安吾 (特攻隊に捧ぐ)
農漁村部出身でない人たちは何らかの不正な手段で食料を確保し生き残った。この件で今は戦時中の話をしても戦後の混乱期をどう生きていたかの記録が少ない・多くの記憶は子孫に残したくない記憶だろう。タダ米軍の写真は戦後の日本の状況を残している。不正しないで生きることが困難だった。だからこの時期の記録と記憶が消し去られている。都合の悪いことは記憶を消す。
新宿区の大根街道 (清戸道)を練馬から野菜を大八車で青果市場へ運んでいる写真を見たことがある。そのダイコン等の野菜の上に空樽が載っている。この樽は東京市内で排泄物のくみ取った物を入れる容器だった。野菜の肥料だった。進駐軍の兵士は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んでいた。 下肥で育った野菜を食べていた戦後の小学生は体の中に巣食う回虫駆除の薬を飲まされた。今の小学生が聞いたらとても信じられないだろう。有機の肥料は多くは動物の排泄物の由来である。
今食料の元になる肥料等の高騰と不足が意識されている。油断していたようだ。今日は停電予告が出されている。夕方からの帰宅時間が危ない。