年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

開国の地 浦賀のイベント行き

2023年10月01日 | 宅老のグチ
グ-グルアラ-トと言う機能に中島三郎助の名前を登録してある。26日に中島三郎助のイベントが10月9日まで京急浦賀駅で降りたところにある浦賀ドック跡地で開催しているという。
 ペリ―来航時に黒船に乗り込んだ中島三郎助は副奉行と地位を偽り、通詞の堀辰之助とともに乗り込んだ。ペリ―等に気に入られた香山栄左衛門 は浦賀の与力たちに妬みをかい、閑職に回された。香山の死後に子息の手で香山の功績を叶神社に石碑を建てた。この石碑を観に行きたいと思っていたが機会が無く、このイベントのついでに行くことにした。アメリカとの交渉は香山の功績があるのに、あまりにも米国人と親しく振舞うので日米交渉の場から戸田浦賀奉行と香山等の浦賀組が外された。今は横浜が繁栄しているが、JRの駅の横浜と開港した時の横浜の位置は違っていて、JR桜木町駅が文明開化の地となる。この地に開港の港を決めたのが香山の案内で米国人の了解を受けたようだ。足して二で割る精神は米国人には理解できなく、幕府は東海道から離れたところに開港という考えを持っていた。従って伊豆半島の下田は開港地として選ばれたのが離れているということになる。長崎は日本の外れ、箱館は北海道。しかし米国人には補給が出来れば同じと言う。開港の地が横浜であれば良くて、神戸が選ばれたのは政治の中心が朝廷と思われた時期からだろう。さすがに初期の開港地に神戸案は出せなかったと思われる。神戸開港が慶應3年12月なので大政奉還後だろう。この後神戸の居留地を通過した大名行列と異国人との騒動があって、京都政府が日本の武士を切腹させた。神戸事件。これで新政府が攘夷を行う名目がきえた。これは岩倉具視の策と言う。尊皇討幕と言うことから転換し諸外国が中立になって、錦の御旗で幕府があっという間に崩れた。そこから抵抗していたのは江戸庶民と浦賀の地場役人だった。
 中島三郎助は天保の改革で株仲間の禁止措置で西浦賀の塩商人が苦しくなった。同様に江戸でも塩問屋の流通から、棒手振商人が塩を扱い、流通網が乱れた。《「ぼうてふり」の音変化》魚・青物などを、てんびん棒でかついで売り歩くこと。移転前の築地市場で見たことがある。天秤棒で場外の料亭に運ぶ。
 浦賀の塩問屋から依頼された中島は水戸藩に西洋の船の作り方を教え、交換に水戸藩の旗を浦賀の塩輸送船に許してもらった。IHI石川島造船所の始まり。この辺りで行徳の塩仲間と浦賀与力衆と交流が あって、戊辰戦争の最後の戦闘で中島と行徳塩商人喜兵衛が戦死し、幕末の混乱が終わった。従って中島三郎助が(義)と言う言葉で江戸時代を終わらしたことになる。
コメント
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