年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

浦賀の千代ケ崎砲台跡の見学で想ったこと

2023年10月08日 | 宅老のグチ
横須賀市西浦賀の千代ケ崎砲台跡が少し前に公開されたことを先日訪問した浦賀ドック跡で開催されている幕末イベントで聞いた。このイベントで千代ケ崎行きの整理券が配布されていて、家で調べると歩いてゆけるのではないかと考え向かった。
千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により造られた平根山台場跡地に隣接し、1892(明治25)年から1895(明治28)年にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台だった。横須賀市は無料公開していて、さらに無料のガイド付きで砲台見学が出来る。土日のみで普通に公開すればよいのにと思っていたが、実際にガイド付きで数人の人とめぐると、ガイド無しでは危険な部分もあった。大きな砲弾を移動させる穴。砲弾の重さは一つ200kgを超える。
 6基の榴弾砲があったが先の戦争で金属供出で大砲も扉の金具も撤去されていてた跡が見える。砲弾の飛距離は7Kという。これは浦賀水道の中間まで飛ぶという。ガイドの人に聞くと反対側の房総半島には砲台はない。その理由は浦賀寄りが水深が深く、ほとんどの船が浦賀寄りを通るという。
 千代ケ崎砲台の前に燈明堂を見学していて案内板を眺めていた。慶安元年(1648年)幕府の命令で作られ明治5年まで役割を果たした日本式灯台で「燈明堂」と呼ばれていた。「燈明堂」は浦賀港に出入りする船にとって灯台の役割を長い間担ってきた。燈明堂海岸は横須賀市浦賀町に残された昔の面影を残す横須賀市指定史跡でもある。燈明堂の所に死者を弔う墓石のような碑があった。鈴ヶ森の首がさらされている写真は今でも残っている。ある人の燈明堂に関するブログを読んでいたらバブル期にこの地域が手つかずに残ったのはこの地の亡霊が妨げたようだ。
 砲台見学の後浦賀駅に歩いて向かったのだが特養の太陽の家の出口の所に未開発の工事予告看板があった。気になって見ると平成5年8月の申請でホテル及び商業施設となっていた。もう30年近く工事が止まっていて、草が生い茂っている。
 燈明堂と千代ケ崎砲台跡は平根山台場と言って砲台があった。天保8年1837年に日本人漂流民を届けると言ってアメリカ商船が浦賀に停泊し、浦賀奉行と交渉したが、平根山台場から砲撃され退去した。モリソン号事件と言う。この平和交渉を無視した行為を批判したのが高野長英だった。今に伝わる『戊戌夢物語』である。この当時の浦賀に異国船が来ていた時の絵があって、舟が多くの漁船等に取り囲まれていて、東京湾内に入らないようにしていたので砲弾が当たらないとわかっていても動けないので逃げたと思わる。帆船は風が無いと動けないがペリ―のサスケハナ号は蒸気で外輪を回して前後に動くことも出来る船で驚いたようだ。また大砲の数もすべての浦賀の大砲よりも多く、さらに飛距離もあった。 
 千代ケ崎砲台見学後にガイドの人に浦賀駅まで歩くとどのくらい時間がかかるかと聞くと1時間弱と言う。3Kmという表示があった。バスは久里浜―浦賀駅行きは1時間に一本位なので歩いて浦賀ドックのイベントに行き、中島三郎助と遊ぶ会の人と福神漬の事で話す。
 歩数は17000歩だった。すんなり千代ケ崎砲台行きなら40分も歩けば着くが愛宕山とその下の浦賀奉行所跡地を回ったので時間と疲れが残った。中島三郎助の会の人とはなしたとき、浦賀のドック跡地が無償で住友重機械工業から横須賀市へ譲られたということの真実を知った。これは築地市場の豊洲移転の問題騒動の余波だった。浦賀ドックの地下には汚染物資があって、豊洲の東京ガス跡地と同様の処理を行っても、日本の今の技術では減っても取り除かれない。豊洲の様に跡地が高価に転売できるのは浦賀のバブル崩壊から期待できない。西浦賀のヨットハ-バ-隣接のリゾ-トマンションの70m2の中古価格のサイトで調べると築37年で2千万円強だった。今ならリモ-ト勤務が出来そうだがバス便が少なく、浦賀駅から歩くと30分はかかると歩きながら思っていた。
 横須賀市は汚染除去をしないで、有効活用を狙っているがまだ知恵のある人がいないようだ。だが今回の浦賀のイベントを見ていると、浦賀の街おこしに若い人の行動力はまだ希望があると感じた。歴史を今風に解釈し、観光イベントとする。ただ見るだけでなく、飲食と体を動かす。
 横須賀市は居住人口が減っていて、高齢化で坂のある町から人が去り、無住の危険な家が増えている。まだ浦賀駅寄りのドックは住友重機械工業が持ち主のようだ。

コメント
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