年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

黒船来航170年で中島三郎助と福神漬の縁

2023年10月07日 | 福神漬
今横須賀市浦賀で黒船来航170年のイベントが開催されている。高校の歴史の本が2022年から替わって、近代日本史と世界史が混じった歴史を教えるという。歴史総合(高校新課程) 
 日本史教育で近現代の所になると学校行事等で教えることもなく卒業する。
 海外旅行が普通に出来るようになると日本の若者がアジアで過去の歴史を知らないことの不都合が目立ってきた。そこで学校で日本近代史と世界史を混合するという目的で歴史総合となったという。
 日本史の場合は黒船来航からという。その黒船に最初に乗り込んだのが浦賀与力の中島三郎助であった。そして明治維新の終わりとなった箱館戦争の最後の戦いで中島隊(浦賀の人たち)が戦死し、翌日に休戦となり戊辰戦争は終わった。新選組の土方歳三 は中島隊が亡くなる前に死去したという。この新選組の様子をスケッチした新選組隊士がいる。鳥羽伏見の戦い以後に新選組に参加した三多摩の中島登が敗戦後の獄中で描いた絵が残っている。有名なのが土方の絵であるが土方の洋服姿の写真もあって、スケッチに中島登の想いが今に伝わる。
 市立函館博物館 で戦友姿絵を見ることが出来る。この中に中島三郎助父子の絵もある。なお箱館戦争に参加していて、福神漬関連の文献に1人出て来る人物がいる。河鍋暁斎翁伝.  飯島半十郎(虚心) 著. 福神漬を命名した梅亭金駕は別名で暁斎画談と言う本を出している。
 福神漬を命名した時の経緯を日本缶詰協会の会合で話したのが鶯亭金升(長井総太郎)だった。このことは京橋の明治屋が従業員のための教本に福神漬が載っていて、文献として缶詰時報2号と大日本洋酒缶詰沿革史 である。

 鶯亭金升の父、長井昌言はペリ―来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の三男である。その長井家の墓がいま五反田の本立寺にある。本立寺の住職は戦友姿絵を描いた中島登の子孫になる。住職と話した時、長井家が明治の終わり頃四谷の寺が移転することになった時、墓を五反田に移したという。当時の感覚では五反田高輪台は郊外という。
 戸田伊豆守氏栄と旗本長井家の養子斡旋したのが筒井政憲でペリ―来航時の米国国書を翻訳した人である。筒井と長井家は四谷二番町の近所だった。今の日本テレビ麹町のあたりとなる。筒井家に出入りしていた松林伯円は南町奉行だった筒井から色々なことを聞き出し、講談としたようだ。後に歌舞伎の演目になった物もある。
 

 
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