浦賀ドックの跡地のイベントで西浦賀の塩問屋と中島三郎助・千葉行徳の喜兵衛との関係を調べなおした。すると今まで気が付かなかったのだが最近の近世日本水運史ではペリ―来航時の水運は樽廻船が主流でなく内海船という。この内海というのは今の愛知県知多半島の海運という。
ずいぶん昔に伊豆下田に行った時、唐人お吉の出身地が知多半島ということでどんな理由かという疑念が記憶に残っていた。お吉は船で下田に来たのだろう。内海船と北前船はほぼ江戸末期の同時期に日本海運網の主力だった。ただ愛知県では観光産業の努力が足りなく、無名で内海船の記念館は閉鎖されてしまった。愛知県南知多町では週末に尾州廻船内海船船主 内田家をボランティアの案内で見ることが出来るという。
この尾州廻船は昔タクワン漬を調べていて、埼玉県の新河岸川水運で尾州糠という記録があって、ワザワザ愛知県から米ぬかを川越まで運んでいたことに驚いた。尾州の米ぬかは粕酢の製造の時に出来る米ぬかだった。内海船は寄港地で売ったり買ったりしていて、どうも記録に出てこない。嘉永の頃は神奈川湊ではしけに積み替え商いをしていたようだ。そこで神奈川宿付近を調べたいと思っていたが、すでに150年の歴史から地形が変わってしまって神奈川湊は今の横浜中央卸売市場付近だった。そこで京急生麦から神奈川湊を歩く計画をしている。調べていると神奈川の名前の由来が川の上流がどこからかはっきりと判らない川ということから来ているという。とても信じられない。
上が無い川 上ない川 神ない川と変化し漢字に変換し、神奈川となったという。もう一つ東京に歩いて戻る時、六郷橋の所に標識があって長十郎梨のふるさとあった。確かに川崎の上流はナシの産地だが川崎宿付近が発見地とは知らなかった。地元の雑歴史は信じられないものが多く、そこから新しい説得力のある説が生まれる。TVの雑歴史ものの逃げで諸説あります?となる。東海道かわさき宿交流館で川崎宿400年のイベントがあって、そこを訪問した時、次の宿の繋ぎが見えず、気になって訪問したのだが聞くと隣接の鶴見には宿場が無いという。鶴見には総持寺という大寺院があるが日本郵船を調べている時、浅田正文という重役の逸話から明治の創建と知っていたので、川崎の次は神奈川となり港町という。神奈川宿から町田に抜ける道があって絹の道でそれから鉄道が出来たという。これがJR横浜線・八高線の元になる。従って先にシルクのみちがあった。
青森のス-パ- さとちょうが今月廃業というニュ-スで始まりが明治30年の創業で漬物から始まったという。普通江戸・明治の漬物は自家製が多く、業として成り立つ納品先が無いと続かない。考えられるのは軍隊納品かもしれない。日露戦争前の八甲田山遭難を記憶する。