年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

京王上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館へ

2023年10月21日 | 宅老のグチ
いつの間に東武野田線という醤油のための線路がア―バンパークラインと名前をん変え、普通の通勤電車の様に思えるが実際乘ると今から70年前の記憶がよみがえる。それは春日部駅から野田市駅までの区間が単線があって駅ですれ違うので各駅で待たされる。そんな路線で単線の路線で南桜井駅が駅前で後発ともいえる所に大きなヤオコ-というス-パ-がある。ここは今は東証プライムの会社となったリズム時計の発祥地であった。そのリズム時計の前身の農村時計と叔父との関係を調べる必要性を感じていた。
 叔父は昭和20年5月に戦死していて、農村時計は戦後の発足と知っていたので調べる必要はないと思っていた。親族の聞き取りで叔父の航跡調査で戦後にGHQにマークされ漬物の仕事を廃業したという。GHQといえは講和条約までの日本占領の事を意味していた。それが墨田区に住んでいた叔父とどのような関係か想像すると戦後の食料不足時代しか思い浮かばない。戦後は東京は極端な食料不足で戦時中の防火のための強制的に空き地となったところに闇市が出来た。そこでは配給の余ったもの、隠匿物、旧軍隊の横流し、米軍からの流出等が売られていた。ある程度落ち着くと東京の隣接地からリュックを背負って買い出しもあった。その当時の小説や映画を観ると法を犯さないと栄養失調になり、病気となり死んでしまう状況だった。それでも平和ということで朝鮮半島で戦争が始まると日本は落ち着き、昭和30年には戦前の経済を越したと言われる。その戦後のカオスの時代にリズム時計の元となった農村時計の史料はあまりない。農村時計の歴史は令和の時代に春日部市史近現代庄和地区編に詳しく書いてあるが農村時計と賀川豊彦との関係がはっきり理解できなかった。
 賀川豊彦は知っている人は少なくなった。戦前の数少ないアメリカを知っている人でなぜか軍によって投獄されていない。賀川が戦後に時計の精工舎の空いた工場に農業と軽工業を組み合わせるスイスのような時計工場の企画を出し農村時計が発足した。やる気と精工舎が残した機械で発足したが営業力もなく苦戦し、それでも4年ほどは維持できた。最後はGHQの残された機械の没収、資金援助者だった全国農業協同組合の支援停止など様々な困難で経営者を含め労働者もリストラし、倒産しリズム時計となった。従ってリズム時計の社史では農村時計の存在期間が加わっているので水増し社歴となる。この悲惨な農村時計の土地は精工舎の土地で、東京で戦災に会い、墨田区大平にあった工場が一部移転した工場で敷地の半分も使用していないので赤羽の軍の砲を作る工場が敗戦間際に移転してきて、米軍に軍の工場の存在が判らず、空襲にも合わず、工場と宿舎と病院が残っていた。この軍の施設が埼玉の米軍の施設となって、昭和20年秋に進駐してきた。
 このあたりの記録が埼玉県文書にもあるはずだがまだ見つけられない。ただ埼玉県立庄和高校の地理歴史研究部の南桜井村戦後史に記載されている。何しろ高校生の部活の聞き書きということで春日部市史には参考扱いとなっている。
 そこで賀川豊彦記念松沢資料館へ行って資料が無いか聞くと少しあるということで訪問した。そこには南桜井村戦後史の続編という本があった。同じく高校生の部活の本で終戦間際の精工舎の工場の様子が書かれている.

むかし庄和町に軍事工場があった. [庄和高等学校地理歴史研究部編]. (庄和高校地理歴史部年報, 第6号 . ある時計工場の歴史


 東京の大空襲が昭和20年3月10日と知っていたが何曜日ということは気にしていなかった。土曜日だった。東京から疎開と言って埼玉で住んでいた女子工員が金曜日の終業後に東武線で家族が住んでいる東京へ向かった。このことを証言した人は曳舟付近に実家があって、10日の空襲の戦火は逃れたが大平の精工舎工場付近に住んでいて戻った同僚の女子工員は全員亡くなったという。今の東武線曳舟駅には亀戸駅と結ぶ路線があった。それゆえ戻りたかったのだろう。自分はこの時読んでいて涙が出た。
 戦争が終わり、精工舎は埼玉をすぐ閉鎖し、東京で時計を造り始めた。関東大震災の経験から復活は早かった。目覚まし時計は農村時計に残された。これが精工舎のやり方だった。後にリズム時計がシチズン時計と提携した時、飼い犬に手をかまれたという話があるが真相は判らない。
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