年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

つけ物 漬物 漬け物

2006年04月15日 | 趣味としての漬物
今でこそ「漬物」という表記は一般的に使われているが、戦後、昭和21年〔1946年〕に内閣から告示された「日常使用する漢字」(使用頻度の低いとされた漢字が排除され、公式文書やメディアなどで用いるべき漢字の範囲が示された)の範囲を定めた1850字の当用漢字表にはなんと漬の漢字が入っていなかった。そのため、法律や新聞などで用いるときは、別の言葉に替えるか、「かな書き」にすると定められていたため、漬物の農産物規格法(JAS法)では“農産物つけ物”と表記されています。当然,学校等で漬の文字が習われず,たびたび清物と誤記されていた。漬物の業界の発展と共に、「お袋の味」が小売店で多く買われるようになって「漬物」という文字が広く一般的に使用されるようになったので、昭和56年〔1981年〕に内閣から告示された1945字の常用漢字表に漬の漢字が、ついに堂々仲間入り。法令、公用文書、新聞、雑誌、放送等、一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安として認められるようになった。
今でも“漬け物”と書かれる事が多いが、戦後,長い間“つけ物”と表記されていたことの名残である。
 なぜ,“漬”の字が戦後,日常使用するという漢字に漏れてしまったのかは,当時はまだ漬物は都市においてのみ製造販売されていて、国民の大部分を占めていた農民は自家で漬けていて,新聞,公文書等に使用されている頻度が少なかったためとおもわれる。
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お茶漬と漬物

2006年04月14日 | 趣味としての漬物
ご飯の上に漬物を乗せて熱い茶をかけてご飯を食べる。
茶漬の具に魚が多い。茶によって生臭さが消える。湯漬の伝統。湯漬とは、干飯に湯をかけて食べる簡単な食事です。強飯は米を甑(こしき)で蒸したものでこれを乾したもので干飯といいます。

番茶と日本人 中村羊一郎著より
茶の木は植え替えしにくい。特に種から育てた茶樹の根は真っ直ぐ伸びてしっかり大地に食い込み、土地の境界の目印にも生かされる。
茶粥
番茶を煮出した汁で炊いた粥
番茶を茶袋に入れ、十分に煮出す。
茶碗
ご飯を盛るのが茶碗
お茶を飲むのが湯のみ
茶飯
茶汁でもって炊いた塩味の付いたご飯のことを言う。
奈良茶飯(ならちゃめし)の起源
 ①東大寺と興福寺の寺領から納められる上茶を煎じて初煎(初めに入れた茶)と再煎(二番茶)に分け、再選のお茶に塩少量を加えて飯(めし)に炊き、蒸らした後に初煎の濃い方に浸けて食べるのが本来の茶飯であったといわれている。「茶めし」は、もともと奈良の東大寺や興福寺などで修行僧の食事に出された食べ物と言われる。
②江戸では明暦の大火(1657)後、浅草の待乳山聖天門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋(今のレストラン)の祖となった。
『西鶴置土産』による。飯碗に豆腐汁、煮豆などをそえて出した一膳飯のことで、
万年屋茶飯屋跡
  川崎市の新六郷橋の車道の下を潜り、第一京浜国道の右側に出ると、旧街道沿いに万年屋跡の案内板がある。「江戸名所図会」にも紹介されている有名な奈良茶飯の万年屋があったところ。なお、奈良茶飯は、大豆、小豆、粟、栗などと共に茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、これに六郷川で採れたシジミの味噌汁が付いていたという。

明治政府は茶の品種改良によって輸出振興を図った。各地の茶は整理され、静岡茶の品種のみ栽培振興された。飲む茶が優先され、食べる茶は静かに消えて行った。
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柳生十兵衛・島原の乱”

2006年04月13日 | タクワン
紫衣事件の流罪が解かれて江戸に滞在したとき,沢庵は”大名好き“のとの批判があったらしい。(中公新書・沢庵) 諸大名が沢庵に茶の湯を通じて、幕府の大目付の柳生宗矩、老臣会議、家光の情報を知りたかったのではないのだろうか。単なる大根の糠漬が家光よって沢庵漬と命名され、日本の各地にあった大根の糠漬が沢庵漬という名になってしまったのでないだろうか。
 沢庵禅師書簡集には島原の乱の記述が実に詳しく、かなり、沢庵に国内の情報が柳生宗矩らを通してはいっていたと思われる。また、沢庵は柳生宗矩に向かって息子・柳生十兵衛の行動に不満を持っていたのを叱りつけている。また、宗矩の能好きに対して、他の人に好みを押し付けるのは良くないと忠告している。
晩年の沢庵
家光は70回以上訪問したが,他にしばしば訪ねて来る大名や公家と禅や和歌、茶の湯を通じて交わり,禅者でもあり同時に江戸一流の文化人として有名であった。

大名の処分
江戸幕府の大名処罰は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、戦後、敵対した西軍大名106家を処分したことから始まる。これ以後、大名廃絶政策は江戸幕府の大名統制の根幹をなすものとしてさかんに実施され、江戸時代初期は豊臣色の濃い外様大名、徳川一門の中の反宗家勢力が、幕府の安泰のために処分された。徳川の初期3代だけで実に122家の大名が改易・減封に処せられ、4代将軍家綱の頃には幕府の脅威となる勢力の掃滅はほぼ完了した。
 従って、大名にとって、大名処罰の基準の情報は重要であったと思われる。
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オーラミン騒動 昭和30年

2006年04月12日 | タクワン
昭和30年10月10日 読売新聞 編集手帳より
市場や百貨店に並んでいる新しい沢庵、オーラミンの黄色い色で着色されうまそうに見える。タクワンをうまそうに見せるため有害オーラミンを使ったのを取締当局がいくら取締ってもオーラミンを使ったタクワンは市場から姿を消していない。
 なぜ有毒着色のタクワンを売るのかといえば、あれに色つけないと買い手がいないと言う。そういう如何にも買い手のほうに罪があるいいかただ。
 一時は売れなくなっても、消費者の方でまもなく毒のない安全なタクワンとわかったら売り上げは間もなく回復することは必定だ。
 (コメント)この記事の筆者は当時のタクワンのことを知らなかった。昭和30年当時、すでに”オーラミン“は食品に使用禁止になっていて、市場には出回っていなかった。従って、業者の反論の投書を載せざるをえなかった。
昭和30年10月14日の読売新聞への投書
去る10月10日、は本誌・読売新聞(編集手帳)に市場や百貨店に並ぶ黄色いタクワンは、有害なオーラミンを使用したので食べると中毒を起こすとあたかも、黄色いタクワンが有害であるかのように印象を与えたことは誠に遺憾で、この様な誤解を訂正するため、全国タクワン業者を代表して、事実を基礎として反論する。
 現在、市場に出回っている早漬け沢庵や一般のタクワンに使っている黄色染料は、すべて国家が食用着色料として許可したもので、すなわち食品衛生法第6条に基づく省令3号に明確に黄色タートラジンを許可する旨明記してあります。
(コメント)タクワン業者の意見は新聞の記事の反論になっていない。要はタクワンにどうして黄色く着色するのか?ということに説明がなっていない。着色許可されても使用しなくても良いはず。事実、江戸時代は人工着色料がなかった。
 今でも、添加物使用を騒ぐ本は危険性を説くだけでその使用の歴史をただ(食品を売らんがため)と結論している。単にそうだろうか?
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沢庵の着色料 オーラミンの禁止

2006年04月11日 | タクワン
 明治時代、ドイツから輸入されたタール系色素は石炭を原料とする着色料で、安価なうえ、着色力も強いところから、食品加工に盛んに使用されていました。しかし、このタール系色素を含んだ食品を長期間摂取すると肝臓、腎臓障害を起すという毒性があるため、欧米では徐々に使用を規制し、米国で現在使用が認められているのはほんの少しだけです。日本でもかってタクワンやバターを黄色く色付けするのに使われていたバターイエローやオーラミンなどのタール系色素に発がん性が確認されて使用を禁止されたこともあり、科学的な研究が進むにつれて、食品の人工的な着色は制限されつつあるのが世界的傾向です。

主婦連 
戦後、昭和25年にたくわんの黄色は安全か(有害なオーラミンでした)、暮らしの不安や疑問などが多く寄せられたくあんの着色料オーラミンの使用禁止運動に取り組みました。
1953年(昭和28)6月有害着色剤オーラミンの使用禁止について要望し、人工着色料オーラミン使用禁止になりました。オーラミンはなくなっても人工着色した食品は依然として存在しています。

なぜ、タクワンが黄色いか解っていない。単に売れるから着色しただけでない。他に色々な着色でもいいはず。その着色の歴史が語られていない。

昭和30年10月10日 読売新聞 編集手帳より
市場や百貨店に並んでいる新しい沢庵、オーラミンの黄色い色で着色されうまそうに見える。タクワンをうまそうに見せるため有害オーラミンを使ったのを取締当局がいくら取締ってもオーラミンを使ったタクワンは市場から姿を消していない。
 なぜ有毒着色のタクワンを売るのかといえば、あれに色つけないと買い手がいないと言う。そういう如何にも買い手のほうに罪があるいいかただ。
 一時は売れなくなっても、消費者の方でまもなく毒のない安全なタクワンとわかったら売り上げは間もなく回復することは必定だ。
 (コメント)この記事の筆者は当時のタクワンのことを知らなかった。昭和30年当時、すでに”オーラミン“は食品に使用禁止になっていて、市場には出回っていなかった。従って、業者の反論の投書を載せざるをえなかった。
昭和30年10月14日の読売新聞への投書
去る10月10日、は本誌・読売新聞(編集手帳)に市場や百貨店に並ぶ黄色いタクワンは、有害なオーラミンを使用したので食べると中毒を起こすとあたかも、黄色いタクワンが有害であるかのように印象を与えたことは誠に遺憾で、この様な誤解を訂正するため、全国タクワン業者を代表して、事実を基礎として反論する。
 現在、市場に出回っている早漬け沢庵や一般のタクワンに使っている黄色染料は、すべて国家が食用着色料として許可したもので、すなわち食品衛生法第6条に基づく省令3号に明確に黄色タートラジンを許可する旨明記してあります。
(コメント)タクワン業者の意見は新聞の記事の反論になっていない。要はタクワンにどうして黄色く着色するのか?ということに説明がなっていない。着色許可されても使用しなくても良いはず。事実、江戸時代は人工着色料がなかった。
 今でも、添加物使用を騒ぐ本は危険性を説くだけでその使用の歴史をただ(食品を売らんがため)と結論している。単にそうだろうか?
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リサイクル食品の歴史

2006年04月10日 | 宅老のグチ
江戸時代は、循環型社会と言われるように、下肥は「金肥」として有価で引き取られ、灰は酒造や製紙過程で使われるほか染色やカリ肥料に、道具類で壊れたものは修理し、古くなったものも何らかの再利用を図るなど徹底した節約が行われ、処理すべきゴミがほとんど出なかった。

沢庵漬はリサイクル食品でした。米糠は米を精米したとき出たもの、大根は生大根が出来すぎたのを捨てずに干して使い、容器の樽は酒造の古くなったもの等、リサイクル食品の極致でしょう。

 「汚物清掃法」が、明治33年に公布されます。公衆衛生が目的でした。汚物清掃法は公衆衛生の考えが優先され、江戸時代から続いていた循環型社会の思想から使い捨ての思想に変わりました。
 戦後、高度成長期に入って大量の廃棄物が出るようになり、衛生的に減量できるということで焼却主義の原則がとられます。そして、昭和45年(1970年)廃棄物処理法が制定され、産業廃棄物の概念が導入されました。

 リサイクルの概念が法律上初めて登場するのは、平成3年の再生資源利用促進法からです。平成7年に容器包装リサイクル法が制定され、平成12年は、循環型社会形成推進基本法が制定され、リサイクルの前に、発生抑制(リデュース)、再使用(リユース)が優先する3Rの考え方が取り入れられます。平成13年は食品リサイクル法(5月施行)と次々と新しい法律が出来ました。対応が大変です。新しい豊洲は循環型環境問題の対応への予定をしています。
 
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明治の日本橋魚河岸の衛生状態

2006年04月08日 | 築地市場にて
明治以後の廃棄物処理に関する法制度
明治初期も、都市の廃棄物処理は江戸時代とさほど大きな違いはなかった。幕末から明治の度重なるコレラや伝染病流行の発生を予防するためには、「公衆衛生」が重視され、先ず生活環境を保持する必要があるとの考えから汚物清掃法・下水道法が制定された。新鮮な青物を扱う京橋大根河岸市場は、魚河岸に負けないくらい威勢のよかった反面、ここに集まるハエがものすごく、またワラや土などのゴミ類の山も多く、"銀座の隣にこんなところが"と思われる所で不衛生でもあったようだ。 また、日本橋魚河岸の衛生状態は最初の市場移転問題発生の起因の一つである。平成の現在、築地中央卸売市場とその周辺で発生するゴミの量は膨大です。

汚物清掃法 明治33年(1900年)
汚物清掃法は土地の清潔を維持することを目的とし、塵芥、汚泥、雑排水、し尿をその対象とした。この法律により汚物の掃除が市民の義務となり、その処分が市の義務となった。
汚物の掃除義務は個人と市に分けられ、市は個人の監督機関及び監督方法を定め、個人が義務を怠った場合の罰則を規定。但し、汚物のうち屎尿については市の処理義務を除外。これは、屎尿は汚物であるが同時に金銭で取引された有価物(肥料)であるという実状に基づいたもの。
法律第31号 汚物掃除法(明治33年3月6日)
第一条 市内ノ土地ノ所有者使用者又ハ占有者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ地域内ノ汚物ヲ掃除シ清潔ノ保持スルノ義務ヲ負フ
第二条 市ハ本法其ノ他ノ法令ニ依リ別段ノ義務者アル場合ヲ除クノ外其ノ区域内ノ汚物ヲ掃除シ清潔を保持スルノ義務ヲ負フ
第三条 市ハ義務者ニ於テ蒐集シタル汚物ヲ処分スルノ義務ヲ負フ但シ命令ヲ以テ別段ノ規定ヲ設クルコトヲ得
第四条 市ニ於テ全條ノ處分ヲ為シタル為生スル収入ハ市ノ所得トス
第五条 地方長官ハ掃除ノ施行及實況ヲ監視セシムル為必要ナル吏員ヲ市ニ置カシムルコトヲ得
第六条 常時吏員ハ掃除ノ實況ヲ監視シ必要ナル事項ヲ施行スル為其ノ事由ヲ告知シテ私人ノ土地ニ立入ルコトヲ得

下水道法(法律第32号)
 「下水道法」によって定義づけられた下水道の目的は単に土地の清潔を保持すること
大正7 年は肥料史の一大転機であった。徳川時代から農民は金銭や野菜等と交換でし尿(下肥)を汲み取っていたものが、大正7年から衛生上の理由や化学肥料が生産されるようになってし尿の需要が停滞し、値段が下落して、ついにそれまで有価だったものから汲み取り代を徴収するようになり、行政がし尿収集を行うようになった。
1. 大正7 年・当時諸物価が値上がりし労賃の高騰したこと。
2. 下肥売上金額の低下で下肥代金を払っていたのでは営業上の採算が合わないこと。
3. 農民の生活が豊かになり、化学肥料利用に走り、取り扱い上手間のかかるし尿を敬遠したこと。が原因になった。

その後、下水道の必要性を感じていなかった都市行政は"し尿"処理の問題が大きくなった。
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沢庵和尚の禁煙論

2006年04月07日 | タクワン
タバコは日本には天正~慶長年間(16世紀末)にポルトガルによって伝え持ち込まれ、国内で大流行を起こす。江戸時代始め寛永年間(1624~44)には、煙草栽培の特産地も現れ、喫煙人口も急激に増加していた。慶長17年(1612年)には最初のタバコ禁止令が出ている。 そのような時代の中で、いち早く健康に与える喫煙の害を説いたのが、沢庵和尚である。 沢庵は寛永11年10月7日柳生宗矩あての手紙で、タバコ栽培は米作りの減少を招くし、健康に良くないので禁煙の必要性を説いた。胸を患っていた柳生宗矩にたいしては「タバコ御止め候はずば、胸の痛み止み申間敷候、タバコにて、かくに皆々成申候」、と書き記し、健康のために禁煙をすすめている。
4月6日NHKドラマ”柳生十兵衛・島原の乱”を見て
柳生宗矩は島原の乱を如何に重視していたか彼の危機感がわかる。寛永12年・寺社の御用や訴訟を司る後の寺社奉行に担当する役職に分化していたのに、島原の乱(キリスト教・宗教問題の深さ)の以後の世情安定について、但馬に隠居していた沢庵を江戸に呼び出し、品川・東海寺設立し、沢庵和尚の宗教問題対しての意見が必要であったと思われる。

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たくわん王と呼ばれた男2

2006年04月06日 | タクワン
シナ事変が始まり、又蔵が昭和15年亡くなった時には海外輸出は割り当てになり物資の統制が始まり、働き手は戦場に取られ経済が窒息状態になった。
戦後,悪性インフレと農地改革,財産税というもので苦労し、大野家の所有する20万坪の大根原料産地を農地改革で失った。また。大根を栽培していた東京都中野区鷺宮付近の農地は宅地化し大根原料産地を他のところに求めねならなかった。また、大口需要だった得意先の軍隊は消滅し、空襲で破壊された都市には工場や学生の寮は消えた。又蔵の息子たちは戦後の混乱をやっとのことで切り抜けたが土地の値上がりと相続税でどどめをさされた。今は都内の沢庵製造業者は皆無に等しい。

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たくわん王の背景 明治・大正期の報告

2006年04月05日 | タクワン
沢庵漬に関する調査 農林省農務局 昭和2年
沿革と概況
沢庵漬は各種漬物中の第一位を占め、都鄙(都会や田舎)を論ぜず貴賎を問はず、本邦人は日常生活上に必需副食物たり。その起源については詳に知ることあたわずといえども、一般に、昔・江戸品川東海寺の住職沢庵禅師の発明により、その名称・またこれに起こりしものなりと称せらる。然れども一説には、沢庵禅師は単にこの製造方法を広く宣伝普及したるにして、その名称は(貯え漬)の転じたものと称せらる。
従来・沢庵の製造は一般家庭に於いて行われ都会に於いても購入するもの僅かにして,従ってこの製造販売は比較的少量にしたり、明治中頃にしても、わが国における沢庵漬の最大の消費地・京阪市場においてすら、卸問屋の看板を掛けたるものは稀でにして小売業者もまた少数にすぎない状態なり、然るに戦争後にいたり、大いに需要増加し、特に元来沢庵漬けは丸乾大根単に糠と塩とに漬けたるものなりしが、近年、麹・砂糖・甘草・酒粕・昆布・煮干等の調味料、蕃椒(とうがらし)その他の香料・オーラミン等の着色料を用いて・品質・香味・色素等を佳良ならしむるもの多きにいたり。尚一方においては、沢庵漬を原料として粕漬その他加工品を製する等、幾多の改良製品を見るにいたりし結果、都市においては従来家庭にて漬け込みたるものが、次第に販売品を購入するに到り、今後ますます需要増加の傾向にあり、而してその供給は沢庵漬専門に多量製造するもの少なからず。農家の副業生産品もまた多い。

干し大根栽培農家 7000戸
沢庵製造農家   1000戸 20万樽 1樽約70kg入
非副業(専業)   200戸 40万樽

オーラミンとは人工着色料で戦後まもなく使用が禁止された。
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たくわん王と呼ばれた男

2006年04月04日 | タクワン
東京都中野区鷺宮は幕府時代から,水田以外あらゆる畑に藍草を植え付けた産地でしたがドイツ製の優良なる化学染料が輸入されて、日本産の染料(藍)を圧倒しみるみる価格が暴落しました。練馬の隣なので藍草の代わりに大根を栽培することが藍草暴落のあと盛んになりました.我も我もと真似して栽培したので大根が生産過剰になり困り果てていました。明治27年、日清両国の談判が決裂し戦争が始まりました。朝鮮で戦争している時、日本は大根どころのさわぎでありませんでした。農民は大根に土をかぶせ、腐らせて肥料にするしかないと考えていました。そこに、藍草の暴落で破産寸前までになった大野家の青年・又蔵の耳に大根の状況の話が入りました。
「ただ捨てるようなゴミでさえ利用の仕方でいくらでもある世の中だのに、半年以上の労力と金をつぎ込んで美しく育てた大根をムザムザと腐らせてしまうのはもったいない話だ。何とかこれを利用してやる工夫はあるまいか。あるとすれば、村全体の利益になるし自分にも利益となる」と考えた。彼は藍草暴落で失った土地を買い戻すため、コツコツ貯めた金で農家から大根を安く買い占めました。そして、東京に行き酒屋から空の酒樽を買い集め、買い取った大根を洗い日干しにして、酒樽に漬け込みました。これがタクワン王の始まりでした。明治の中頃まで東京市内でも郡部でも、家庭用の漬物は青物(野菜)を買い入れて各家庭で漬けていました。わずかな料理店で漬物を少量購入するだけで商品として販売されていませんでした。このことに目をつけた又蔵は塩や糠の加減を調整しうんと味の良い沢庵を作り東京の漬物問屋に販売しました。又、彼は軍隊に納入し、日清戦争に出征中の兵士に提供したところ、好評でたちまち数百樽売りつくしました。この評判が全国に伝わり横浜・大阪方面から大量の注文が入りました。また、中国大陸に販路を広げ、日露戦争時に軍需の沢庵漬の利益で藍草の暴落で失った財産を取り戻しました。
昭和12年、又蔵の沢庵漬は海外(中国・台湾)に2万樽(4斗樽・70kg入り)輸出されていました。つまり、140万kg輸出していました。ちなみに、昭和36年の1月から8月の期間に日本の税関の統計によると、32万5千kgで、その輸出先は当時アメリカの占領下の琉球でした。また、彼の沢庵は国内にも輸出と同じくらい販売されていました。又蔵の沢庵輸出量の多さがわかります。
 又蔵の沢庵漬の工夫とは甘味をつけ、着色したことでした。日本で沢庵漬を販売のために始めてウコンで黄色く着色したことでした

昭和40年代、まだ寿司ブームの前、日本食品の輸出のことを業界用語で(たくわん貿易)と言っていました。彼が沢庵漬を海外に広めた人で、韓国語でも沢庵漬を“タックワン”と言うそうです。
参考
化学藍
1880年(明治13年)ドイツで合成に成功し世界に広がった。化学藍はインディゴピュアが代表的な物だが他に、ヒアインディゴ、ニアインディゴなど色調が異なる化学染料もある。
同様にアニリン系の赤色染料の大量流入により、明治10年に紅花栽培は急速に衰退しました。ドイツから化学染料は衣類の着色だけでなく、食品にも使用されました。そのため、明治11年、わが国の食品衛生に関する最初の法規として、『アニリン其ノ他鉱属物性ノ絵具染料ヲ以テ食物ニ着色スルモノノ取締方』が施行されました。これは、食品に有害な着色料の禁止についての規則です
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練馬大根と肥料 明治以後

2006年04月03日 | 趣味としての漬物

江戸末期から明治初めにかけて、練馬地区の肥料とし自給肥料(刈敷き・牛馬の糞・下肥等)が主であったが、明治の中頃から、魚肥・酒粕などの金肥(購入肥料)が多く使用された,日清戦争の後、満州(中国東北部)から大豆粕が魚肥に取って変わって使用された。大根の栽培のだら肥が使われていましたが農家の女性には嫌われていました。

だら肥とは下肥溜めの腐熟堆肥、草木灰、米糠を加え肥溜めの外でよく練ったもので練馬の冬の気候にあった肥料で霜柱を抑える役目もありました。練馬では昭和35年頃から清浄栽培が始まり、昭和37年には下肥の使用はなくなった。
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下肥は肥料

2006年04月02日 | 宅老のグチ
少し前の日本の都市おいての汚物処理方法は、ヨーロッパの都市とはいささか異なっている。日本農業においては肥料として下肥を必要としていたのではないだろうか。下水道のなかった時代のヨーロッパの都市では、路地裏に糞尿が溢れていたが、江戸では人間の排泄物を近郊の農家が回収に来てくれたのだった。江戸の人々にとって、自らの排泄物は始末に困るどころか、有効な資源(金肥)して意識され、定期的に回収に来てくれるので処理に困ることはなかった。
東京で糞尿の汲み取り料金、つまり、汲み取ってもらう側が相手に金を支払うようになったのは大正7年になってからです。それまでは肥料問屋や農家が、肥料代としてお金を払って汲み取り(下掃除)に来ていました。
 江戸時代、主要な商品肥料として取引されたものに「下肥(人糞尿)」、「植物油粕」、「魚肥」があり、「下肥(人糞尿)」に関しては、戦国時代末期・宣教師ルイス・フロイスが「我々はを運び去る人に金を払う。日本では、それを買い、その代償に米と金とを払う」と書き記している。ここから、糞尿を民家などから買い取ってあったということがわかります。
 商品肥料として取引された「下肥(人糞尿)」は、江戸では葛西舟と呼ばれる舟で運搬されました。「下肥(人糞尿)」の水田での使用量は一反につき20荷(肥桶1桶が1荷で、「下肥(人糞尿)」を運ぶ舟(肥舟)一艘で50荷が運べる)を入れると米が良くできるとされ、1町歩の水田を作るには200荷の肥桶が必要でした。
 江戸時代の農業技術書「百姓伝記」には「下肥(人糞尿)」の品質に関して、「いつもご馳走を食べ、魚を食べている人の糞尿は作物によく効く、これに反して粗食の人のものは効果が少ないものであるから、繁盛している土地の糞尿を取って肥料としている村は、穀物、野菜がよくできる」と記載されています。

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江東区佐賀町 

2006年04月01日 | 宅老のグチ
江東区佐賀町は墨田川に隣接し、肥料の集積地であった。江戸の東部の水運網の中心に存在し、地方より江戸に来た船に積まれたり、房総から干し鰮等の魚肥が風によって肥料を積んだ船が江戸湾を横切ってきた。糠も酒造による精米過程で生じた大阪糠・尾張糠等の糠が舟運によって佐賀町周辺に集積していた。佐賀町に集まった肥料の魚肥は関西に帰る舟に積み、阿波の藍、木綿の栽培の肥料にされたと思われろ。関西から来た糠は河川の便で関東各地に運ばれた。佐賀町は物資流通の要であった。江東区深川図書館の中に郷土資料室があり江戸から明治時代にかけての肥料史の文献がある。なぜ、このような資料が深川にあるのかは(東京肥料史)深川図書館・所蔵を読むと解る。
 関東各地から集まった、米を初めとする穀物、油、肥料(江戸時代にはイワシを原料とした《干鰯(ほしか)》)なども、佐賀町を中心とした倉庫街に集積された。明治に入っても、米を中心とした物資の集めた倉庫街の性格は変わらない。2002年まであった食糧ビル(深川正米市場跡・佐賀1-8-13)は、その名残である。
 
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