年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場の桧舞台

2006年12月16日 | 築地市場にて
年末年始の築地市場の交通規制
毎年年末になると築地市場は非常に混雑し交通規制が始まります。今年は12月17日(日)の夕方から19年1月5日(金)の正午まで規制が始まります。
 場内交通規制(一歩通行)の設定あります。
1 二側裏通路
2 東支川通路(築地川東支川)
3 1000番裏通路
4 引込線跡通路
5 合物門(あいものもん)
この築地市場の用語が理解できる人は少なくとも30年以上勤めていなければわかりません。特に『1000番裏通路=旧桧舞台から旧時計台通りに至る一歩通行は午後8時から翌日正午まで。』となっています。旧時計台通りは標識がありますが桧舞台があったとは知りませんでした。築地市場に40年以上勤めている人に聞いてみると貨物の駅のプラットフォームが一段高く緩やかに曲がっていてまるで舞台のようであり更に築地の主役であるマグロのセリ場もあるからであろうとのことでした。

二側裏通路とは水産部仲卸ニ列の裏の通路(水産仲卸の中で一番内側)

引込線跡通路とは築地市場に貨物の引込線があり踏み切りもあった。

会物門とは魚の干物当をセリしている場所の近くの門(波除神社隣)

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しらすセリ売り場?

2006年12月15日 | 築地市場にて
しらすセリ売場
築地市場の旧時計台通りにある階段を上がって2階の東京都事務室に向かうと通路の反対側にちょっとした階段があり、そこに『しらす』のセリ場がある。信じられない場所である、セリ場の真下はプラットホーム跡で取り付けのエレベータも無い。どの様にして2階に荷物を持込みセリしたあと持ち出すのだろうか。水産部の人でも担当の人以外はあまり知られていないはず。とにかく築地市場には『何でココにあるの!!』という物・者が多い。
 この件、事情の解る人おりませんか?
平成19年1月に都の職員に聞きました。今は移転してます。当時は昇降設備があったそうです。
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ボロ市とべったら市との関係

2006年12月14日 | べったら市
 明治時代
世田谷のボロ市の商材は明治の20年頃までは江戸時代から続いていた農家のための古着のための市(ボロ市)であったが明治20年代になると衣料の価格が下がり、次第にボロ市の商材がタクワンを製造するために使用する“莚・ムシロ”が目立ってきたといわれる。市の構造変化と性格の変化。
 明治維新後近代化が叫ばれ、都市周辺の交通の発達に伴い、自給自足の経済から金銭を必要とする経済となると,都市周辺の農家は野菜の需要の増大から蔬菜を作るようになり、その肥料と運ぶための肥桶を購入したり、畑を耕す農具を買ったりするようになった。練馬に於いてタクワン製造が盛んになるとムシロとしての品質の良い荏田(神奈川県川崎市)産ムシロを世田谷のボロ市で購入するようになった。明治20年代から大正初めまでボロ市のムシロとして売れていた。大正になると干し大根を漬けてタクワンを製造していた漬物業者が生大根を干さないで直接塩漬する技術革新があった。そのためボロ市でのムシロ需要が減り、世田谷の電車による交通網の整備と共にボロ市が農具の市から今の市と同じような商材構成と成っていった。沢庵製造時にムシロの用途は不明。乾燥時の凍結防止用か?

江戸の古着の商人町日本橋富沢町とボロ市の露天商との関係は資料によるとあまりなく、どちらかといえば浅草や新宿の古着商との関係が深い。明治40年のボロ市出店者1669の内古着135・古道具135・桶・棒・むしろ・ふるい・篭等の出店者は少ないが売上高は大きな位置を占めていた。
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波除通りを銀座に向かうとみゆき通りとなる

2006年12月13日 | 築地市場にて
銀座のみゆき通りを真っ直ぐ行くと最後は築地場外市場の波除(なみよけ)通りとなる。みゆき通りと晴海通りを除くと銀座から築地市場へ行くみちは昭和通りに妨げられて迂回しなければならない。銀座の5丁目と6丁目の間を走るのが、みゆき通り。明治時代に入ると明治天皇が浜離宮などに赴かれる道筋に当たり、みゆき通りの名称は「御幸=天皇の外出・旅行」からきています。明治天皇が皇居より築地の海軍兵学校『今の築地市場』に通ったことが由来だという。また、みゆき通りは江戸時代、歴代の将軍が江戸城から浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)へ御成りになるさいに通る道筋(御幸)の通りとも言われてます。
 明治維新後は宮内省所管となり、浜離宮と呼ばれるようになり、明治天皇はしばしばこの道筋を通って行幸されたそうです。地元がこの通りを「みゆき通り」と命名したのは昭和に入ってからです。どうも明治の時代は“晴海通り”より“みゆき通り”が主要通路のようでした。
 みゆき通りの名称は昭和通りまでで、その先新大橋通りまで名称はなく、築地場外市場に入ると波除通りとなる。
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ニチレイ本社は築地市場のとなり

2006年12月12日 | 築地市場にて
日本冷蔵は築地市場と関係があります。東京都中央卸売市場史下巻987頁によると昭和7年日東氷室(日本冷蔵の前身)及び3名が氷業組合を結成して日東系の駒井氏が代表者となり都冷蔵庫の製氷を一手に払い下げて製氷を販売した。
 現在。築地中央卸売市場の青果の荷受会社は東京シティ青果(㈱ですがこの会社は東京中央青果と東京築地青果が合併して出来た会社です。東京築地青果は通称『マルニ』青果と呼ばれていて、この会社は日本冷蔵が大株主で関係のある会社です。このように築地市場と関係ある日本冷蔵が勝鬨橋のたもとにあった冷蔵庫を壊して本社としました。しかし,しかしですよ『ニチレイ東銀座ビル』と命名するとはどうしたことですか。平成の初めの頃は築地の名は食のブランドとしては確立していなかったとはいえ築地の外れの墨田川に面しているビルを東銀座ビル=これに匹敵するのは成田の東京国際空港か浦安の東京デズニーランドだよ。
 銀座は建物の高さ規制でもわかるように昭和通りまで東銀座は首都高速までだよ。
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日本冷蔵 勝鬨(かちどき)工場の思い出

2006年12月11日 | 築地市場にて
日本冷蔵 勝鬨工場(今のニチレイ・本社)
昭和の終わり頃まで築地市場の隣の築地6丁目・晴海通りの勝鬨橋のたもとにありました。そこには築地市場で卸す為の冷凍の魚類が保管されていました。
 マイナス20度を超える冷蔵室の外に通路があります。そこはやや温度が抑えられていて、冷凍した広島菜の漬物が保管してありました。
 予め電話をしておいて、少し経ってから勝鬨工場の事務所の階段を上り。古い郵便局の窓口・待合室のような所で出庫伝票を受け取りなじみの倉庫の人に渡します。エアシューターのような物で伝票が運ばれている時もありました。今から思うとのんびりしていて出庫まで雑談していました。
 真夏は外気温がプラス30度・冷蔵庫の中は最低温度マイナス40度でその差70度はどんな人でも体力が持ちません。長い間勝鬨工場で働く人はいなかった気がします。時たま人手不足で中々広島菜が冷蔵庫から出庫されず,自ら冷蔵庫に入って取ってきたことがありました。『寒い』ので3分も入れられません。そこにはクリスマスケーキの台用のスポンジが保管されていました。また『文明堂』のカステラも保管されていた記憶があります。もう20年以上も前の話です。
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株・不動産の塩漬とは

2006年12月10日 | 宅老のグチ
事業を行う時に必要になる土地の先行取得は、法律で許されています。しかし、土地は取得したものの、何らかの理由で利用されず、そのまま放置されている場合もかなりあるようです。取得後、長期未利用の土地を言うようです。
株が大きく損失がでた場合、株を長期保有して待っている状態です。漬物の塩漬と同じで長期保存して、価格が上がるまで待たなければならない。
 漬物の塩漬
漬物原料は長期保存用に塩分20%以上で漬け込めばかなり保存が長期できます。品質の保持には温度変化の少ない冷暗所の所に保存のこと。
会話の中の漬物は多い。それだけ生活の中に染み込んでいたのだろう。塩漬の漬物は塩抜きし塩分を減らし調味加工し漬物となる。
 現在の築地市場で売っている塩漬は白菜の浅漬位だろうか。今が旬です。今年は白菜・大根が安い。
漬物の表示は単なる表示でなく量目・添加物使用の許可基準となるもので歴史的経緯を調べねばならない。なお、白菜は明治時代中頃まで日本では普及していなかった。最近白菜の中心が黄色いのはほんの10年ほど前からの品種である。
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ちょろげ・チョロギ

2006年12月09日 | 趣味としての漬物
12月も半ばとなれば年末の足音も聞こえてきて各地の年末の商品の入荷が増えて来る。ちょうろぎ・チョウロゲという赤紫の酢漬の漬物・おせちの黒豆に良くのっているものがでてくる。国産のちょろげは福島産・秋田県産が多く、といっても昔に比べればずいぶん減ったけれどまだ作っている。正月といってもスーパー等の大型小売店は元日から営業していて食品を買いだめする必要がなくても売れている。
 この酢漬の漬物は地域にとって食べ方が異なり好まれる色合いも異なる。特に静岡県を境にしてはっきりと差が出る。関東はどちらかと言うと赤く染めているが西の方は紫色のようである。
 ちょろげ・チョロギは10年も前は国産しかなく、農村部の老人会の暮れの楽しみで、相場が高いと地面を掘って収量を増やしていた。今は中国産の安いチョロギであまり国産の収穫が増えない。デパートなどのこだわりのオセチにしか国産は使われていなくなった。
 チョロギが新年の縁起物になったのは色々な説があるが私は『チョロギは地面の下に球根があり、地上部分が枯れても翌年になると生えてきて子孫が絶えない』と言う説をとりたい。
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築地市場と海軍施設

2006年12月08日 | 築地市場にて
築地中央卸売市場の住所はほとんどが東京都中央区築地5丁目2番地1号ですが築地6丁目にも少しあります。古くから築地で働いている人は築地6丁目の市場を経理学校跡という人がありました。今ではほとんどの人は言わないでしょう。昔、海軍の経理学校がありました。築地市場は海軍と関係のある土地です。勝鬨橋西詰のところに海軍経理学校之碑 があります。築地に海軍の施設が集まったのは江戸幕府末期に軍艦操練所等の施設が築地に設けられたからです。朝日新聞の隣に海図を作る海上保安庁水路部があります。これが現在まで残っている築地の海軍施設の名残です。
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築地市場の自転車

2006年12月07日 | 築地市場にて
築地市場を一番早く小回り利く運搬車は今でも自転車です。駐車違反も無く歩道を走っても警察官にお咎めを受けません。昔ながらの荷物を運ぶレトロな運搬車は築地場外市場の主役です、狭い路地で活躍します。場外市場に入った注文を本場内の駐車している車に早く運ぶ自転車は豊洲に行っても消えないと思います。電動になっているかもしれない。先日、佃大橋の歩道を自転者に乗って下って行った所(もちろん違反・ブレーキ音がうるさいため)下から急坂を後ろに子供を乗せて若い女性がスイスイと上って来ました。すれ違った時電動だと気が付きました。中央区は地盤沈下が激しく橋は何処も急坂です。 市場の自転車はママチャリと違って荷台に重いもの積んでも歪まない丈夫な車体です。
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暮れの築地

2006年12月06日 | 築地市場にて
12月になれば心気ぜわしく築地市場に入る品物は普段と違う商品が入ってくる。今は何処に置いているのでしょうか?東京都の置荷禁止の看板が急に目立ちます。暮れになると築地市場は商品であふれ置き場の無いものはどこかに置かれます。今は市場外流通が盛んになり大分減ったようですがそれでも暮れのおせちは大きな倉庫に置かれます。ミカンは神宮球場のスタンド下と聞いたことがあります。
 蒲鉾等のオセチは晴海に見本市の会場があったとき,暮れの荷物は置かれていました。随分昔の話です。今はビックサイトと聞いています 。天皇誕生日が12月23日になりクリスマスがさかんとなり、コンビニ等の24時間・年中無休の商店が増え正月に買いだめする必要がなくなりました。
 昭和62年末まで暮れの築地は本当にすごかったのです。築地市場の通路が駐車場化して得意先に配送するに難儀していて、これを避けるため晴海通りや新大橋通りに車を止め遠くは浜離宮の先、聖路加病院の方まで駐車していました。築地4丁目の交差点から警視庁の先まで渋滞し、また門前仲町方面まで渋滞が延び、築地警察署は他の警察署からクレームを受けていたそうです。今は昔の話。
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築地市場とかもめ

2006年12月05日 | 築地市場にて
築地市場の白いかもめは昼頃何処からか集まってきてハッポースチロールの箱の山付近で築地市場の新鮮なエサ=ごみをあさっています。その姿はヒッチコック映画の『鳥』を思わせるくらい人を怖がりません。あの嫌われもののカラスより強い。
 かもめは勝鬨橋のたもとに集まって築地市場へ出勤する前、待機している姿を見ました。場所は勝鬨橋たもとで宿泊施設や風呂がある築地厚生会館の裏の隅田川岸壁です・
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築地での珍しい食品の探し方

2006年12月04日 | 築地市場にて
今はネットで簡単に探せますが、これは通販価格でプロの仕事ではありません。旬・量・品質・事故処理対応性などを考慮して探します。基本的には本業以外は紹介捜索のみ。商品に責任がもてないため。
 先日、ニューヨークのレストランから種無し・無着色・国産のカリカリ梅を探しました。また国産のわさびは築地場外市場でツマ屋が集まっている所を紹介してもらいました。わさびとガリ(甘酢ショウガ)は寿司に必要な物です。でもわさびは詳しく知りません。場外の漬物屋さんに(わさびで)しっかりとした商売をしている所はありませんかと聞いて、紹介してもらいました。自分の目で商品の“ウンチク”を聞いて、日本食品を輸出している業者を紹介しました。築地場外市場は食材の探し甲斐のあるところです。でも、最近は品質より価格の安さを求める人が多く出番は少なくなりました。残念。
 日頃、観光客に混じって場外市場をプラプラします。食の季節はいつも場外から。
 もうじき年末商材一色になります。見事といっても良い変身です。
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築地でプロの仕事を感じる時

2006年12月03日 | 築地市場にて
築地中央卸売市場の代表電話は現在でも電話交換手がいて場内の何処に電話してよいかわからないときに直ぐに目的のところにつないでくれた時、都の職員ながら良い仕事をしているなと感じます。オリンピック招致と築地市場の移転が絡んでいて、彼らの仕事は豊洲市場では消えるだろう。都民のための市場相談所なってくれると良いのですが。
 一つの会社でも正式な名称があったとする。更に“屋号”“通称”“略称”それから部門別があったりする。とても年季の新しい人には勤まりそうにも無い。
 最近、マスコミ等で築地市場がしばしば報道されて一般の人が築地市場内の業者に直接電話してきます。ネット通販の影響でしょう。テレビ局の番組制作の人からも電話がかかってきますが午後のヒマな時はよく聞いて番組の内容にふさわしい所を紹介します。すべて築地市場の交換台経由です。
 11月の20日前後に消費者から漬物用の干し大根を売っている所を紹介してくださいと市場の交換台に電話してきた。困り果てた交換台は電話を回してきた。(築地市場は東京都民の税金でまかなっている)オリンピック招致を都民に理解させるため交換台は親切です。
 『今年は暖冬で干し大根は遅れ目です。12月の中頃、群馬県産が出ますので懇意な八百屋さんに予め頼んでいてください。』と答えておきました。
NTTの番号案内のように住所では築地市場は探せません。全部東京都中央区築地5丁目2番地1号です。
追記 今スーパーや八百屋等で売られている青首大根は干しても沢庵にはなりません。品種が違っていて美味く出来ません。

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築地市場は観光地③

2006年12月02日 | 築地市場にて
最近の築地市場への観光バスの増加は日々目立ちます。築地のガンセンター病院の前で下車して築地場外市場へ向かいます。まだ衣料品の店は少ないのですがそろそろ増えそうです、築地場外市場は着実にスガモ化しています。(年寄りのための観光地)
 行列の出来る店がどんどん増えています。先日、長い行列が本場と場外市場の間の歩道にありました。なんと女性用トイレの行列でした。築地市場は圧倒的に男性が多く女性が少ないため(荷物を動かす労働が多く)女性専用トイレは少ない。場外市場では他に見られない、または築地以外では消えた専門店があります。最近健康に良いと言う雑穀の店はかなり賑わっています。削り節のばら売りの店があったりして、とにかく昔の商店街が元気な頃あった店が残っています。築地場外市場では塩分を減らしていない昔ながらの梅干も売っています。プロの料理人は味付けていない梅干を料理に使います。
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