年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

連休

2007年07月16日 | 築地市場にて
大荒れにならず
15日真昼まだ雨が降っているのに、隣の浜離宮からカラスが出てきた。テレビではまだ伊豆半島くらいで台風が過ぎ去ってもいないのにカラスが出てきた。さすがに観光客が少なく静かな連休初日。明日は明日で混雑するだろう。連休の初日はテレビ撮影等のことがある。タワーマンションのクレーンも台風のせいか遅れて途中まで降りてきて今週には消えるだろう。珍しい撤去の仕方。とにかく目立つ海外からの慣れていない観光客。場内の人たちのイライラが夏の暑さと共に来なければ良いのだが。
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台風4号

2007年07月15日 | 築地市場にて
早明浦ダム
四国の吉野川の上流にある大きなダムはこの度4号台風によってあっという間に渇水状況から脱出しそうである。徳島県は漬物原料の産地でいつも気にしている。適当な雨であることを祈る。
 雨は知られざる日本の資産。輸入農産物は生産国の水資源を輸入していることになる。地球温暖化でどんなものが貴重になるのだろうか?
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中国の不正食品

2007年07月14日 | 築地市場にて
中国の不正食品
中国の不正食品を騒いでいますが、日本でも明治30年頃同じような話があり、現在の食品衛生法規が出来ました。牛乳に水を入れたり、小麦粉を入れて増量を図ったりしていました。勿論不正着色料使用がありました。約110年の差があります。商標法も明治時代にあって酒のブランド『正宗』が普通名詞扱いされ『桜正宗』『菊正宗』等になりました。商標登録と取締によって明治年代に謝罪広告がしばしば出ています。
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特15番

2007年07月13日 | 築地市場にて
特15番届け
茶屋出し
さあ解るかな?
ヤマト運輸の臨時待機所で品だし。
お中元の荷物で大忙し。やはり築地直送、しかも場内より出荷は鮮度は抜群と思う。
さて特15番とは築地市場の何処にあるか?
答え 波除神社のある海幸橋門に一番近い荷物預かり所です。午後になるとヤマト運輸の車が止まっています。築地には時間によって色々な人が決まった場所を使用しています。無い様であるある掟。下手に駐車すると叱られます。
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明治の夏は料亭も夏休み

2007年07月12日 | 築地市場にて
明治の夏は料亭も夏休み
今のように冷蔵庫の無い明治時代が魚を扱う料理屋は夏は休業していて,結構色々な所に旅をして、全国の色々な食べ物が東京に普及した。季節のものをきちんと食べていた健全な時代であったともいえる。今は季節外れの野菜や果物。魚が交通、保存技術等の発達で食べられるが、考え方を変えれば不健全な時代とも言える。サンマなんかは江戸時代は11月が走りだったし、7月なんかには産地に行かなければ食べられなかっただろう。
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7月11日本日休市

2007年07月11日 | 築地市場にて
本日休市
本日・築地市場は休み。事情を知らない観光客は場内をウロウロ。働いている人は年中無休の店舗の人たちのみ。年々休市日の観光客の増大が目立ちます。海外ではもう夏休みでしょうか子供連れの観光客が目立ちます。
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築地市場のバイアグラ

2007年07月10日 | 築地市場にて
築地市場のバイアグラ
毎日メールチェックしているといわゆるスパムメールが大部分で直ぐに削除するのですが、ヒマな時は中身を見るとかなりのメールが『バイアグラ』の販売のような気がする。
 用があって築地市場の診療所にいると。ここは人気の寿司店の二階の所に在って、下の混雑の状況がよくわかります・
 診察の途中にドアの横にひっそりと広告がありました。『バイアグラの必要な方は申し出てください。簡単な診療の後、1錠2千円で処方いたします』と書いてあった。そう言えば築地の働いている人は太目が多く、糖尿病が多いと思っていたので必要な人がいるんだなと思いました。
 このことを戻って話すと『何年も前から掲示してありましたよ』といってました。みんなは見栄を張っているのでしょう。年寄りの目立つ築地市場は『バイアグラ』は必要な薬なんでしょうか。みんな使っていませんといってます。どうかな?


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築地の観光客

2007年07月09日 | 築地市場にて
7月になると海外の人は夏休みとなったと見えて、急に子供連れの外国人観光客が目立つようになった。とにかく多い、今東京で一番クールなところになっているのだろう。築地市場の場内・場外の老朽化はだんだん目立つだろう。違法なのだろうが歩道でテーブルを並べて食事するのは今日本では築地場外のみではないのだろうか。
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明治16年水産博覧会

2007年07月08日 | 福神漬
大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。

陶山清猷(すやませいゆう)とは著書に『有用藻譜 第1編』東京市麹町区飯田町6丁目24番地
田中芳男とは1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力した。1881年、大日本農会1882年、大日本水産会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した。
河原田盛美(かわはらだもりよし)農商務省漁業技師として全国に近代漁業の啓蒙に努める。農業、漁業関係で多くの著作を残す
水産博覽會報告 事務顛末ノ部   ― 抜 粋 ―
( 明治十六年九月二十九日出板届、 農商務省農務局藏板、  国立国会図書館蔵 )
三月三日 太政官より 水産博覧会規則 地方官心得書 並 売店店規則の布達あり」但 品物販売店は之なくして 塲内に食堂茶店を許すも 5軒のみ  農商務より 本会適当の者を選び 事務を担任せしめ 其人名を農務局ヘ通報すべき旨を府県に通達す」
この水産博覧会の5軒の店舗中一つが酒悦の店だったのだろうか。
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明治の福神漬の宣伝文

2007年07月07日 | 福神漬
漬物のおけいこ
井上秋江著より 国会図書館デジタルライブラリーより
明治38年2月

本に載っている福神漬の宣伝文
陸海軍御用
登録商標 マークがある
福神漬
弊店製品の福神漬は当神田市場に各地の特産を材料として製法を改良を加えたれば在来の旧製品とは違い風味滋養に富むのみならず四季の変動に逢うも決して変質腐敗のなきにより日常の御食料には勿論御旅行の副食にまたは御進物等に適し、至極軽便なればなにとぞ御使用の上ご愛用あらんことを希望する。
葡萄酒缶詰製造
西村小市商店
東京市神田須田町

陸海軍御用となっているのは信用があるということ。
登録商標としてマークがある。しかし福神漬は普通名詞となっていたのだろうか。福神漬は缶詰で販売していた。
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明治の景気の良い頃

2007年07月06日 | べったら市
明治43年10月20日読売新聞
べったら市
今年は良い景気
新潟育ちで白山の祭りと盆踊りとより他に賑やかなものを知らぬ記者は東京一の人出だと言うべったら市を昨夜八時から見物に出かけた。小伝馬町人形町通りで電車を降りると四方はもう右往左往,クモの子を散らすような人だ。混雑の間を潜って本町通りに出ると大丸呉服店が電灯装飾をして飾り棚に呉服細工の巾着,打出の小槌等の宝物を飾ってあるのが目に付く。この往来がべったらの本道筋と見えて盆踊りや白山踊りにも見らぬ雑踏だ。往来の人は歩くのぢゃ無く自然に押されて前に出る。浅漬を下げた連中がべったらベッタラと怒鳴ってきて美しく着飾った女連れにはことさら浅漬を振り回し打ち付ける。女子供はキャキャと言って逃げる。着物は粕がベッタリ付く。江戸趣味の金棒がチャリンチャリンといかにも床しく音をしてその間を縫う。宮師、玩具、切山椒、その他色々の露店もたくさん出ている。ことに縁日利くが大分よく売れていたが何と言っても繁盛するのは浅漬屋に限られ市場の若い衆が白いシャツに紺の腹掛け、向こう鉢巻という威勢の良い格好をして『只のように安いぜ、サア買った買った』と叫ぶと店は絶えず黒山の人だかりとなる。記者も買いたくなって手ごろなのを4本より出して幾らだと聞くと56銭という。さすがに土一升金一升の東京だと恐れ入って逃げ出すと『オイ旦那旦那これから負かすのが旦那の腕だ』と気持ちよく引き止める。押し問答の末今年は景気が良いからと言って、4本28銭までは負けた。恐ろしい駆け引きだ。わずか2~3丁ところを一時間ほどかかって大伝馬町の恵比寿神社に参詣する。東京一の市を持てる本尊はさてもちっぽけな九尺間口の社に鎮座まします。もったいないがまるで裏店の便所のようだ。しかも賽銭は雨の如く降る。田舎と東京とは神様の功徳も大分違うと見える。随分不良学生も横行していて生娘連は混雑の中で大分傷められていた。警戒の巡査は案山子でもあるまいに。

ベッタラ市に出店している露天商は1200軒くらいでその内ベッタラを売っている所は600軒で平成の今は30軒くらいです。
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明治の家庭用漬物本

2007年07月05日 | 福神漬
漬物のおけいこ 井上秋江著 
明治38年2月 国会図書館 デジタルライブラリより
福神漬
色々な材料を細かに刻んで醤油と味醂とで漬けあげた物で弁当のおかず等にはことによろしい物です。上等なのは缶詰にして永く保ちます故に軍用としても用いられます。
材料 
竹の子・しそ(しそは青しそを用います)なた豆・かぶら・茄子。干し大根等、この他にマツタケも入れますが,味はよろしいけれど永く持ちません。前記の品々は土用を越せるように(注・夏のこと)塩を強くして塩漬にしてこれを原料とします。
漬け方
さて材料を一緒にして漬け直すのですが,そのときは一旦塩出しして塩気を取り、これを十分に良く絞って汁気がなくなり、カサカサになるまで搾ります。それを細かく刻み、まず醤油に浸しておくのです。醤油に漬けて五日間も経ちますと、醤油の味がしみ込みます。最も醤油がまんべんなくしみわたるように幾度も上下にかき回さねばなりません。(塩出しとは材料を水につけて塩分を取る)
味付け
前記のようによく醤油に漬けましてから更に味付けをするのです。それは上等な醤油と味醂と砂糖を加えた汁をこしらえて置き、カメなり壷なり缶なりに詰めます。味付けは前の材料を入れてこの汁をかけて貯蔵します。汁の分量は、次の通り。こうして食べるのは即席漬でもよし、また何時までも置いても良い。
原料 120匁に対して汁 20匁
福神漬の永年保存漬
本仕込みにして永く保たせようとするには醤油に漬ける前に水を切るのですが材料を布か何かで包んでなるたけ水を切るようにしなさい。水を良く切るほど永く保ちます。(本仕込みにするには圧搾機と申す機械にて全く水気の無いように搾ります。)
 そしてこれを缶詰にするのですがこの様にすれば何年も貯蔵でき土用中でも容易にカビが生えるようなことはありません。
干し大根の福神漬
干し大根を横から一分位に切りまして、味醂一合、醤油二合一緒に沸騰させ、冷ました汁の中に唐辛子一つ二つ入れ、それを一週間ほど漬けて置くのです。

日露戦争中にこのような本が出版された。福神漬が普通名詞となっていたのだろうか。家庭等で缶詰が出来たのであろうか。

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しょうがない

2007年07月04日 | 宅老のグチ
しょうがない
しょうがないで辞任しましたが今中国から生の生姜の輸入が止まっています。原因は日本の検査が厳しくほとんどの生姜が農薬検査に引っかかって中国に戻ってしまいます。漬物の塩漬け生姜は何回も検査しているので遅れてはいるのですが入ってきます。『しょうがはあります』
週刊誌の見出しはいつも不十分で不愉快極まりない。
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船の福神漬 明治末期

2007年07月03日 | 福神漬
海軍料理おもしろ事典 高森直史著より
海軍割烹術参考書 明治41年発行
漬物の漬け方
浅漬・大阪浅漬・大阪切漬・糠味噌漬・生姜梅漬・生姜味噌漬・瓜の塩圧漬・瓜味噌漬・かみなり干し.ナス塩圧漬・ナス味噌漬・ナスからし漬・かぶ千枚漬・こかぶの酢漬.

この参考書ではカレイライスの付ける漬物類としてチャツネ(生姜・唐辛子等を砂糖酢に漬けたもの。)とあって明治41年頃は海軍では福神漬となっていない。日本郵船の方が福神漬の搭載は早かったと思われる。日本郵船に福神漬を推薦した人は誰だろうか。
 酒悦主人が売り込んだだけでは外国航路の船に積込むとは思えない。この口利きをした人物は誰だろうか。新しい食品を売り込むのは今でも難しいことで日本郵船の誰かであろう。
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日本花街史

2007年07月02日 | 福神漬
日本花街史 加藤藤吉著
福神漬の歴史を調べていくと今の時代感覚に会わない風俗が次から次と出てくる。べったら市の記事の前後に花街のお披露目の写真があったりしていて朝日や読売・毎日新聞が芸者の写真を載せていたり、遊郭の無理心中事件を事細かく報道していたりしていた。一面では戦争の記事、三面では遊郭記事、それが明治の20年代から30年代の新聞であった。
日本花街史を図書館で借りて読むと『花街という世界は、何時の時代でも時の権力と密接な関係があり、社会問題上の焦点となり、事毎にクローズアップされるが、結果はいつも切り捨て御免となる所から、お互いに力をあわせて助け合い、どんな被害でも涙を呑んで忍び、生活を護ってきただけ、義理や人情に厚く、強い団結力を持ち、今時珍しいほど封建的な色彩の濃い所である。そうした世界で生きてきた女性には独特の雰囲気があり、一種の花街の良識とされていたが戦後は人権の問題から種々の制約を受け、遊郭や花街はすでに過去のものとなってしまった。』
明治の時代は女性が生きていくには選択の余地が少ない時代でもあった。華やかさの中に暗い面も同時に存在していた。福神漬の資料の隣にはそんな記事ばかりで思わず大変な時代であったと思う。
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