年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

作り出す需要

2009年05月16日 | 福神漬
作り出す需要
明治の初めに西洋から色々な食品が輸送の高速化で日本に入ってきた。そのような食品は海外に出かけた人達の口コミ宣伝や外国人居留地から少しづつ日本国内に広まってきた。しかし福神漬のような明治時代に創生された食品は今と違って販売拡大する方法が限られていた。昔ながらの方法と新しい宣伝媒体を利用してゆくようになっていく。
 明治の10年代に作られた福神漬の作り出した需要が拡大してゆく過程は調べるとそんな歴史あるともいえる。
 缶詰という西洋の文明に日本の漬物を入れた。しかし高価になったためその需要拡大には苦労したと思われる。日本には漬物にお金を払う文化は昔はなかった。そして記述も少ない。
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築地のコンワビル

2009年05月15日 | 築地市場にて
コンワビル
東京都中央区築地1-12-22
2003年までこのビルの中に得意先の事務所があった。味の素の系列の貿易会社で業界用語で(たくわん貿易)を行っている部門があった今は有明に行って縁遠くなった。このビルに行った時妙に気になったのはビルの名称である。コンワとカタカナで懇話のことというのを知ったのは最近のことである。敷地の隅に日本における活字の発祥地の碑がある。
明治6年、印刷業会の先駆者として日本の印刷文化の源泉となった東京築地活版製造所創業し、活字だけでなく関連する機械も製造していた。ここで造られた活字書体を「築地体」と呼ばれている。「築地体」は佐久間貞一の作った秀英舎の「秀英舎」の「秀英体」と並び、活版印刷時代を代表する書体である。
東京築地活版製造所の最初の活字の納品先の一つに日就社があった。ここは東京日日新聞を印刷していた。地方から来た人が銀座にある立派な建物が日就社とあったので神社と間違え、お賽銭を置いていったというエピソードがある。
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活版印刷と板紙

2009年05月14日 | 築地市場にて
佐久間貞一の碑
台東区根岸の西蔵院にある佐久間貞一の碑は榎本武揚の書で建っている。旧幕臣ネットワークを示していて碑の後ろに書いてある文の中で気になっていた部分があった。活版印刷と板紙(ボール紙・厚紙)の日本における創始者となっていた。 明治九年(一八七六)東京・銀座の数寄屋橋ぎわに創設され秀英舎(現・大日本印刷株式会社)を創業し活版印刷を始めたと同時に麦わらから手漉きの板紙を作り本の表紙とした。明治19年に機械化した板紙工場も佐久間の手で作られた。明治時代に銀座に新聞社が集まった原因は一般に情報収集するに便利な地だったと思うが印刷する会社や築地活字という会社がそばにあったかもしれない。新聞社で活字が足りなかった時、築地まで取りに行ってたようである。
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休市日の予定行動

2009年05月13日 | 築地市場にて
休市日の予定行動
5月ともなれば気温も上がって冷蔵庫の機械が連続稼動となって冬の間に故障していた事が解るようになる。そのため室外機の掃除を依頼することになる。場内は工事関係者だらけ。こんな閑散とした市場に外国人観光客がウロウロしています。ワザワザ海外からやって来て築地の雑踏を知らないで帰るのが残念。
 そろそろ3月決算の情報が入ってくるが水産のほうの低迷状況が気になる。どうなるんでしょうか。不正する誘惑の多い時期だが誠実な商いをしないと市場の信頼を失う。
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ツキジーランド

2009年05月12日 | 築地市場にて
ツキジーランド
テレビ東京の番組を見ていたら『つき爺―ランド』と見えた。元気な高齢者がそれなりの経験を生かして働いている。
 連休明けの最初の休市がやってくる。観光バスが増えて場外市場が年々雰囲気が変わってくる。5月4日の半値市は凄まじかったという。不景気で近場ですごす人が多かったのだろうか。休日には浜離宮を訪れる人のコースとなっているようだ。
 本家本元の浦安の大型遊園地と同じように築地市場は毎日がリニューアルである。
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みとりの記 小栗貞雄2

2009年05月11日 | 福神漬
みとりの記 小栗貞雄2
雑誌『上毛および上毛人』は県立図書館郷土資料のところにある。連載が数回以上あったので『みとりの記』を探すのに手間取ったが逆に徳富蘇峰などが寄稿していて寄り道読書。
帰途小栗上野介が惨殺された権田村倉渕の烏川に向う。かなり山奥でこんなところで小栗は何を考えていたのだろうか。アメリカへ逃亡する機会があったのに彼が江戸から彼の地について二ヶ月の命であった。
 国子の交友関係で大隈信幸夫人・村井弦斎夫人がいた。しかし夫貞雄氏によると結婚まで旧習を尊び肉などはあまり食べなかったという。大隈重信の保護を受けていたのに食のことは重きを置いてなかったようであった。結婚後、夫貞雄氏の影響で徐々に食が変ったという。
 しかし判らない事がまた増えた。三井の三野村家からかなりの資金援助があったのに小栗国子はそれ程贅沢な生活をしていない。三井から大隈重信への迂回献金だったのだろうか。
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みとりの記 小栗貞雄

2009年05月10日 | 福神漬
みとりの記 小栗貞雄
 昭和4年8月小栗上野介遺児国子夫人が亡くなったとき、夫小栗貞雄が親しい人に送った故人の思い出の記録。群馬県立図書館所蔵 上毛および上毛人より
大正4年9月横須賀造船所50周年記念で皇后陛下から御下賜金をいただき、小栗上野介遺族は罪がなかったのを確信したという。
 普通有名人の子孫のその後はあまり知られていないが小栗国子の一生はこの『みとりの記』でよくわかる。彼女の体重が一生10貫(約38キログラム)を越えることがなくいつも9貫ぐらいだったという小柄で病弱な体でよく62歳まで生き、一子を儲けた。汚名をそそぐことが彼女の生きる希望でもあったのだろうか。
 小栗貞雄の言葉『古来価値ある人は人間でも神に祀られている。神に祀られるを識者が評して、自然と世の中に重きをおく様になる。加藤清正が清正公として神になっているのに人間が正三位としているのがおかしい。正一位ではないか。』
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春城師友録 市島春城著

2009年05月09日 | 福神漬
春城師友録 市島春城著
奥村繁次郎のこと
大正8年12月16日にチフスで亡くなったという。蔵書家で名が通っていた芋繁は御徒町で焼き芋屋をやっていた。今の東京でもやっていることだが路上にある植木鉢にローマ字で書いてある木札がさしてあった。
 芋繁は商売柄、植物学を極め、研鑽造詣が深く、したがって食物料理に通じていて、食物博士などと呼ばれていて漬物の本も何冊か書いている。
 湯島天神下に移って『食物辞典』などの編集に取り掛かっていた頃、髭を生やしたころから商売が不調となっていったという。学者先生になってイモの仕入れが甘くなって不振になったという。

根岸党のなかに楢崎海運という人がいる。海運橋の袂にある紙屋。役者、芝居者の冊子を集めていた。『森羅万象』という切り抜き帳に役者ごと年代別に分類してあるという。海運の親がその頃の十二大通の一人だったという。
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吉佐移民会社のこと

2009年05月08日 | 福神漬
吉佐移民会社のこと
当時日本郵船副社長吉川泰二郎の目的
海外に航路を拡大する希望があったことと当時オーストラリア航路は競争がまだ激しくなかった。航海事業は殖民事業と相発展する。海外に殖民事業を起こすと、貨物の運搬、通信の往復が頻繁となり、航海事業が成り立つ。明治28年近藤死去。佐久間が明治31年11月肺結核で死去。
 明治30年
日本郵船近藤廉平、副社長加藤正義重役岩永省一、浅田正文らが協議し資本金10万円で東洋移民会社を設立し、吉佐移民会社の事業を引き継いだ。
 明治30年佐久間貞一はブラジル移民事業が現地の不況で中断となり30万円の負債を負う。彼は両国の将来を考え個人で処理したという。ブラジル移民事業の始まる前の話である。
浅田正文の経歴に東洋移民会社があるのはこのような経緯があった。

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コンビに店員のマスク姿

2009年05月07日 | 築地市場にて
コンビに店員のマスク姿
築地市場の隣にあるコンビニ店員が全員マスク姿で客の応対をしていました。違和感のある空気。
 本当に流行が始まった時、店は閉めるのだろうか。マスクをする習慣のない国の感染が広がっているのが気になる。
ノロウイルスの問題もあるし、衛生問題は築地のアキレス腱ともいえる。築地には外国人観光客が時差ボケ解消のツアー、ツマリ早朝の市場見学が多いから、インフルエンザの感染の可能性は日本のどの所より多い。
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小栗上野介の遺児国子

2009年05月06日 | 福神漬
小栗上野介の遺児国子
小栗上野介夫人は密かに会津で遺児国子を出産した。明治2年春会津をたって東京へ出、さらに静岡まで行った。そのころ静岡には徳川慶喜に従って、小栗又一の実家の旗本駒井家や、夫人の妹はつがとついだ蜷川家が神田から移り住んでいた。
小栗の未亡人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年死んだ時大隈重信へ保護を依頼した。大隈の保護の下で遺児国子は嫁ぐまで三野村家の助情金で育てられた。
大隈重信の妻綾子は三枝という旗本の娘であり、小栗家とは親戚同士だったのだ(上野介と綾子は従兄妹)。大隈重信は小栗上野介の遺児である国子に大隈門下の矢野龍渓の弟の貞雄を養子に迎えて小栗家を再興させた。小栗貞雄は大隈の改進党から出馬して代議士を一期勤めている。
 明治の時に食通と知られていたのは九代目市川団十郎と大隈重信であった。明治のベストセラーの小説・村井弦斎の『食道楽』台所風景の絵は大隈重信の家をモデルにしていると言う。森田思軒を『高級食客』と評した小栗(矢野)貞雄の味覚はこのような背景があった。
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高等食客

2009年05月05日 | 福神漬
高等食客
森田思軒のことを調べていたら『高等食客』という言葉で森田のことを小栗貞雄という人が評していた。
食客という言葉は辞書によると客の待遇で抱えておく人。しょっきゃく。 他人の家に居着いて食わせてもらっている人。居候とある。『高等食客』という言葉は中国の戦国時代から始まった風習で貴人が才能のある人物を客として遇して養う代わりに、主人を助けるというもの。明治の時はまだ政情不安で暗殺も多く中国での食客という言葉の意味で使われたようである。
思軒はかなりの食通でもあったらしく九代目市川團十郎と大隈重信の家の食事は良いと言っている。伝記森田思軒-明治の翻訳王 谷口靖彦著から
森田思軒は明治15年、慶應義塾の恩師矢野龍渓の経営する郵便報知新聞に入社しました。小栗貞雄は矢野龍渓の弟で幕臣小栗上野介の遺児国子の夫でした。小栗上野介が明治維新後惨殺された時、国子は生まれていなかった。
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下谷のこいのぼり

2009年05月04日 | 宅老のグチ
下谷のこいのぼり
下谷の町をうろうろしても鯉のぼりの姿が見えなかった。少子高齢化の町なのだろうか。帝国データバンクの情報誌に需要不振のせいで倒産したと言うのがある。和装業界の需要が平成の始まりには二兆円近くあったのが今では六分の一くらいしかないという。着物を着る機会が減ったことと言うこと。漬物だって米関連食品なのだから米消費が減ってる以上需要拡大に工夫が必要となる。
最近の需要蒸発で来年の制度融資の返済が始まった時、不況が続いていたらどうなることやら。報道で高速道路が込んでいるようだが渋滞で消費する時間が少なく結果として消費金額が減ってしまう事だってありうる。今の日本の中でお金の余裕のある人は健康な高齢者で彼等の財布を開けさせねば需要は増えない。将来の不安や介護問題の制度不備からまだ財布は開いていない。
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例大祭のころ

2009年05月03日 | 築地市場にて
例大祭のころ
5月は下町の例大祭の季節で下谷神社は10日の執行とか。台東区中央図書館に行くのに上野で日比谷線乗り換えで入谷下車でむかうのだが浅草線でたまには向おうとして稲荷町で降りたら一駅下車が早かった。松が谷の寺町をウロウロしながら河童橋道具街経由図書館に向う。
 河童橋から日暮里に歩いてむかう。例大祭の広告がそれぞれの町で幾分執行日が異なる。根岸に入って元三島神社の祭り。三年に一度の祭りで昔の根岸の里の住民の祭りで荒川区東日暮里の人も参加しているようです。約一時間の距離。
今日の図書館の収穫。成島柳北の読売新聞寄稿明治14年10月29日『沢庵漬』
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台東図書館ゆかり

2009年05月02日 | 宅老のグチ
台東図書館ゆかり
台東区の図書館に『ゆかり』というのがある。区内に点在している図書館だと思って探すが何処にもない。ふと思い出して郷土資料のところに台東区にゆかりのある人達の本がまとめてあるところに(台東区にゆかりのある人)という場所があったことを思い出した。
 しその塩漬を刻んだ商品を昔『ゆかり』といっていた。しかし登録商標となっていたため今では『ゆかり』と言っても誰もどんな商品かわからない。今通常に販売されている商品は『しそふりかけ』となっている。
 福神漬の商品名も商標登録されていないことで普通名詞となって今に残っている。
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