年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場内の工事

2011年12月16日 | 築地市場にて

市場内の郵便局に向かう途中で工事のドリルの音がした。昔貨車が汐留からやってきて魚を降ろしたプラットフォームのところでいつの間に工事現場となっていた。一年で一番築地市場内が混雑する年末になぜ突然工事を行うか理解できない。あと一か月ほどでがら空きとなる場内で急いで工事を行う理由が分からない。
 都議会の環状2号線隅田川橋梁予算も可決したようで豊洲の移転は着々と進んでいる。年明けには電気容量の件で東京都に出す要求書の打ち合わせが始まる。今後50年の不足のない電気容量など予想もつかない。そろそろ移転の本格的社内打ち合わせが始まる。
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そして誰も居なくなる

2011年12月15日 | 築地市場にて
そして誰も居なくなる
政治屋さんが選挙民の投票行動を恐れて、いやなことを先送りしているようだ。しかしギリシャの様子を見ると、公務員とか年金の削減でストライキが多発し、観光客が減り、さらに経済が悪化し、頼みの税収が減っているようである。将来に希望を無くした若者や技術のある人達が海外移民へ向かっているという。今の日本でも離島の住人は年寄り・年少者・公務員(警察官・先生・役人)が多数を占めている。このままの状態が続けば優良日本人(税金を黙って日本に払っている人)が国籍を外国に移して、パソコンで日本に仕事の指示をする時代が来るかもしれない。
円高にも強い漬物は他産業が海外にしても日本に残り、親の介護の問題で地元に残る若い人達の人気産業となるのだろうか?三陸の被災した地場産業を再建するには水産加工業が復活しなければ再生は無い。
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イギリスのスキャンダル報道から

2011年12月14日 | 福神漬
イギリスのスキャンダル報道から
イギリスで新聞記者が電話を盗聴し一般庶民向けのスキャンダル記事を書いていたことが判明した事件があった。明治日本の創生期には新聞は旧幕臣に人たちが創った新聞が多く、それなりの信条があって政府と対決する報道をしていたように思える。しかし、西南戦争後、国が徐々に安定してくると新聞記事に期待する読者層が変わり、新たに読者となった一般庶民が政治報道だけでなく、芸能・芸者情報記事が好まれるようになり、新聞報道が政論新聞から政治弾圧を避けるために、歌舞伎演劇・戯作的連続読み物と政府高官・金持ち・僧侶等の妾の記事を売り物とする小新聞が販売部数を増やした。小新聞は同時に従来の観念からはみ出た女性を攻撃することで政府がすすめる欧風文化政策を間接的に攻撃していた。当時のファションリーダーは芸者で彼女等の口コミ宣伝から福神漬が普及する事となる。次に女学生がファションリダーとなるのは明治20年代以後のことで鹿鳴館の頃は好奇心の餌食となっていて根も葉もない噂で攻撃されていた。今では史実のように語られているが殆どは虚偽の報道であると言って良い。当時の庶民向けの事件を報道する新聞記者はゴロツキノの仕事だった。
 丁度この明治17年から18年頃に福神漬が命名されたのであるが周囲の様々な動きを見ていると明治時代も将来が必ずしも明るく見えなかっただろう。
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福から

2011年12月13日 | 福神漬
福から
磯野福の事を考えていたら「福音」という言葉が浮かんだ。築地居留地にあった海岸女学校は今の青山学院の前身である。この福音という日本語は何時頃から日本で使われるようになったのだろうか。
 中央区の散歩ガイドには海岸女学校と女子学院は今の佃大橋のたもとの位置となる。明治の頃はバスも電車もなくどこから歩いてきたのだろうか。もし下谷から歩いたらどれほど時間がかかったのだろう。辞書で福音という言葉を調べたら良い知らせとあった。
 今年は良き知らせが無いまま終わりそうである。いつも先行き不透明だが来年の景気予測が今年ほど暗い年はない。

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森有礼の小説

2011年12月12日 | 福神漬
森有礼の小説
福神漬の史料のために読んでいた戸田極子本の中に森有礼婦人の事が書いてあった。ついでに別の森有礼小説も読むが中味が違う。どうやら森有礼とその夫人の結婚・離婚は小説家の材料となるらしい。
 森有礼婦人となった広瀬常さんは幕臣の子女で詳しい経歴は読んだ小説では確定していない。その理由はなぜなのだろうか。広瀬常さんには妹がいて福という名前である。この福さんは築地の海岸女学校出身のクリスチャンだった。19歳の時、広瀬福は日本郵船発足時開業した明治屋磯野計と結婚した。結婚後少し経って福は身ごもり娘を出産した。しかし磯野福は産後の調子が悪く、間もなく菊子という一人娘を残し22歳で死去した。磯野計は後妻を迎えることなく明治屋を発展させたが彼も40歳になる前に病に倒れ死去した。残された菊子はまだ幼く後見人米井源次郎氏によって明治屋が維持され、16歳で婿養子(磯野長藏)をとった。今の明治屋の社長は米井源次郎の子孫である。
 さて長々と明治屋の事を書いたのだが「味の素食の文化センター」内にある図書館で明治屋73年史・百年史を読んでいるとやはり社史に福神漬が出てくる。一般に明治屋は日本における輸入食品のパイオニアで西洋の食品を日本人に広めた会社として知られている。ところが数多い食品の中でどうして福神漬が社史に出るのだろう。同様な疑問は明治屋の従業員のための事典にも表れている。漬物の項目の中で福神漬の部分の量が異常に多い。なぜなのだろうか。
 小説の中では広瀬家はどうやら下谷竹町とか下谷山下とかと箱館奉行所等が出ている。もし下谷に何か関係があって、磯野計氏が福の思い出地の下谷名産の福神漬を三菱に勧めた様な気がする。事実は小説より奇なりというがこの件はもう少し調べたい。

福神漬には「福」の名前が入っている。
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情報収集していても

2011年12月11日 | 福神漬
幕末日本の情報活動-「開国」の情報史-改訂増補版 岩下哲典著
黒船来航の日の翌々日夜嘉永6年6月5日東浦賀に吉田松陰は駆けつけた。次の日早朝高台に登り異国船を観察し,市中の情報を集めていた。東浦賀の徳田屋旅館には佐久間象山とその塾生も江戸からやってきて黒船を観察していた。松陰の参加した会合では幕府が異国船渡来の情報があったにも関わらず何もできない状況から体制批判となっていった。浦賀市中の情報では浦賀奉行戸田伊豆守氏栄と砲術指南下曽根金三郎は異国船対応処理で切腹は止むを得ないことを覚悟し、付近の寺をしばしば掃除しているという。これは長崎での英国船侵入問題(フェートン号事件)で長崎警備の長崎奉行と警備を担当する藩の重役が切腹した前例を連想していたと思われる。英国船が長崎で狼藉を働いていた時、佐賀鍋島藩は太平の世に慣れていて藩兵を長崎警備から減らしていた。この屈辱を味わった佐賀鍋島藩は次代藩主の下で兵装備の近代化に尽力し、明治維新の際に大きな軍事力を官軍からあてにされた。

 戸田伊豆守等浦賀の現場組があまりにも手際よく黒船を退去させたため、幕府内に開国の密約説が流れ、その後浦賀奉行戸田氏栄は間もなく左遷され留守居役となり、花香恭次郎が生まれる事となる。
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こじつけ

2011年12月10日 | 福神漬
こじつけ
漬物の福神漬は普通谷中の七福神めぐりから名称の由来すると思われている。しかし7つの野菜をそれぞれの福の神に無理して当てはめると大根は象の白い折れた牙からガネーシャ神となり大黒天となりそうである。茄子は布袋神の腹を想像され、なた豆はその形から毘沙門天の宝剣と似ている。さらにシソはそのちりめんシワから寿老人と見なすこともできる。しかしそれ他の福神漬に入っている野菜を残りの神々に当てはめることは難しいように思える。
 元々こじつけることは無理で七福神巡りからヒントを得て名称としたのは根拠がないと考えたほうが良いのではないのだろうか。江戸の戯作者が明治に入って、新政府に不満があり、しかし文明開化に否応なしに付き合わざるえない状況に缶詰に入れた(文明開化の象徴)漬物を江戸時代からあった谷中七福神めぐりからヒントを得て名称としたのではないのだろうか。さらに明治16年ころからの自由民権運動を名称の商品名中に密かに入れ、憲法国会開設の約束しただけで言論弾圧を続ける明治政府に新しい抵抗手段としたのではないのだろうか。小林清親の浮世絵の中に自由燈という絵がある。また自由糖というアメもあったようだ。福神漬もこの様なものの一種として考えたたらどうだろうか。
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岐阜県史 幕末のあたりから

2011年12月09日 | 福神漬
岐阜県史 通史 近代上から
美濃(岐阜県)の人達が幕末維新の動乱に巻き込まれるのが慶応4年(1886)正月3日に始まった鳥羽伏見の戦いからである。前年8月大垣藩は幕府から「兵庫開港」のため大坂警備を命令され、小原兵部(鉄心の子)以下500余名の大垣藩兵を大坂に駐屯させていた。鳥羽伏見の開戦に当たって「在坂の人数一同上京候様」と幕府から命令された。そこで大坂駐屯の大垣藩兵は鳥羽街道の先兵となり、薩長の藩兵と戦闘になった。大垣藩はよく戦ったが他幕府軍の士気があがらなく敗退した。
 鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜征討の朝命が発せられた頃から美濃の旗本諸藩の藩論が勤王・佐幕の両派に分かれていった。
 慶応3年大政奉還の後、大垣藩小原鉄心は太政官の参与として朝廷政権にいたが、同時に鉄心の子兵部は幕府方の先鋒として活躍したりしていて大垣藩内部が混乱していた。
 小原鉄心が朝廷に参加するようになったのは大垣の文化人江馬細香(女流漢詩人)梁川星巌との交流から広く人物が薩長方に知られていた。大垣市の史料では最初から鉄心は朝廷方には完全についていないように読みとれる。鳥羽伏見の戦いの様子を見てから藩論を朝廷方に付くように説得した様に思える。
 大垣藩は朝敵となった鳥羽伏見の戦いに参加した藩兵のため、征東軍の先鋒となって旧幕府と戦うことを密約した。その様な事情の知らない二本松藩は藩主の正室が大垣戸田家出身であったため密かに調停を期待していたようである。白河戦争で期待は裏切られ、戊辰戦争となった。鳥羽伏見の戦いで朝敵となった大垣藩兵は白河戦争後死罪を免れた。
 明治事物起源を著した石井研堂は今の福島県郡山出身であるのでその著書には戊辰戦争の影響が出ている。

 福神漬の命名由来の陰に黒船来航前後から自由民権運動福島事件と繋がり、最後に日露戦争最後の決戦で場であった奉天で日本陸軍は朝昼晩の三食の漬物が福神漬となり、日露戦争が終わって余った福神漬が軍隊から安く売却され一般庶民まで福神漬が普及した。

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公家の若様

2011年12月08日 | 福神漬
公家の若様
香取民衆史10 香取歴史教育者協議会
自由民権の才子 花香恭次郎(浦賀奉行戸田氏栄5男)と言う文章の中で花香家の中では「京都の公家の若様を養子にした」と言う噂があったという。花香恭次郎は明治5年5月より6年4月まで横浜の商社に勤めていた。この頃の横浜は鉄道開業の時期に当たっていて、景気の良い時であったと思われる。今でも高島町と町名で残る高島嘉右衛門と交流があったのではなかったのだろうか。自由民権家と知られている戸田欽堂は大垣戸田藩に側室として勤めたと嘉右衛門の姉の子供である。欽堂はアメリカ留学を一年足らずで挫折し帰国しているので明治5年には日本にいた。
明治3年には岩倉具視の娘極子は戸田家に嫁入りしているので,恭次郎は岩倉家の菓子でももらっていたのではないのだろうか。食べてしまえば資料として残らない。京都の公家の若様という噂は岩倉家と間接的交流があったということを示していると思われる。そもそも戸田氏栄3男長井昌言が明治になって工部省鉄道寮に務めるようになったのは、大垣戸田家と高島嘉右衛門の力と思われる。
 大垣戸田藩が維新の混乱を小原鉄心の力で乗り切ったがこの状況を作ったのは浦賀奉行から黒船の軍備状況を詳しく知り、小原鉄心等の大垣藩士が下曽根金三郎に弟子入りしたことなどは浦賀奉行戸田氏栄の口添えがあったと思われる。下曽根兼三郎は筒井政憲の子である。また長井昌言は筒井政憲が養子先を斡旋した。
 黒船来航時の人間関係が福島事件被告人花香恭次郎に付いていると思われる。

(福神漬命名にはウラがあり、色々な寓意が隠されている)
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遠いうた 2 戸田極子外伝

2011年12月07日 | 福神漬
遠いうた-徳川伯爵夫人の七十五年-徳川元子著
 岩倉具視の娘(この本では次女)が戸田氏共に嫁いだ理由がこの本に書かれていた。
「祖父戸田氏共(うじたか=氏正の子)は、安政元年(1854)美濃大垣に生まれ、慶応元年(1865)に11歳で10万石の大垣藩主となりました。慶応3年15代将軍徳川慶喜が大政を奉還した後、翌年正月に鳥羽街道で錦旗に対して発砲したのです。家老であった小原鉄心という人は天下の形勢を見て、この発砲事件の直後、機を逸せず藩の意見をまとめ、祖父を上京させ、朝廷に謝罪するように図らったということです。そして急転直下岩倉具視の長男具定の指揮のもとに入り、北陸東山二道の幕府鎮撫の官軍に協力したのでした。勤王を正義とし、また当然のこととした洪水のような時の流れの中で執った小原氏の処置は、祖父の家の存続のために幸運なものでした。」
 岩倉具定が征東の途中、大垣で鄭重な饗応を受け、縁ができ、岩倉具視の次女極子と結婚することになりました。小原氏等の幕軍から官軍へと豹変した主家に対する配慮があったという。
 黒船来航時、浦賀奉行戸田氏栄は縁ある大垣戸田藩に援兵を頼んであった。小原鉄心は130人ほどの兵士を引き連れ、浦賀にて見物人整理の警備に当たった。米国兵士と浦賀民衆との不測の事態を回避する目的であった。黒船の兵装備を見聞きした小原は大垣藩の兵装備を弓矢・火縄銃から近代的にするように藩主に進言したという。この大垣藩の兵力が関東に向かう時官軍が必要な軍事力だった。
 1871年(明治3年)戸田氏共(16歳)と極子(14歳)は結婚後1カ月で別れ別れとなりました。小原氏等の薦めでアメリカ留学となりました。この留学に氏共と同道した戸田欽堂は(戸田氏正4男)妾腹の子で母は横浜の豪商高島 嘉右衛門の姉でした。

「もう少し続く、福神漬命名の由来には直接の文献が無いので」
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鹿鳴館レイプ事件の真相

2011年12月06日 | 福神漬
鹿鳴館レイプ事件の真相
遠いうた-徳川伯爵夫人の七十五年 徳川元子著
何気なく都立中央図書館の3階開架図書のところを眺めていた。鳥居耀蔵の人物伝のとなりに徳川元子さんの本があった。この人は平成元年に82歳でなくなった人の本である。大垣藩主戸田氏共と岩倉具視の娘極子の孫に当たる人だが著者元子の母が早く亡くなったため、9歳の頃から神田駿河台南甲賀町6にあった戸田伯爵邸に
住むこととなった。この地は今の明治大学(南甲賀町11)付近で隣は西園寺公望邸(南甲賀町5)だった。
 「(明治の当時にすでに)好色の名が高かった伊藤博文は30歳という女盛りの美しい祖母に眼をつけて、仮装舞踏会が催されたある晩、祖母(戸田極子)を一室に誘い、狼藉に及ぼうとしたのでした。祖母は驚いて開いていた窓から飛び降り、裸足のまま庭を駆け抜けて、辻待ちの人力車に逃げ帰ったそうです。この話は醜聞として有名となり,生涯大迷惑を蒙りました」
辻待ちの人力車は今のタクシーのように使われていて、人力車夫から噂話が広がりました。この舞踏会のあと間もなく伊藤が未成年の若い女性を強引に犯した噂があったため、2つの事件が合成され報道され、事実関係が訂正されないまま現在に至っているようです。
 風刺マンガの團團珍聞は同じ神田区雉子町にありました。当時の主筆クラスにいた鶯亭金升は大垣戸田家の縁者でした。レイプ事件の事実関係を比較的早くから把握していたと思われます。伊藤博文に対して攻撃的だった團團珍聞が抑えた報道となったのは裏事情があったと思われます。三島通庸が事件を探査していて薩摩にたいする陰謀とみなしていることがあり、うっかりした報道で発行禁止となる恐れがありました。この事件報道は条約改正問題が絡んできて日本史に残る事件となりました。小説にも舞台にも上演されるようになりました。
 福神漬の様々な経緯を調べてゆくうちにレイプ事件はこの様な結論となりました。
参考 前田愛著 幻影の明治 三島通庸と鹿鳴館時代
 これにはレイプ事件報道をめぐる言論弾圧があった。政府批判の戯画を載せている団団珍聞がこの事件を報道していないのは不思議である。小林清親の首相官邸の仮装舞踏会の風刺画があるのになぜか報道されていない。想像だが鶯亭金升がレイプ事件の真相を戸田家から聞いていて、差し止めたと思われる。伊藤博文は団団珍聞の風刺先であるのに、記事が無いのも不自然でもある。
 言論弾圧の下では、真実でないものを比喩として記事を書くことは発行停止や財産没収があり危険だった。
 


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伊藤博文・濡れ衣の洗濯の図

2011年12月05日 | 福神漬
明治20年6月20日号團團珍聞
伊藤博文が濡れた衣装を洗濯屋に持ってきて、きれいにしようとしている絵がある。4月20日首相官邸での仮装舞踏会後のスキャンダル報道が濡れ衣だったということか。この件に関して團團珍聞の批判精神が妙に弱い。小林清親の風刺画があるが團團珍聞の誌上には掲載されていない。なぜ批評精神が弱いのだろうか。この6月20日頃女学雑誌が伊藤博文と戸田極子のスキャンダル報道で発行停止の処分を受けている。戸田夫妻が昇進し、ヨーロッパの大使館勤務となった。この事件は鹿鳴館の先行きを暗示していて条約改正のための欧風化政策の挫折を示している。
 伊藤博文と團團珍聞はよきライバルであり、それぞれの権力、ペン力によって戦っていた。しかし團團珍聞の姉妹誌驥尾団子が自決した頃(明治16年5月)から風刺力が弱まり、雑誌の販売力が下がり経営難となってゆく。團團珍聞社主野村文夫は芸州藩主だった浅野長勲の力を借り、團團珍聞の同じ敷地内(神田雉子町32)に新聞日本を誘致し、借財を減らした。明治22年2月11日に新聞日本は発足した。つまり一時は鶯亭金升と正岡子規は同じ所で働いていた事となる。また金升は大垣戸田藩の支藩深沢戸田家の子孫で大垣戸田家と交流があったようである。この事から、金升が仮装舞踏会後のスキャンダル情報の事実関係を知っていて、露骨に報道することを避けたと推察できる。
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鹿鳴館レイプ事件から

2011年12月04日 | 福神漬
福神漬の資料を追っている途中にしばしば鹿鳴館のことが記述されていて、伊藤博文と戸田極子に対するレイプ事件の出てきた。この事件報道で条約改正が困難になったことと日本主義という考えが出てきたこともある。明治20年4月20日の事件なので福神漬には関係はないと思っていたがどうも関係がありそうであった。どうして岩倉具視の三女極子が大垣藩主戸田氏共と結婚したのだろうか疑問が出た。鳥羽伏見の戦いで一時幕府軍方に付き、その後藩論を官軍方に変えた藩主に維新史の黒幕と言われる岩倉具視が娘を嫁がせたのだろう。この件の資料が無いかと調べていたら、極子の孫にあたる徳川元子さんの随筆があった。氏共の実母も薩摩藩出身であることも関係があるのだろうか。(親姫とも種姫という資料もある。どちらが正しいのか?)
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12月になっても盛り上がらず

2011年12月03日 | 築地市場にて
築地はどんな不景気な年であっても12月だけは混雑していた。しかし今年は何か雰囲気が違っていて、本来なら忘年会需要が増えるのだが、魚は放射能、肉は生が消え盛り上がりがない。10%の節電とかでイルミネーションを見にゆくことは節電に反する行為となりそうで自宅で豪華にというのがトレンドらしい。
 震災復興税で来年から増税になりそうで、それでなくともデフレで現金のチカラが強い。インフレにならなければ消費者がお金を使いそうにもない。得意先の漬物業者には財産を減らしてまで商売を続けることはないと指導している。廃業のペースは加速していて、その内どこのスーパーに行っても同じメーカーの商品が並んでいる事になりそうである。
築地市場内の環状2号線の工事が始まっても仕事が差し支えないほど暇になるのだろうか。来年になれば中国人需要の行く末がはっきりして決断する業者も増えるだろう。
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辛口

2011年12月02日 | 築地市場にて
浅漬屋が11月末で廃業
食品流通が集約化され、広域流通に対応する製造者が限られてきた。従って食事故が起きると、被害者の数が以前より多く、広域化してきたような気がする。既に関東地方で大手量販店に対応できる浅漬け業者は10社より少なくなった。以前のような丁寧な作り方より、機械化によって安定した品質の漬物を作るようになった。そこで発酵などの不安定な事は省き、調味料の味の漬物が主流となった。今の消費者は昔の味を知っている人は少なくなった。素人の造ったエバラの浅漬けの素使用の漬物と食べ比べても業者の味が良いとは限らない。
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