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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

隣の国の電力不足

2013年08月14日 | 宅老のグチ

隣の国では電力不足とかでクーラーが公共施設では使用禁止という。どんな天気かと調べると来週は雨が多そうでピンチは今だけかもしれない。日本は盆休みということだが韓国では8月15日以外は休みではないようだ。
 韓国農家も関税の引き下げで大変なようだが中国東北地方から安い白菜が入るので天候不順で言い訳することは出来ない。その中国東北地方では今年は雨が降り過ぎのようでどうなることやら。キムチ用の水分の少ない白菜は日本産では賄えない。為替の変動で簡単に隣国から入るので注意するのは農薬とかの問題となる。
 日本のキムチは名ばかりで実際は野菜サラダのキムチ風が正解かもしれない。発酵させている日本産キムチは価格が高くなるので販売されているのは少数である。
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なた豆歯磨きの疑問

2013年08月13日 | 宅老のグチ

福神漬の関連調査で江戸時代からの本草関係の文献を探し出しても最近新聞紙上に広告している「なた豆」関連の効用について書いてある文献が見当たらない。どこに根拠があるのか知りたいのだが口臭が消えるとか感じなくなるとかの宣伝しかない。漢方系の効能の文献を探しているのだがまだ見当たらない。
 明治の初期にどうして漬物に塩漬のなた豆を入れたのだろうか?また江戸時代後半の江東地域で普通に栽培されていた「なた豆」は食用だったか医薬用だったか不明である。出典「武江産物誌」
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飲む点滴

2013年08月12日 | 築地市場にて

江戸時代から夏場の飲み物として季語にもなっていた「あま酒」が発酵食品の見直しから注目されて、売り場にも夏場の商品として陳列されるようになった。
どんな理由か知らないが甘酒は漬物業者も取り扱っていて、売れ行き動向は気になる。一時のブームに終わるだろうが消費者の工夫があれば夏場の和風の飲み物の中で熱中症の対策として長続きする商品となるかもしれない。それには適切な塩味が必要かもしれない。甘酒は飲む点滴ともいえる成分が入っているという。
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東京湾の花火が終わって

2013年08月11日 | 築地市場にて

東京湾の花火が終わって、築地市場は盆休みとなるが最近東京が観光地となって地方からの築地市場を休市にも関わらず、見学に来る人が多い。
暑さのせいか、場内すし屋の行列が短い気がする。並んでいても暴走ターレーがあるので気の抜けない。先日も早朝から節電の放送があった。大丈夫なのか電力。
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広告社 創業者湯澤精司

2013年08月10日 | 福神漬
広告社 創業者湯澤精司
福神漬に関連した資料を探ってゆくと様々な疑問に当たる。広告もその一つであった。大正12年7月に当時の三菱商事会議室で日本缶詰協会の会合があった。その時の出席者の鶯亭金升が福神漬の命名に関する話をし、機関紙に掲載された。
 池之端酒悦主人に新しい漬物の命名を梅亭金鵞に依頼し、引き札(今のチラシ広告)の文案も頼んでいたという。この広告というものに関する件の影響は池之端の老舗守田宝丹の影響だと思っていたが「広告のあけぼの-廣告社・湯澤精司とその時代」井家上隆幸著から近代広告の影響もあったかもしれないと思うようになった。
 明治の広告といえばその発展の歴史は新聞広告であった。長野県喬木村出身の湯澤精司はツテを頼り(同じ村の出身の佐久間司馬介)に東京に行き、東京横浜毎日新聞の沼間守一に面会し、強引に職を得た。新聞を地方発送する時の宛名書きであった。この時期の大新聞は広告というものの価値が認識されていない時代でどの新聞も発行部数で経費を賄っていたようである。
 湯澤精司と鶯亭金升との接点は立憲改進党沼間守一から團團珍聞社主野村文夫(立憲改進党)の縁で湯澤精司の広告社の宣伝文案を作成している。「世界無比 広告取次の大博士」とある。
大正時代には広告というものの価値が認識されていた時期で福神漬が命名された時期と推定される明治16年から18年頃では近代広告の先端をいっていたともいえる。

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九段会館.昭和館

2013年08月09日 | 宅老のグチ

地下鉄九段下駅付近に九段会館・昭和館がある。戦争の記憶遺産ともいえる。この土地に天保時代には新見正路の屋敷があった。新見伊賀守正路は大坂町奉行等を勤め『徳川実記』の編纂にも参加した人物で井関隆子とも縁戚関係であったという。路ひとつ隔てたところに住んでいた井関隆子は良く遊びにいっていたという。
 夏は終戦の夏である。先の震災で九段会館の天井が崩壊し、死者が出た。今でも閉鎖されていて、いずれ取り壊しとなるのだろうか。修復保存とするには戦争の遺族会の高齢が気になる。千代田区の図書館に通っていた頃、何を借り出していたか記憶が消えた。
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アイスキャンデーの引き売り築地場外

2013年08月08日 | 築地市場にて

築地場外市場見学の観光バス駐車場でアイスキャンデーの引き売りがあった。コンビニが築地市場周辺に無かった時、市場内にもアイスキャンデーの引き売りの車が゛かなりあった記憶がある。青果門の広場の三角地帯に夕方になると屋台のラーメン屋が出ていて、深夜に築地に到着する運転手を得意先としていた。あるとき新規の屋台ラーメンが入ったが競争になり混乱があった。事なかれ主義の東京都が権力でラーメン屋が2軒とも違法無許可ということで消えた。その後トラック運転手がどこかに車を動かして食事に行った。随分昔の話であるが何時頃の話だがはっきりしない。
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京橋の印刷史から

2013年08月07日 | 福神漬
京橋の印刷史 出版 東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会
維新後、武士階級が転職にほとんど失敗したがただ印刷業だけが成功したといえる。明治政府は遅れた産業を保護育成のため殖産興業政策を採用しその目的の達成のため努力した。明治14年1月東京府は重要商工業として印刷業の仲間組合の結成を勧奨した。当時の京橋区(今の東京都中央区の東の地域)活版印刷業者のリストの顔ぶれを見るとみな旧武士階級の出身者ばかりであった。諸官庁からの官員さんはもちろんその他の印刷依頼も原稿持参で「お願いしたい」と注文を受けていた。活版印刷業は殿様商売であった。木版印刷は次第に駆逐された時期でもあった。銀座の四つ角を中心とした新聞社の集中が京橋区に活版印刷の28工場が集まった。この数は当時の45工場(横浜を含めて)半数以上の活版印刷工場でもあった。
 活版印刷が盛んになると旧来の木版印刷が衰退してゆくこととなった。新聞のことを英語で「the press」というのは印刷のことを意味する。押して印刷していた紙である。

 暇になった木版印刷が最後の輝きを出した時でもあった。松方デフレの消息時期に福神漬が命名された。またこの時期から自由民権運動が朝鮮半島へ関心が向かう時期となった。日本におけるキムチの普及を調べるとこの頃から調べないと平成の今の状況が理解できないと感じる。


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下谷根岸の茶道(じゃどう)

2013年08月06日 | 築地市場にて


明治の憲法発布したころまで(明治23年)下谷根岸の気風は独特のものがあった。反明治政府系と反文明開化、親江戸文化の人たちが集まっていた。その中でのちに近代数奇者茶人として名をあげた、増田克徳がいた。彼の根岸において催された初期の茶会は今の茶道の茶会とは異なるものであった。所作や茶道具に拘ることもなかったようだ。茶会の後の余興は下谷の人たちが好む芸事であったようだ。今では邪道ともいえる下谷根岸の駄茶会は記録も残らず、語る人もいない。根岸の地縁から茶の世界へギヤマン、天平美術、仏教美術や古代中国工芸品などを自由に茶の世界に使った。明治初期の数奇者茶人は古い茶の常識がなかったようだ。ただ茶会の記録も少なく、言い伝えが残っているだけである。増田克徳の茶事後のおふざけは根岸党(饗庭篁村(あえばこうそん)森田思軒・須藤南翠・岡倉天心・幸田露伴)と同じようなことを行っていたようだ。幸田露伴の記録によると彼らは酒のつまみに『福神漬』の缶詰を食べていたようだ。
 江戸幕府が崩壊後、茶事の師範は新しい庇護者が明治20年代に現われるまで苦難の時期であった。これは他の芸事も同様な苦境の時期でもあった。
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リトグラフ 石版印刷?

2013年08月05日 | 宅老のグチ

明治の初期のころの日本の新聞は全て文字で絵などが無かった。途中から新聞小説のようなものに挿絵が入ってきた。この技術の変遷が知りたくて、今本を探している。明治の初期は築地周辺の地は印刷の中心地であった。明治元年、築地明石町に外国人居留地が設けられ、文明開化の波が築地~銀座を中心に広がって、新しい時代が切りひらかれ、人々の生活様式も激変しました。
明治6年、平野富二が、築地に活版製造所を設けて活字を生み出すとともに印刷機械の製造と近代的な印刷を始め、その周辺に印刷、出版、新聞社などが集まったことから、印刷は築地、銀座の地場産業になっていき、印刷関係の業界団体も中央区にあります。
 明治の初めの混乱が終えると文明開化の余波が東京にやってきます。貸本需要がふえ、子供のための軽い読み物は必要となったようです。明治14~16年頃には活版印刷が増え、相対的に旧来の木版印刷需要が減りました。梅亭金鵞の戯作本が再販されたのも貸本需要の増大(年少者の増加)と松方デフレにより印刷需要の一時的縮小があったかもしれません。この様な事を研究している人は今のところ見かけませんが福神漬やキムチの歴史を調べてゆくと気になることとなります。
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一歩前進

2013年08月04日 | 築地市場にて

浜離宮前の交差点上で首都高速の橋げた架け替え工事が8月4日早朝また一段階進んだ。銀座寄りの橋げたが付けられた。あと少しで橋げたが架かる。そうすれば今青果門から汐先橋に向かって渋滞があるが終わるだろう。どこでいつ働いているのだか解らないが機械化され人の数は昔より少ないようだ。
夏休みの市場。外国人観光客が多い。見るだけで業績向上とはなっていないようだ。
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根岸派茶人

2013年08月03日 | 福神漬

今のJR山手線鶯谷駅と日暮里間の開通によって、移転された御隠殿の所に益田克徳(非黙)の茶室があった。彼は三井物産の初代社長益田孝の弟で東京海上火災保険の初代支配人でもあった。
 明治12年頃、益田克徳は根岸に居を移し、兄の影響で不白流茶道川上宗順の指導を受けていました。明治10年代の実業家で海外から帰った人の中には日本文化の中にも誇れるものがあると感じ始めていました。特に下谷の気風は薩長政権に対する反発心が花柳界から一般住民までありました。文明開化に付き合える人とちょん髷に代表される懐古の気風がまだ多数を占めていたのが下谷の当時だったようです。
 益田克徳の明治10年代の茶室に集まった人は今の茶道の雰囲気とは随分違った様子だったようです。茶のあとで三遊亭円朝の落語が一席あったり、清元お葉が演じていたという。根岸派の茶席には余興があったようです。明治の後半になると益田の元に茶道具屋が集まり、今の茶道の形となっていたようです。近代数奇屋茶人の祖ともいえるのが益田克徳です。
 福神漬の関連事象を調べていると不思議な縁を感じます。明治16年から23年頃に
根岸に集った人達から福神漬が口コミ宣伝で広まっていたようです。
ついでに東京海上火災保険会社は創立時には京橋区南茅場町23であった。(明治7年創立)

益田克徳(非黙)の茶室に集った人の中に池之端御前の福地桜痴、浅田正文(日本郵船)千葉勝五郎(歌舞伎座創業主)がいる。明治23年福地が借金返済のため、隣地に住んでいた浅田が買い取った。この隣地のなかにあった家に新婚の鶯亭金升が住んでいた。
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木挽町

2013年08月02日 | 宅老のグチ

昭和通りの地下道路を新橋に向かって走ると正面に新しくなった歌舞伎座のビルが見える。中央区郷土室便り(平成15年2月)によると今の昭和通り南の辺りは徳川家康が江戸入りした当時の海岸線になるという。江戸の都市開発に必要な木材が各地から集められ、30間堀川(昭和通のまえ)を運搬され木挽きによって製材していたという。そこで木挽町という町の名前が付けられた。
 江戸の町名は幕府の方針もあって、いったん付けられた町名は変更せず今に至っています。通ぶって木挽町といってもどうして銀座の地にあったかは知っている人も少ないように思えます。本来の銀座が広がり、木挽町が小さくなり、今では消えた町名となりましたが歌舞伎座ビルの周辺では残っている地名称となる。
 築地市場周辺でお勧めの医院は木挽町医院(銀座4丁目)にあります。築地市場で救急車に乗ると大抵、聖路加国際病院に連れてゆかれます。大病院ですぐに退院します。
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八朔 はっさく

2013年08月01日 | 宅老のグチ

旧暦の8月1日のことで、新暦に直すと8月末から9月初めのころとなる。また、徳川家康が天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)江戸城に入ったとされ、江戸幕府にとって重要な記念日となっていた。
徳川の八朔行事の由来を語った沢太郎左衛門の話から、幕末ヨーロッパで大根の漬物を作っていたという文献発見。又調べることとなる。

8月になって、先月のチェックをすると仕事の漏れを発見。あわてて税務署に走る。どうやら延滞税は逃れそう。サラ金の利息より高い延滞税。
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