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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

大学入試センター試験 国語の問題を考える の巻

2011-01-16 | C あれこれ考える

■ 今日(16日)の朝刊にかなりスペースを割いて大学入試センター試験(第1日)の問題と正解が掲載されている。

小さな活字がびっしりの問題を読むのはシンドイ。それでも国語は誰の文章から出題されているのか関心があるので、目を通す(過去ログ)。

第1問は鷲田清一氏の「身ぶりの消失」(『感覚の幽い風景』)からの出題だった。建築家・青木淳氏の論考を引用した評論だが、問題文にはこんなくだりがある。**住宅は、いつのまにか目的によって仕切られてしまった。(中略)用途別に切り分けられるようになった。(中略)行為と行為をつなぐこの空間の密度を下げているのが、現在の住宅である。**

問5でこの引用文中、私が太字にした部分の意味を問うている。5つの選択文から最も適当なものを選べという問題だが、正解は文脈から、現在の住宅は目的ごとに仕切られていて、つまり空間が機能と個々に対応付けられていて、複数の用途への対応とか、他者との新たな関係をつくりだす可能性が低下している、という文意の①。

確かに。現在の住宅に対するこのような認識に異を唱えるつもりは、無い。大半の住宅はまさにこの通りだろう。だが、これは住宅の設計理念の「今」ではない、既に過去の考え方だ。

今、建築の設計では空間の用途を限定せず、そこに身を置く者と新たな関係をつくりだすということに主眼が置かれている。青木淳氏が引用文中に書いている「遊園地」ではなく「原っぱ」こそ現代の建築が目指すものなのだが(「せんだいメディアテーク」然り、塩尻の「えんぱーく」然り)、これは住宅の設計理念でもある。

問題文に示された住宅観、これは過去のものになるつつあるのではないか、と思いながら読んだ。

いやいや、この評論で鷲田氏は現在の住宅は設計者の理念、意図に反し、単なるホワイトキューブであって、「空間と身体との関係性」が断ち切られているではないか、と暗に指摘しているのではないか? そうか・・・。これは建築の本質的な問題を突く建築論としても読めるのか・・・。

受験生はこんな読み方をする必要はもちろんないが・・・。


メモ)
青木淳 『原っぱと遊園地』王国社

 


民家 昔の記録

2011-01-16 | D 民家・町屋の観察


 山形県鶴岡市内の民家 ハッポウ造り 198008撮影

出羽三山の麓を通る六十里越え街道沿いに、このような民家が点在する集落がある(あった)。旧朝日村(現鶴岡市)の田麦俣は特に有名。昔この街道を訪ねている。

森敦の芥川賞受賞作「月山」は確か映画化された。その映画にもこの辺りの集落、ハッポウ造りの民家が出てきたように記憶している。



 宮城県女川の民家 外壁:天然スレートうろこ張り 197903撮影

屋根の一文字葺きと同じ構法。張り上がりの様子が魚のうろこのように見えることからこの名があるのだろう。北海道旅行の帰り(だったと思う)、仙台に友人を訪ねたことがあった。その際、電車で女川まで出かけたと記憶している。女川は粘板岩(玄昌石)の産地。



 愛媛県外泊 石積みの民家 198003撮影

小さな漁港、この写真のような民家が山の斜面に広がる。台風の通り道の集落の「守りのかたち」。この集落の民宿に泊まった。


 昨日(15日)の夕方、久しぶりにカフェ マトカに出かけた。カウンター席でコーヒーを飲みながら若いオーナー夫妻としばし語らう。民家のことにも話が及んだ。私はこの3例を挙げた。

採光や通風のために屋根面に開口があって、そこに障子がたててあって・・・ 、ハッポウの説明はきっと??だったのではないかと。このブログ内を「民家」で検索してみてください、と話したがその手間を省くために、本稿に写真を再掲した次第。