透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

半鐘の撞座

2022-03-29 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)塩尻市片丘 3無無無型(脚無し、屋根無し、見張り台無し) 撮影日2022.03.27

 簡易な火の見櫓。以前見た時は雑草に覆われ、緑化火の見状態だった(過去ログ)。27日(日)に塩尻市片丘にある無量寺の半鐘を見に出かけた。帰路、この火の見櫓を観察した。

いままで半鐘にあまり注目してこなかった。見張り台に設置されている半鐘の細部を地上から観察することは難しいので。だが、辰野町小野下町の火の見櫓に吊り下げられている半鐘が松本の濱猪久馬という鋳物師の作であることが分かり、また松本市内で保管されている半鐘も濱猪久馬によって製作されたことが分かったことなどから、半鐘に関心を持つようになった。無量寺まで出かけて本堂に吊り下げられている半鐘を見てきたのも、このような事情による。





梯子の上端に等辺山形鋼の腕木を出し、先端に付けたフックに半鐘を吊り下げている。半鐘の表面には乳や帯などの意匠が施されている。帯の交叉部をで囲ったが、ここが撞座。鐘を鳴らすときはこの撞座を木槌で叩く。

半鐘は梯子の右側に吊り下げてある。右利きの人が多いから、位置に問題はない。撞座の位置が気になる。この位置だと叩きにくい。他の部分を叩いても鳴るけれど、やはり正しく撞座を叩きたい。フックの向きが変わってしまったのかもしれない。

「もう叩かないんだからいいでしょ、そんなこと」などと思ってはいけない。


 


塩尻市の有形文化財 無量寺の半鐘

2022-03-28 | A 火の見櫓っておもしろい

 塩尻市片丘の無量寺に太平洋戦争のおりに供出を免れた半鐘がある、ということをしばらく前に知った。今日(27日)出かけて本堂に吊り下げられているその半鐘(*1)を見せていただいた。

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無量寺本堂 2006年(平成18年)落慶


無量寺の半鐘は1974年(昭和49年)に塩尻市有形文化財に指定されている。


本堂内に吊り下げられている半鐘

    

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無量寺の歴史を紹介する冊子にこの半鐘に関する記述がある。少し長くなるが引用する。

**(前略)大東亜戦争のおり、軍の命令で、平和を祈るべき寺々の梵鐘が、大砲をつくるための資材として強制的に供出させられた。由緒ある鐘が戦争の犠牲になることを惜しんだ村人達が相談の結果、村の火の見櫓の半鐘を身代わりに立て、無量寺の半鐘が代わって火の見櫓に登った。お陰で半鐘は生きのびることができ戦争が終わって寺に返されたが、戦時中石で打たれつづけたために(中略)、わずかながら亀裂が入り、往時の音色には及ばなくなったが、松本平には数少ない歴史を持った鐘として今日に伝えられている。**(16、17頁)太字化筆者

半鐘銘は私の能力不足に加えて字が経年劣化で判然としないために大半が読み取れなかった。幸い、冊子に載っているので以下に転載させていただく。

半鐘銘
維時享保八年龍集癸卯天七月初〇
信州筑摩郡南内田村阿弥陀堂五世〇〇
    願主 法蓮社 随誉〇〇法蓮〇〇
    治工 松本住 濱伊右エ門藤原〇
以下省略 
筆者メモ 享保8年は西暦1723年

この半鐘の鋳物師は濱氏。先日松本市内で見た半鐘に名があった濱猪久馬の何代か前の鋳物師だ。半鐘に歴史ありだなぁ。



戦時中この半鐘を吊り下げていた火の見櫓は現存するのか気になる。無量寺のすぐ北にある火の見櫓だと伺った。上掲したこの火の見櫓は戦後に建てられたものではないかと思われる。この辺りに戦前に建てられた火の見櫓があり、そこに吊り下げられていた、と推測しておく。


*1 半鐘は小さい釣鐘のことで小鐘とも呼ばれる。元々、寺院で用いられていた。江戸時代になって火の見櫓でもいわゆる半鐘として使われるようになり、火災や洪水などの非常時に打ち鳴らされるようになった。

 


「残念な食べ物事典」

2022-03-27 | A 読書日記



『残念な食べ物事典』東海林さだお(文春文庫2021年)を読んだ。

カバー折返しに東海林さんのエッセイを収めた文春文庫のリストが載っている。数えると20冊! 東海林さんのエッセイの魅力、それは「目の付けどころ」とその思いもよらない展開だ。この魅力に惹かれもう何年も前から読んでいる(過去ログからピックアップした。過去ログ1 過去ログ2 過去ログ3 過去ログ4)。

おでんの具材で人生を語る、などということを東海林さんは実に見事にやってのける。**様々な問題を内部にかかえていて大変なのだが、じっと耐えている姿が共感を呼ぶ**(181頁) 

この具材が何か皆さん分かりますか? 答えは巾着です。確かに大根やハンペンなど他の具材はこんなこと出来ないですね。

「歯はこう磨けば出世できる」このエッセイのサブタイトルは「歯磨きの適正速度を考える」。こんなこと皆さん考えたことありますか? **世界保健機関(WHO)あたりが、「1秒に1ガシが標準速度」というような発表をしてくれればいいが、いまのところそのような動きはない。**(23頁) 筆者注:左右に歯ブラシを一往復させる動きが「1ガシ」と東海林さんは定義している。このエッセイは政治家の歯の磨き方にも話が及ぶ。そして最後には『ゾウの時間ネズミの時間』という本が取り上げられる。1992年、今から30年前に出版され、当時話題になった。ぼくは1993年2月に読んでいる。


『ゾウの時間ネズミの時間』本川達雄(中公新書1992年)

**哺乳類はどの動物でも、一生の間に心臓は二〇億回打つという計算になる。**(6頁) そう、人も心臓の鼓動20億回が寿命だということ。分かりやすいように1分間に鼓動60回、1秒に1回として人の寿命を計算してみる。20億秒は何年か。電卓を叩いで計算すると、63年と半月くらいになる(計算は間違えていないと思う)。もう、ぼくは生物学的な意味での寿命は尽きている。食生活や住環境の向上、医療などによって延命されている身だ・・・。

『残念な食べ物事典』に戻す。「「山田太郎」を糾弾する」は役所や銀行の書類の見本に書かれている名前が「山田太郎」であることが多いことに目を付け、そこから話しを展開していく。こういうのって東海林さんしか書けないだろうなあ・・・。


 


「森林で日本は蘇る」

2022-03-26 | A 読書日記

 新潮新書の刊行がスタートした時のキャッチコピーに「2時間」という言葉が入っていて、2時間で読み終わる新書なのか、と思ったことを覚えている。コピーを正確に知りたくて、ネット検索してみた。「現代を知りたい大人のために 700円で充実の2時間」だった。



『森林で日本は蘇る 林業の瓦解を食い止めよ』白井裕子(新潮新書2021年)を読んだ。細切れ読書だったからどのくらい時間がかかったかよく分からないが3、4時間ではなかったかと思う。

「文庫は新潮、新書は中公」というイメージがぼくにはあって、新潮新書はあまり読んでいない。ベストセラーになった養老孟司の『バカの壁』、内田 樹の『日本辺境論』など10冊しかなく、『森林で日本は蘇る』は11冊目。

日本の森林事情あれこれ、といった感じの「読み物」で巻末に参考文献がずらっと並ぶような論文ではない。日本の林業の現状を紹介し、補助事業の問題点なども指摘している。

「森林で日本は蘇る」という書名は内容を的確に表現しているのかどうか。「日本の森林は蘇る」というような書名の方が内容とは合っているように思う。衰退してしまった日本の林業を蘇らせたい、蘇らせなければならない、という著者の思いは感じた。読んでいてグラフで示せば分かりやすいのに、写真が掲載されていればいいのにと思うことが何回かあった。

同じ著者の『森林の崩壊』(新潮新書2009年)が書棚にある。内容はよく覚えていないが、目次からして『森林で日本は蘇る』と似通っているものと思われる。


 


「和辻哲郎 建築と風土」

2022-03-23 | A 読書日記



■ 書名に惹かれて買い求めた『和辻哲郎 建築と風土』三嶋輝夫(ちくま新書2022年)を読み終えた。

和辻哲郎の著書『風土』(岩波書店 *1)と『古寺巡礼』(岩波文庫)は建築を学ぶ者の必読書と言われていた。『和辻哲郎 建築と風土』で著者はこの2冊の他に『イタリア古寺巡礼』『故国の妻へ』と桂離宮論(内1冊は『桂離宮 様式の背後を探る』中公文庫)を読み解いている。和辻哲郎がどのように建築に迫り、どのように捉えているのかが解る。

和辻哲郎の美的感性、観察力、洞察力はすごい。多用されている引用文を読んで、『風土』『古寺巡礼』『桂離宮 様式の背後を探る』を再読したくなった。


*1 岩波文庫にも収録されている。


安曇野市穂高の道祖神

2022-03-23 | B 石神・石仏



 20日、有明山神社に濱 猪久馬が制作した随神を見に出かけたが、その時はカーナビの案内に頼った。途中、穂高の新屋地区で覆屋に祀られている道祖神や二十三夜塔、大黒天の石像を見かけたので車を停めて写真を撮った。

 

3基の道祖神の内、上掲した2基は損耗が進み像が不鮮明で姿形や表情がよく分からなかった。それで左端の道祖神に注目した。

 
安曇野市穂高新屋の道祖神 撮影日2022.03.20  

跪座祝言像。衣冠束帯の男神と十二単の女神、平安貴族風の衣装の双体像。男神が持つ盃が縦になっているのは、水平に持つと盃だということが分かりにくくなるという表現上の理由か、技術的には全く問題なく彫ることができると思うが(*1)。女神は右手で酒器を持ち、左手で男神の衣を掴んでいる。仲睦ましさの表現だろう。正面からだと分かりにくいが横方向から見るとかなり立体的に彫られていることが分かる。像の左側に新屋村中と刻字されている。

*1 過去に載せた記事をチェックしていて長野県山形村の「酒樽」と呼ばれる道祖神(写真下)は男神が盃を水平に持っていることに気がついた。やはり水平だと分かりにくい(過去ログ)。


 


167枚目

2022-03-22 | C 名刺 今日の1枚


写真を撮る時マスクを外していただいた。
167

 松本市内にお住まいの堀 敏勝さんを訪ね、昨年(2021年)の8月に解体撤去された松本市高宮北の火の見櫓に吊り下げてあった半鐘についてお話を伺った。その後で半鐘が保管されている倉庫に案内していただいた。前稿に半鐘のことを書くことができたのは堀さんのおかげ。  

快く対応していただいた堀さんにここで改めて感謝申し上げます。堀さん、ありがとうございました。


堀さんは36年もの長きに亘り、消防団に所属して活動してこられたと伺った。記して敬意を表します。


松本市内にもあった濱 猪久馬の半鐘

2022-03-21 | A 火の見櫓っておもしろい

 濱 猪久馬。辰野町が登録有形文化財の指定を目指す小野下町の火の見櫓(写真①)の半鐘に銘があったことで知った鋳物師の名前。濱 猪久馬は松本城主小笠原貞慶( さだよし/さだのり)により相模国から松本に招かれて松本城近くで鋳物屋を興し、勅許御鋳物師(ちょっきょおんいもじ)として武具や仏具などを製造した濱 伊右衛門清賢の後裔。

猪久馬は安曇野市穂高の有明山神社里宮の裕明門の随神(主神に従い守護する神)も制作していた(写真②③)。


辰野町小野下町の火の見櫓 見張り台の半鐘が濱 猪久馬の作 撮影日2017年5月21日


有明山神社里宮 裕明門の随神(左) 撮影日2022.03.20


裕明門に向かって右側の随神は濱 鑛一が、左側の随神は濱 猪久馬が制作した。両人は親子か兄弟、もしくは親戚関係にあるようだ。


松本市高宮北、国道19号沿いの火の見櫓 見張り台の半鐘が濱 猪久馬の作 撮影日2015.04.04

松本市高宮北の火の見櫓(写真④)は2021年8月20日に解体撤去された。看板が写っているめいてつショーホールも今はない。見張り台に吊り下げてあった半鐘は火の見櫓が解体される前に取り外されていた(過去ログ)。その半鐘の所在が分かり、今日(21日)幸運にも見る事ができた。


松本市高宮北の火の見櫓の見張り台に吊り下げられていた半鐘 高さ約43cm、口外径約30cm。辰野町小野下町の火の見櫓の見張り台の半鐘と乳や帯など、表面のデザインは同じ。


縦帯に松本市役所と刻字されている。


反対側の縦帯に大正三年四月 松本市鋳物師 濱 猪久馬  製造と刻字されている。刻字を見て「あ、猪久馬だ!」と思わず声に出してしまった。

解体撤去された火の見櫓は1930年(昭和5年)に建設されたことが取り付けられていた銘板で分かっている。この半鐘が製作されたのは1914年(大正3年)だが、火の見櫓に設置されるまでどこにあったのだろう・・・。この半鐘にも小野下町の火の見櫓の半鐘と同じ疑問がわく。

このことについて以下の2つの説があるようだ。

かつて松本市鎌田に正福寺という古刹があったが、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となった。この時、同寺の観音堂にあった小鐘を消防組(という組織名か?)が預かったために難を逃れたのではないか、という説。尚、観音堂も難を逃れたようだ。

観音堂(写真⑧)の北隣に消防組の詰所と松本市役所の支所(現在は鎌田公民館になっている。写真⑨)があり、小鐘は観音堂ではなく支所に吊り下げてあったのではないかという説。半鐘に松本市役所と刻字してあることから、こちらの方が有力か・・・。


鎌田北向観音堂


鎌田公民館

人に家族に地域に物語(歴史)があるように、個々の火の見櫓にも物語があることを改めて思い知らされた。


 


香炉の向き

2022-03-21 | A あれこれ


 位牌や仏具を移動して仏壇の拭き掃除をする。位牌や仏具を元の配置に戻すとき、以前は香炉の向きに迷った。香炉は3脚だが、それをのように仏壇の手前(図の下側)を2脚にするのかそれとも奧(図の上側)を2脚にするのか、どっちだっけ・・・。

今月14日に善光寺参りをした。

本堂前に設置されている大香炉に線香を供え、その煙を頭にかけた。無病息災の功徳があると言われている。その時、初めて香炉の脚部に注目した。3本脚の2本を本堂側に向けて設置している。そう、仏壇の香炉の向きもこれと同じで奧に脚を2本、手前に1本が正しい。この様子を記憶すれば間違えることはない。


脚部詳細 こんな意匠になっているんだ。初めて注目した。


春彼岸 墓参り



有明山神社里宮へ なぜ?

2022-03-20 | A あれこれ

 安曇野市穂高にある有明山神社里宮に出かけてきた。なぜ? 


裕明門


拝殿

裕明門の左側の随神の作者が辰野町小野下町の火の見櫓の半鐘を鋳造した濱猪久馬ということを知ったから、見たくて。


随神(右)


随神(左) 


信濃國松本鋳物師
明治三十五年 九月五日  濱 猪久熊 
             藤原清英謹造



手水舎





屋根の上のバイオリン弾き、もとい逆さ獅子(という名称が正しいのかどうか・・・)。

福島県西白河郡中島村川原田の川原田天満宮(川田神社)の狛犬を思い出した。その姿から飛翔狛犬と呼ばれている。




 


「夜哭烏」読了

2022-03-20 | A 読書日記

 『夜哭烏 羽州ぼろ鳶組②』今村翔吾(祥伝社文庫2017年)読了。

江戸の火消しには次のような規則がある。以下、本書からの引用。**まずは士分の火消が太鼓を打ち、それを聞いた後でないと町火消は半鐘を鳴らすことは出来ない。さらに同じ士分でも最も火元に近い大名家が初めに太鼓を打つ決まりとなっていた。**(25頁) 身分に関係なく江戸に暮らす人たちの安全と生活最優先かと思いきや、こんな規則で消火活動を「制限」していたのだ。

** ――鳥越家の息女は預かった。火事が起きても太鼓を打つな。いかなる地にも繰出すな。約定を守るなら無事に帰すが、破りし時には命は無いと思え。**(226頁) こんな脅迫状が上屋敷に投げ込まれる。管轄の大名火消が太鼓を打たなければ上記のような理由で消火活動を始めることが出来ない・・・。一体誰がどのような目論見でこんな卑劣なことをしているのか。

江戸のあちこちで上がる火の手、難局を松永源吾率いる羽州ぼろ鳶組はどう乗り越えるのか・・・。物語はサスペンスフルに展開していく。ラストに読者は流すだろう安堵の涙、うれし涙を。

今村翔吾という作家は優れたストーリーテラーだと思う。この羽州ぼろ鳶組シリーズを月に1冊くらいのペースで読んでいきたい。



この小説には江戸の火消し事情も書かれている。史料をきちんと押さえているだろうから、教科書としても有用だろう。

**定火消は江戸城を取り囲むように、四谷門外、赤坂溜池、赤坂門外、麹町半蔵門外、飯田町、市谷左内坂、御茶ノ水、駿河台、小川町、八重洲河岸の計十箇所にある。特に北に密集しているのは、北風による類焼から江戸城を守る為である。**(275頁)


市ヶ谷駅の近くに定火消発祥の地と記された標柱が立っている。引用文の市谷左内坂の定火消。




 


「青面金剛」文字碑

2022-03-19 | B 石神・石仏


長野県朝日村古見にて 撮影日2022.03.17





 何基も祀られている庚申塔の文字碑には庚申と彫り込まれているが、1基だけ青面金剛と彫り込まれている。



碑高110cm、碑幅70cm、碑厚25cm。青面金剛の右側に「天明元辛丑歳 御道開渡村」左側に「十月日講中」という刻字がある。天明元年は西暦1781年。この年の干支を確認すると辛丑(かのとうし)。 

『筑摩野の道祖神』今成隆良(柳沢書苑1979年)によると筑摩野(塩尻市、朝日村、山形村、旧波田町、旧四賀村、松本市本郷:同書に示されているエリア)では刻像碑より文字碑の数が多いそうだが、刻像碑の方が観察のし甲斐がある。


 


木型

2022-03-18 | C 狛犬



 

 前稿に書いたように17日に塩尻のヤマトインテックという会社を訪ねた。安土桃山時代から連綿と続く鋳物製造を営む会社で玄関ホールに鋳造に必要な木型が展示されていた。かなり大きな狛犬と小ぶりな狛犬の木型もあった。①の木型は有明山神社の狛犬②(過去ログ)のものと思われる。撮影方向が違うので分かりにくいが顔回りが同形だと思う。


 


165、166枚目

2022-03-18 | C 名刺 今日の1枚




辰野町小野下町の火の見櫓 撮影日2022.03.17

 上伊那郡辰野町小野下町の火の見櫓は昭和30年(1955年)の7月から8月にかけて、当時小野駅近くにあった大橋鉄工所によって建設された。辰野町ではこの火の見櫓の「登録有形文化財」指定を目指している。辰野町教育委員会の調査でこの火の見櫓の見張り台に吊り下げられている半鐘が濱鋳物製造所でつくられたものであることが分かった。教育委員会の担当者が見張り台に登り、半鐘の縦帯にある「信濃松本市飯田町二丁目 合資会社濱鋳物製造所」(2列縦書き)と、反対側の縦帯の「濱 猪久馬」という銘を確認した。


半鐘の縦帯にある銘は地上から撮ったこの写真では判読できない。

教育委員会の担当者から声をかけていただき、昨日(17日)一緒に塩尻市広丘にあるヤマトインテック(*1)を訪ねた。対応していただいた管理部のお二方、富田氏と竹村氏と名刺交換をして(165枚目166枚目)、お話を伺った。

*1 会社案内のパンフレットに**当社の発祥は1584年(天正12年)、武具、仏具、銅像、釣鐘などの鋳物を製造する「勅許御鋳物師」として松本城下に創業したのが始まりです。(中略)1991年には社名を株式会社ヤマトインテックと改称し、現在に至っています。**とある。また、ホームページには**松本領主小笠原貞慶が、相模国鎌倉郡由比より初代濱伊右衛門清賢を松本に招き、松本城近くで創業。**と詳しく紹介されている。天正12年というと本能寺の変の2年後、時代は安土桃山。すごい! ホームページには松本の牛伏寺の梵鐘も鋳造したことが書かれている。

火の見櫓の建設が昭和30年、見張り台に吊り下げてある半鐘の鋳造が明治の後半。半鐘は火の見櫓の建設を請負った鉄工所ではなく、発注者が調達したようだ。

どこから? 寺院の鐘を借りることもあったという。このことは今日初めてではなく、以前も聞いたことがある。この半鐘(写真②)もやはり寺院から提供されたものなのだろうか。

ちなみに小野下町の火の見櫓と同時期(昭和33年の7月から8月にかけて)に、やはり大橋鉄工所によって建設された朝日村西洗馬の火の見櫓の半鐘は表面の意匠が違う。小野の半鐘は乳が2段(写真②)、朝日の半鐘は3段(③)。こちらの半鐘はどこから調達したのだろう・・・。







⑤のような半鐘(塩尻市洗馬芦の田の火の見櫓)は、火の見櫓専用のものとして製造されたのではないかと思う。