■ 用事があって妹の家に立ち寄った。妹はペコちゃん人形を集めているそうで(いままで知らなかった・・・)、洋間の棚にペコちゃん人形がいっぱい並んでいた。 上の写真はそのごく一部を撮ったもの。
壮観! 繰り返しの美学。
有楽町不二屋のペコちゃん 200703撮影
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■ 用事があって妹の家に立ち寄った。妹はペコちゃん人形を集めているそうで(いままで知らなかった・・・)、洋間の棚にペコちゃん人形がいっぱい並んでいた。 上の写真はそのごく一部を撮ったもの。
壮観! 繰り返しの美学。
有楽町不二屋のペコちゃん 200703撮影
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■ 先週の土曜日(27日)の午後、久しぶりに松本駅近くの丸善へ。「小説モード」をキープしようと文庫本のコーナーで探したが、読みたいと思う小説が見つからなかった。短時間で何冊も見つかるときもあるけれど・・・。
で、買い求めたのが前稿の『あの日からの建築』伊東豊雄/集英社新書とこの『「大発見」の思考法』山中伸弥 益川敏英/文春新書。
伊東さんの『あの日からの建築』はフリーライターのインタビューを受け、その記録をもとに加筆、修正を加えて出版した本とのことだから、すらすら読めた。
これからノーベル賞を受賞したおふたりの対談を読む。理論物理学と生命科学と研究分野を異ににするおふたりが相手の研究についてどんなことを話しておられるのか、楽しみ。そう、異なる分野のひとの対談はおもしろいことが多いから。
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新しい建築の第一歩がここから始まる
『あの日からの建築』伊東豊雄/集英社新書
■ 伊東さんが東日本大震災の復興プロジェクトを通じて考えた建築家、建築のありよう、あるべき姿について語る。
**「伊東さんの建築は軽くて透明感があって都会的なのに、なぜ歌は演歌ばかりなんですか」と聞かれる。それはそうなんだから仕方がないんだよ、と軽く答えてきたのだが、そのギャップが、実は私の抱えている本質的な矛盾であることに気がついた。震災後のことである。**(188頁)
伊東さんは「せんだいメディアテーク」の建設現場で鉄骨工事の様子を見て、それまでの透明で、繊細で存在感の希薄な抽象的な建築から、ものとしての存在を意識した建築を志向するようになった、ということについては既に雑誌などに書いている。
過去ログ
大震災の復興プロジェクトをきっかけに、建築家と地域の人々との関係を再考し、ふたたび新たな建築像を探る伊東さん。
今後どんな作品を創るのか、注目していたい。
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雪化粧した北アルプス 左から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳
北安曇郡池田町会染の火の見櫓
■ 前稿の消防詰所のすぐ近くの火の見櫓。 後方の山はパウダーシュガーをふりかけたように雪化粧している。
昨日(25日)の朝6時過ぎ、自宅の外壁に掛けてある寒暖計は3℃だった。 ああ、寒い冬がやってくる・・・。
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■ 北安曇郡池田町会染にある消防団詰所の火の見梯子
消防団の詰所は大概2階建てで、1階が消防車庫(倉庫)、2階が団員詰所となっている。この詰所では鉄骨の外階段の手すりに火の見梯子を組み込んでいる。
なるほど、こうすれば火災予防週間などの際、半鐘を叩くのが楽だ。柱に木槌を吊るしてある。
■■ この1週間 ブログを休止していましたが、再開します。
信濃毎日新聞 121022付朝刊
■ 夕景に浮かぶ火の見櫓の写真が新聞に掲載された。
南佐久郡北相木村では「安心・安全カメラ」が村内に26台設置されていて、人を監視しているという。そう、ものは言いようだが、「安心・安全カメラ」とは要するに「監視カメラ」のこと。記憶が曖昧で正確な数は思い出せないが、JR新宿駅には何十ものあるいは百を超えるカメラが設置されているのではなかったか。
記事にもあるが、犯罪の少ない山村に24時間稼働のカメラを設置する必要性やプライバシーに対する配慮についてはどうなんだろう・・・。犯罪抑止効果があるのなら仕方がないのかもしれない。
カメラは火の見櫓にも設置されているそうで、見張り台の床から吊り下げられていることろが写っている。新聞記事では見張り台のことを「足場」としているが、これはどうだろう・・・。見張り台という言葉があるのだから使って欲しい。火の見櫓がそれ程馴染みの存在ではないということなのかな。
この村の事情は分からないが、既に半鐘を叩かなくなって、火の見櫓本来の機能を無くしているとしたら、監視カメラを設置されて新たな「見張り役」となった火の見櫓って何て呼称すべきだろう・・・。防犯櫓?監視櫓?見張り櫓? いや、人見(ひとみ)櫓か?
ゲーム終了後 山雅の選手にエールを送るサポーターたち
■ 先日J2の松本山雅FC対徳島ヴォルティス戦をアルウィンのゴール裏で観戦した。前半20分過ぎに松本山雅が先制。しかし後半早々に徳島にゴールを決められて、結局1:1で引き分けた。前半、山雅は優位に試合を進めていたが、後半、山雅は明らかに劣勢だった。
この日(14日)の観衆は9361人。アルウインの観客動員数はJ2で1、2位を争う。テレビ中継で、私はサポーターの応援はすでにJ1クラス、という解説者の評価を聞いている。
何がこれほど多くのサポーターを惹きつけるのだろう・・・。その魅力はいったい何なのか・・・。
あまり冗長に書くつもりはない。キーワードとして「連帯感」を挙げる。
1万人近いサポーターが気持ちをひとつにして松本山雅を応援する。特にゴール裏のサポーターはゲームの流れに同調して振りつきで歌を歌い(この行為をさす言葉を知らないが)、声援を送り続ける。ゲーム中ずっと立ち続けて。
サポーターがみんな同じ動きをすることで、より一体感というか連帯感が増し、連帯感が増すことで更に張り切って力強くエールを送るという相乗効果。そしてその大勢のサポーターの中に自分も身を置いて同調していること、みんなと繋がっていると感じることによる気持ちの高揚感、そして幸福感がたまらないのでは。
この辺りが私が考える答えだ。「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉ほど理路は長くもなく、単純だ。
実例は挙げないが、現代は人の繋がりが希薄になっている。繋がってはいてもメール交換など、間接的な繋がり・・・。そんな時代であればこそ、前述したような繋がりをより強く求める気持ちがあるのかもしれない。
ゴール裏のサポーターたちの熱い声援が地域を愛する心に根差しているということだとすると、そのことを示す理路は私にとっては曖昧模糊としたもので、明快に示すことはできない。
繰り返す。みんなと気持ちをひとつにして松本山雅に声援を送る。単純にそのことがうれしいのだと思う。
■ 作家の丸谷才一氏が亡くなったことを14日付の新聞で知った。87歳だったそうだ。丸谷氏の作品は昔文庫で数冊読んだだけではないかな。書棚をざっと見ても単行本は見当たらない。
ところで数冊という場合、具体的に何冊くらいなのか、人によって違うようだ。数人、数週間、数ヶ月、・・・。この「数(すう)」は2、3から3、4。もっと多くて4、5くらいだと捉えている人もいるかもしれない。調べてみると2、3から5、6程度だそうで、ずいぶん差がある。私は2、3くらいだと思っている。
横道にそれてしまった。
『忘却の河』福永武彦/新潮文庫を読み終えたので次に何を読もうか迷ったが、丸谷氏の芥川賞受賞作『年の残り』文春文庫を読むことにした。
前後2列に本を並べてある書棚の後ろから難なく捜し出すことができた。記録によるとこの小説は1975年の5月に読んでいるがまったく内容を覚えていない。読了日まで記録にあるから最後まで読んだとは思うが。
書店には新しい文庫が平積みされているが、若い売れっ子作家の作品をこの頃読みたいとは思わなくなった。しばらくは自室の書棚に並ぶ昔読んだ本から選んで読もうと思う。慢性の金欠病だし・・・。
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■ 福永武彦の『忘却の河』。今日、何回目かの再読を終えた。
**それは裏山の中腹にあったの墓地に較べても、あまりに見すぼらしい石の群落にすぎなかった。名前を刻み込んだ石碑などは一つもなかった。僅かに朽ち果てた卒塔婆が幾つか倒れかかっていることによって、この一廓が墓地であることを示していた。(中略) そして私の恋人が眠っているところも、まさにこの無縁墓地のほかにはなかった。どこの誰とも分からぬ男のために子を宿し、一家の恥として西が浦に身を投げた娘の葬られるべき場所は、名誉ある出征兵士の骨を埋めた山の墓地ではなく、この海沿いの、荒涼の飛沫(しぶき)が散りかかる無縁墓地のほかにはなかった。**(復刊版324頁)
**ここが地の果て、生のどん詰まりなのだ。更に言えば、ここにあるものは決して済われることのない罪そのものの感じなのだ。眼の前には轟く海がある。何の感情の見せない冷たい石の河原がある。(中略)この賽の河原は、あらゆる罪障の捨て場所としてあったのではないだろうか。私が今ここへ過去の罪を捨てに来たように。**(同323頁)
心の底を流れる河。この世に生を受けてからしだいに穢れ、淀む河。河の源流をたどる男の孤独な旅路。この小説を読むことは男の旅にそっと同行することに他ならない。
作者には恋人の子どもを宿して故郷に帰り、海に身を投げた女性の手記を残して欲しかったと思う。たぶん涙なくして読むことはできないだろう・・・。
初読から30年。またいつか読むことになるだろう。
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■ 昨晩(12日の夜)ある会議で一緒になったK君がむかし消防団員だったとき登って半鐘を叩いていたという火の見櫓はたぶんこれ。安曇野市明科支所(旧明科町役場)のすぐ東側だと聞いたから間違いないだろう。端正でカチっとしたデザインだ。同様のタイプのものが他にもある。
明科から筑北村本城、麻績村、筑北村坂井、青木村、それから上田市の別所温泉、鹿教湯温泉と火の見櫓巡りをしてきた。明科の火の見櫓だけ見たら帰るつもりだったが、その後つい遠くまで出かけてしまった・・・。
1 明科の火の見櫓
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2 筑北村(旧坂井村)桂石の火の見櫓
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火の見櫓には田舎の風景がよく似合う。
3 筑北村(旧坂井村)の火の見櫓
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4 小県郡青木村天神の火の見櫓
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上半分のブレースはフラットバー(平鋼)、下半分は丸鋼にリング式タンバックル。加えて四角い屋根に円い見張り台。東信方面に多い。以下今回は全てこのタイプ。
踊り場に付けられた半鐘 木の腕木に波トタンの屋根
5 上田市浦野の火の見櫓
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6 上田市川西の火の見櫓
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7 上田市の別所温泉
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8 上田市山田
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狭い生活道路脇に立っている。
踊り場に設置されている板木!
「警鐘ロー」
9 上田市新町
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踊り場の構成
火の見櫓に設置された出動区域表示板を見たのはたぶん初めて。 **通常火災に於ての出動区域 但 応援出動の場合は此の限りにあらず。**
10 上田市古安曽 平井寺公民館近く
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平井寺分団消防庫
11 上田市丸子大塩
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高台に立っている火の見櫓 下の国道からよく見えるので前から気になっていた。今回初めて立ち寄ってみた。
12 上田市鹿教湯(かけゆ)
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この火の見櫓には以前から気が付いていたが、いままで寄り道をする機会がなかった。
■ 市民タイムスは長野県の中信地方のローカル紙です。先日(10月10日)、同紙に「火の見やぐら 公園で〝余生〟」という大きな見出しの記事が掲載されました(写真)。ライバル紙・タウン情報の記事を意識したわけではないでしょうが・・・(笑)。
このように火の見櫓が取り上げられると、読者の皆さんに関心を持っていただけると思いますから、ヤグラーとしては大変ありがたいです。
山形村には確か6分団ありますが、何年か前に既に建て替えられた1分団を除き、すべての分団詰所の建て替えと詰所に隣接する火の見櫓の解体撤去が進められています。
中大池分団は今年の3月に新しい詰所が完成しました。それに伴って古い詰所と共に火の見櫓も取り壊される予定だったのですが、シンボル的な存在だった火の見櫓だから残そうということになって、東屋として有効活用することにしたとのことです。ここまでは私も知っていました。
事業費の約50万円を区費でまかない、区の役員が作業にあたり、資材の一部を分団OBらが提供し、住民が塗装などを手伝ったということを記事が伝えていますが、このようなことについては知りませんでした。できれば私も関係者に伺ってこのくらいの内容については調べたいと思うのですが、これがなかなかできません・・・。
→ 過去ログ
東屋になった火の見櫓と取り壊された中大池分団の詰所
2952
■ 10月10日といえば・・・、いまだに「体育の日」と続けてしまいそうです。1964年に開催された東京オリンピックの開会日を記念してできた休日ですが、調べてみると2000年から10月の第2月曜日になっています。
他には「缶詰の日」、1010をセントウと読んで「銭湯の日」、それから10を時計回りに90度回転した状態を眉と目と見て、「目の愛護デー」でもあります。他にもあるようですが、よく知られているのはこのくらいでしょうか。
ではここでクイズです。明日、10月11日は何の日でしょうか? ヒント、11月10日も10月11日と同じ何かの日です。
答え、ウインクの日。
■ 先週末 鉄分を十分補給したので、比較的元気です。昨晩から福永武彦の『忘却の河』新潮文庫を読み始めました。3回目か4回目かの再読だと思います。次から次へと読みたい本が刊行されるので再読することはあまりありません。ましてや3回も4回も再読することは稀です。北杜夫の『幽霊』と『木精』は何回も読みなおした例外的な作品です。
『忘却の河』の初読は1981年の9月でした。3日に読み始めて11日に読み終えています。あの年から、もう30年以上経ちました。
当時読んだ文庫本がいまだに手元にありますが(写真の左)、活字が細かくてとても読めません。で、読み始めたのは名作復刊シリーズで刊行された新しい文庫(写真の右)です。活字が大きくて読みやすいです。
さて、今回は読み終えた時どんな感想を抱くのか、いまから楽しみです。
読書の秋 2951
凛とした立ち姿 松本市笹賀小俣にて 撮影121008
■ この火の見櫓を取り上げるのは2回目。
今回は銘板に注目。
「小俣消防団警鐘樓 竣工 昭和三十三年十二月六日」と読める。寄付者の名前が並び、最後に「施行 児島鉄工所 古川鉄工所」とある。書体の異なる刻字で平成四年三月二十八日改築と左端にある。
言うまでもないことだが、火の見櫓の建設には多くの人たちが関わっている。どこに建てるか、建設費用をどうするかなど、いろんなことを話し合って決めたのだろう。
火の見櫓が集落のランドマークであることは言を俟たないが、そこに暮らす人びとの絆の証しとも言える。
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富士見町富士見の道祖神 撮影121007
高さが50センチメートルほどの小振りの道祖神。
お互いに相手の肩を抱き、握手をしている抱肩握手像。
石を彫って創ったというより、もともと石の中に納まっていたかのような・・・。
火の見もいいけど道祖神もいい。