■ 以前、Mさんから借りて読んだ有川浩の『阪急電車』を文庫(幻冬舎文庫)で再読した。阪急電車今津線の車内が主な舞台のものがたり。
征志が図書館で時々見かける女性はどうやら好みの作家や興味の傾向が似ているらしい。ある日その女性が電車で征志の隣に座った・・・。彼女は征志の好みのタイプだった。さあ、恋ものがたりの始まり始まり。それから次から次へと人と人とのものがたりが繋がっていって・・・。
で、ラスト。
**「そんですり合ったかなーって思ったところで結婚したらええ感じやと思わへん?」
ユキは俯いて征志の手をぎゅっと握った。
「いい部屋が見つかるといいね」
ユキが答えた声に発車のアナウンスが重なり、征志からもユキの手を握り返した。**(258頁)
連作短編集のように、ものがたりをいくつも繋げていくという構成を採った「長編」小説。
348
安曇野市穂高柏原の火の見櫓 撮影120929
姿形の整った火の見櫓だ。見張り台と踊り場の大きさのバランスも好い。踊り場の位置が少し高過ぎるか。
脚部の構成も好い。アーチの形も好ましい。唯一減点対象はトラスが脚元まで達していないこと。
1 櫓のプロポーション ★★★★
2 屋根・見張り台の美しさ ★★★★★
3 脚の美しさ ★★★★
かなりの高評価。
■ 内田樹氏が神戸女学院大学で行った最終講義(2010年10月から翌年1月まで)を基にまとめた「クリエイティブ・ライティング論」。
仮に私がこの講義を受けたとして(女子大の講義だから無理だと思うが、可能だとしても落ち着いて受講することなど無理だろうが・・・)、試験を受けても合格点を取ることはできないだろう。このテキストを試験で参照してもよい、という条件が付加されても無理だろう・・・。レポートを書くこともできそうにない。降参!
以下収録されている14講から。
第3講「電子書籍と少女マンガリテラシー」は比較的理解しやすい講義だ(ホントかな・・・)。内田氏は**読書というのは、「今読みつつある私」と「もう読み終えてしまった私」の共同作業**(57頁)だという。**電子書籍で困るのは、「もう読み終えた私」の居場所がないということです。**ここに紹介はしないが、内田氏は続けてこのことについて「なるほどな説明」をしている。
第6講「世界性と翻訳について」 ある講義の質疑**なぜ村上春樹は世界各国語に翻訳されているのに、司馬遼太郎は翻訳されていないのか**(97頁)に対する内田氏の答えが、これまた「なるほど!」だった。
第8講「エクリチュールと自由」 **日本に知的な階層性がヨーロッパのようなかたちで存在しないことは、もちろん「いいこと」だと僕は思います。でも、あらゆることにはいい面と悪い面がある。それは「自分の言いたいことをわかってくれる」何十万、何百万という不特定多数の読者や視聴者を不当に先取りしてしまうということです。「ね、わかってくれるでしょ?」というふうに振りかえると「おう、わかるわかる」と応じてくれる人たちが自分の背後に無数にいるとつい思い込んでしまう。そうすると、何が起こるかというと、論理的に話すとか、きちんと挙証するとか、情理を尽くして説得するとか、そういう努力へのモチベーションが傷つけられてしまう。だって、「みんな、わかるよね?」「わかるわかる」という関係をつい想定してしまうわけですから。**(153、154頁) ここは問題点を指摘する重要な箇所ではないか。
で、内田氏は**言語における創造性は読み手に対する懇請の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くことを願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。**(16頁)と述べている。
このくだりこそ本の帯の「言語にとって愛とは何か?」という問いの答えだ。違うかな?
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大町市大町三日町の火の見櫓 後方に防災無線柱が立っている。
■ 細身の櫓に外設置の梯子にケージ。3角櫓に6角錘の反りのきつい屋根、表面がつるりんちょな半鐘。6角形の見張り台にシンプルな手すり。以上、大町市の火の見櫓によくあるタイプ(型)。梯子のケージ(囲い)の名称はまだ分からない。関係者に訊けば分かると思うが・・・。
■ 小県郡青木村と聞いてもピンとこない。私はそうだった。名前は聞いたことはあるけれど一体どのあたりに在るんだろう・・・。上田市に境を接する村で別所温泉にも近いと書けば、長野県在住の方なら地図上におよその位置を落とすことができるかもしれない。その青木村で見かけた「火の見櫓」。
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確かに半鐘が吊るしてあって、消防信号板も設置してあるから火の見櫓として間違いないだろうが、より正確に捉えるならば、これは消火ホース乾燥塔であって、そこに半鐘と消防信号板を設置した、ということになろう。
消火ホースを引き上げるための滑車
だが、本来の用途が何であれ、このようなものは火の見櫓としてよいだろう。半鐘を吊るしてはあるがホース乾燥塔だとしたら、例えば送電鉄塔に見張り台を設置し、半鐘を吊るして火の見櫓に用途転用されたものでも火の見櫓にあらず、ということになるのではないだろうか。
この辺りのことについては先日、友人と語り合った。どのようなことをもとに、つまり判断の材料として、ものの認識をするか、というなかなか難しい問題だ。
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大町市美麻、二重公民館敷地内に立つ火の見梯子
■ 火の見櫓と火の見梯子、これからは両者をきちんと区別して載せることにする。以前にも書いたが櫓は立体構造。従って柱(脚)は3本以上必要で2本の場合は櫓ではない、などと妙に理屈っぽくなってもなぁとも思うが、実は昔から両者は明確に区別されている。
さてこの火の見梯子だが、この程度の高さなら地上で叩けるようにしておくのと何が違うんだろうと思う。
梯子を登らないと叩けないということでいたずらの抑止効果があるのかもしれない。それから、梯子を登るという行為そのものに、儀式的なというか、欠くことのできない一連の動作の一部というような意味合いもあるのかもしれない。ヤンキースのイチローがバッターボックスに入った時にする例の動作のような。
あるいは他になるほど!な理由があるのかもしれない・・・。
後半、松本山雅のゴールに沸くヤマガーたち
■ 昨日(23日)、雨の中、アルウィン(松本市の郊外にある競技場)へサッカー観戦に出かけた。いや、熱きサポーターたちは「参戦」という言葉を使うようだ。だから、12番目の選手として参戦した、と書くべきか。
相手はディフェンスに課題があると言われているガイナーレ鳥取(J2で最多失点のチーム)で、松本山雅が前半4得点、後半3得点して7対1で圧勝した。
今回も友人たちにお世話になった。
A君の奥さんから電話があって、雨だからポンチョを用意してあるという。数日前にはタオルマフラーをプレゼントしてもらっていた。タオルマフラーは応援に欠かせないアイテムだ(写真)。アルウィンに着いてみると、荷物が濡れないようにと大きなビニール袋まで用意してもらっていた。
今朝、勤務先に向かう途中でこのことを思い返し、優しい心づかいに涙ぐんでしまった。ああ、涙もろい中年。
試合中は兎のようにぴょんぴょん跳ね続けた。韓国だったかな、ディスコの床が落ちたのは。観客席の構造設計に動的荷重が考慮されているのかどうか、ちらっと気になったが、大丈夫でしょう。
山雅が得点する度に周りのヤマガーとハイタッチ。みんながひとつになって熱く応援するっていいなぁって思った。
A君、Aさん それからO君とHさん ありがとうございました。
「Kちゃん 久しぶり。待たせてごめん」
「あ、いえ、私も今来たところでまだ注文もしてません」
「あ、そう?何にする?」
「アイスコーヒーがいいな」
「すみません。アイスコーヒーとホットコーヒーお願いします。Kちゃん、元気そうだね。そのTシャツ、ちょっと変わってるね。袖がひらひらしてる」
「え?フレアスリーブっていうのかな? U1さん、先日新聞に載ってましたね。見ましたよ。火の見櫓の写真が何枚も。見開きで大きく載っていて、びっくりしました」
「あの記事を見た人からメールをもらったりしてね。これで火の見が日の目を見ることになればいいけど、ってオヤジギャグじゃなくて。まあ、興味を持ってくれる人は出てくるかもね。ところでKちゃん、この写真見て」
と言って、私はカメラを差し出した。
「あ、これって諏訪湖の水陸両用バスですよね。私、普段あまりテレビを見ないんですけど、これは確か、ニュースで見ました」
「そう、水上を走っていてもバス。これって水陸両用船ってどうして言わないんだろうね」
「え~、だってバスの形してるじゃないですか・・・」
「じゃ、さ、遊覧船の形をしていて、船底に車輪が付いていたらどうだろうね」
「え?見たことないから分からないですけど・・・、水陸両用遊覧船、ですかね・・・」
「それって、つまり何であるかということを形というか、見た目、外観で判断しているってことだよね」
「そうですね。でも普通そうじゃないですか?」
「じゃあ、これはどう? 普通の住宅をカフェに改装している途中の建物はどっち?住宅?カフェ?」
「え~、どっちだろう。完成していないんだからまだ、住宅なのかな。でも違うか・・・。でもU1さん、どうしたんですか。こんなこと聞いて」
「この写真、見て」
「あ、これって新聞に載ってた火の見櫓ですよね」
「そう。でもこれは火の見櫓じゃないらしい・・・」
「え?どうして・・・、違うんですか?」
「これは太鼓櫓といって、神社の祭りの時なんかに、ここで太鼓を叩くんだろうね。だから、用途が違う・・・」
「あっ、分かった。いままでの質問って、これに関係していたんですね。水上を走っていても船ではなくてバスだって思うとか、住宅なのか、カフェなのかと同じ問題」
「そう、人はものをどのように認識するかという問題。機能というか用途ではなくて外観で判断してしまう傾向がどうしてもあるということのいい例かなぁ。ここに半鐘が吊るしてあったらどうだろうね。誰が見たって火の見櫓だって思うよね。でもその半鐘は飾りで、本当は太鼓櫓なんだろうね」
「う~ん、そうなんでしょうね。でも何かの事情でここで太鼓を叩かなくなったら?」
「その場合はどうなんだろう・・・。あ、雨が降ってきた」
「え? あ、ホントだ」
「江戸には定火消というのがあってね、まあ他にも大名火消と町火消があって、それぞれ火の見櫓の形が違うんだけど、そういう決まりがあってね。で、定火消しの火の見櫓にはなんと太鼓が置いてあって、半鐘もあったんだけど、ふたりの同心が見張っていたということだから、ね。火事を見つけた時は太鼓を叩いて知らせたんだろうね」
「そうなんですか・・・火の見櫓に太鼓が置いてあったんですね」
「この写真は飛騨高山の駅の近くにある火の見櫓だけど、川越の時の鐘と同じような形だよね」
「これって火の見櫓なんですか? 私に説明するためにこの写真をわざわざ取り込んで来たんですか?」
「そう。今や何でも画像で示す時代だからね。メモリーカードにコピーしてきた」
「U1さんってマメですよね、こういうこと。で、川越の時の鐘だって火の見櫓といって、間違いではないということですか?」
「う~ん、どうだろうね。でも川越の時の鐘って外観上はこの火の見とよく似ているから、そう考えるのもまるっきり×ではないだろうね。火の見の用途としても使われていたとすればね。まあ、実際、使われていたらしいけど。ものの認識の仕方なんかを考えると難しいね」
「そうですね。何だかよく分からない・・・。そういえば関係ないかもしれませんが、誰もいない無人島で例えば木の枝が折れるときの音って音なのかっていう問いも、認識論って言うんですか、に関係ありますよね、きっと」
「誰にも認識されない音は本当に音って言えるのか・・・」
「ええ、どうなんでしょうね」
「どうなんだろうね。よく分からないな・・・」
①
■ 私のヤグラーとしての原点、大町市美麻(旧美麻村)の木造の火の見櫓を再訪した。以前は後方の大町街道(県道31号線)沿いに立っていたが、今春移設された。
県道沿いの工作物に求められる構造安全性を満たしていないという理由で、やむなく移設ということになったということをそば屋のおばちゃんから聞いた。このあたりの経緯はのぶさんのブログに詳しく紹介されている。事情に詳しい人にヒアリングする姿勢を見習わなくては・・・。
②
以前は櫓の脚を固定する3ヶ所の束のうち1ヶ所が木だったが(③)、それを石にして②のような記録が彫り込まれていた。
③
人びとの生活と密接に繋がっている火の見櫓は集落の過去と現在を記憶している。それを保存するのか、撤去してしまうのか、その差は大きい・・・。費用を負担してまで更新保存した新行の皆さんに心から拍手!!
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北安曇郡池田町会染 半在家集落センター前の火の見櫓
半鐘は既に無く、防災無線のスピーカーが付いています。そう、もう消防団が見張り台に登って半鐘を叩くということがこの町でもないんですね・・・。
とんがり屋根のてっぺんに付けられた飾り さてこの文字は・・・、よ、読めない。
シンプルな手すり
池田町の火の見櫓に共通する細めの脚部。トラスの斜材と水平部材のジョイント部分のガセットプレートの形に注目。これが単なる台形だったら印象がかなり違っている、と思う。
■ 昨日(15日) 妹夫婦が脱穀に来てくれた。午前9時過ぎに作業をはじめて午後4時ころまでに、はぜ木の片づけまで一通り済ませることができた。脱穀機の調子がよくて作業が捗った。私は年に数日しか農作業をしないが(それでこの国の農業の将来を案じているとかなんとか)、これで今年の作業は終わった。やれやれ。
*****
午前中、久しぶりに松本駅前の書店・丸善に出かけた。レジカウンターにお客さんが並んでいた。よかった・・・。休日なのに店内が閑散としていたら、学都松本の名が廃るではないか。
あれこれ本を探すのは楽しい。至福の時といっていい。
城山三郎の『男子の本懐』新潮文庫を手にするも、今この分厚い長編はちょっと無理かな、と小川洋子のエッセイ『カラーひよことコーヒー豆』小学館文庫を買い求めた。エッセイは細切れ時間の読書向きだ。
夕方までに読了してしまった。
最後の方に「理想の一日」というエッセイが収録されていて、小川さんが理想とする一日の過ごし方が綴られている。**朝早く起きて一番に何をするか、小説を書くのである。(中略)二時間か三時間、集中して小説を書く。朝は電話も掛かってこないし、宅配便も来ない。この貴重な数時間を無駄にしてしまったら、一日全部が台無しになってしまう。**(149、150頁)
同感だ。
休みの日くらいゆっくり寝ていたいという声をよく聞くが、私にはできない。休日は平日より早起きをする。
「大人の女性とは」で小川さんは**一体いつになったら大人になれるのか、見当もつかない。一生大人に憧れ続け、結局大人になれないまま死んでゆくのかもしれない。(中略)せめて一生のうちに一度くらい、小川さんはなんて大人なんだろう、と思われてから死にたい。**(32、33頁)と書いている。
確かに。いくつになっても大人として振舞うのはなかなか難しいものだ。
安曇野市豊科上鳥羽の火の見櫓
■ 長野県内の火の見櫓の数は2,300基くらいという調査がある(『火の見櫓 地域を見つめる安全遺産』 火の見櫓からまちづくりを考える会編/鹿島出版会に紹介されている)。全国的にみて数が多い県だが、なぜ長野県には火の見櫓が多いのか・・・。
火の見櫓はその機能から、次の二つの条件をクリアできる範囲ごとに建設され、全ての集落をカバーしていると考えるのが妥当だろう。
① 半鐘の音が聞こえること : 見櫓の半鐘を叩いて火災が発生したことや鎮火したことなどを伝えることができる範囲
② 見張り台から見渡すことができること : 火災の状況を把握することができる範囲
更に火の見櫓に早く到達することができることという条件を加えたい。
長野県は地形が複雑で例えば沿岸部のような平坦な場所と比べて半鐘の音が遠くまで届きにくく、見通しもききにくい。また、例えば川で地域が分断されている場合、川の両側に火の見櫓がないと、火の見櫓に到達するのに時間がかかってしまう。このようなことから長野県には火の見櫓が多いのではないかと私は推察している。
ところで、長野県は全国で最も村の多い県だが、山あり谷ありという複雑な地形だと合併してひとつの町や市にはなりにくい面もあるだろう。このように村の数が多いことと火の見櫓の数が多いこととは無関係ではないと思うがどうだろう・・・。村の数が多いのは、議論好きで、まとまりにくいという県民性に因るところ大なのかもしれないが。