○ 最初のブックレビュー
○ 今年最後のブックレビュー
来年はどんな本と出会うことができるだろうか。
最初に載せた「繰り返しの美学」
今年最後の「繰り返しの美学」
今年最後に載せる「繰り返しの美学」は文京区にある「印刷博物館」のエントランス上部の架構。
来年はどんな「繰り返しの美学」と出会うことができるだろうか。
■ 都市にも当て嵌まる「繰り返しの美学」
「繰り返しの美学」について実例を示してときどき書いてきた。
建築を構成する要素の繰り返し、その「秩序づけられた」状態に美を感じるということだ。
建築の集合体としての都市にも「繰り返しの美学」を当て嵌めることができる。以前奈良井宿について書いたが(060904)、ほぼ同様のデザインの建築が繰り返されている歴史的な街並みを美しいと感じるのはそのことを示す好例だろう。
ただし、建築の場合には同一のデザインを等間隔に繰り返すことが「繰り返しの美学」の必要条件だが、都市的なスケールの場合には全く同一のデザインの繰り返しは画一的でつまらない。全く同一で単純なデザインの住居棟を繰り返したかつての団地計画をその一例として挙げておく。都市の場合には建築の場合とは異なり「ゆるやかな秩序」がその美学のキーワードだ。
ゆるやかな秩序の程度を仮に「秩序度」ど呼ぶと、一般論として秩序度の高いのが伝統的なヨーロッパの都市、秩序度の低いのがアジアの都市といえるだろう。「秩序のヨーロッパ」、「混沌のアジア」と言い換えてもいい。ゆるやかな秩序の程度の問題なのだ。
秩序度の差は都市に様々な様相を創り出す大きな要因だが、どの程度の秩序度が好ましい、美しいと考えるかということについては、個人差があって当然だろう。だが勝手気ままにデザインされた建築が乱立する都市、全く秩序のない混沌とした都市が好ましいと考えるのはごく少数の人たちだろう。
その辺りの論考を期待して『美しい都市・醜い都市 現代景観論』五十嵐太郎/中公新書 を読んだが(この本の帯にはカオスか秩序か?と書かれている)、残念ながら期待に応える内容ではなかった。
■「リンケージ」、「ニュートラルゾーン」 都市を秩序付けるもの
滋賀県立大学は1995年に開校した新しい大学、キャンパスを4つのゾーンに分け、各ゾーンを異なる建築家が設計した。内井昭蔵さんはマスターアーキテクトとしてプロジェクトに参画し、キャンパス全体を集落にみたてて「ゆるやかな統一体」としてまとめた。
どのゾーンにも属さない「ニュートラルゾーン」によってデザインの異なる各ゾーンをなだらかに連続させる、というのがその方法だった。
内井さんは景観は建築と建築の「間」の問題だとし、この「間」デザインこそ重要なのだと指摘しているが、これは槇さんの「リンケージ」と同様の概念だと私は理解している。
都市を秩序づけることについて槇さんは「グループフォーム(群造形)」という概念を提示し「リンケージ」によってまとまりのある街並みを創出した。先日書いた代官山ヒルサイドテラスである。
多様な価値観の共存を認める社会においては、建築のデザインも多様だ。そこにゆるやかな秩序、ゆるやかな統一を与えること、都市の美学にはそれが求められる。
「リンケージ」「ニュートラルゾーン」は抽象的で分かりにくい。具体的な手法として樹木も有効だろうと思う。街路樹の緑によって街並みがゆるやかに統一され美しくなる。落葉してしまった冬季、街並みが凡庸に見えるのは街路樹の緑が有効だということの証左といえるだろう。
「敷地の前面道路沿いに緑を」、条例でも、住民協定でも、向こう三件両隣の約束でも、なんでもいいそのように決めて実行することができたら。
都市の「ニュートラルゾーン」に緑を! 都市に緑の「リンケージ」を!
『寅さん大全』筑摩書房(1993年初版発行)寅さん、若い!
新聞のテレビ欄は必ずチェックするがラジオ欄をチェックすることはまずない。偶然、仕事帰りに車の中で「わが人生に乾杯!」(NHK第1)を聴いた。
「映画監督の一分」そう、ゲストは山田洋次監督。ホスト役の山本晋也カントク、アシスタントの城之内早苗さんと山田監督の映画談議。番組の途中で自宅に着いてしまったが、続きを居間で聴いた。
山田監督は子供のころ「路傍の石」を映画館で観たそうで、そのとき一緒に行った二十歳前のお手伝いさんが隣でぼろぼろ涙を流しているのをみて、映画というものを意識するようになったそうだ。
私の場合、寅さん映画以外で特に印象に残っている作品は「幸福の黄色いハンカチ」、番組でも話題になった。ヤクザ映画のスターだった健さんの転機となった作品。すごい数の黄色いハンカチが風になびいているラストシーンが忘れられない。
「武士の一分」では監督も失明してからのキムタクの目がよかったと言っていた。キムタクは自分は目が見えないのだと暗示をかけていたそうだ。
番組の後半の話題は寅さんだった。山本カントクはとにかく寅さん映画に詳しい。第7作のポスターにはSLが写っていると指摘していたが、確かに写っている(「寅さん大全」で確認)。
旧満州で育った山田監督は、内地はどんなところだろうといつも思っていたそうで、それが日本全国を旅する寅さん映画をつくろうとした契機だと語っていた。番組の最後に山田監督は「道は最初からあるのではない、歩いた跡が道になるのだ」と山本カントクの問いに答えていた。これは魯迅のことばだそうだ。
NHK衛星放送であと数作(4作かな)寅さんをやる。見逃さないようにしよう。
雑誌「yom yom」をやっと入手した。川上弘美の小説が掲載されている新潮社の新しい雑誌。今人気の作家の読み切り小説やエッセイ満載、どうやらこの雑誌で年越し読書ということになりそうだ。
この雑誌に掲載されている角田光代の「涙の読書日記」の書き出し**一日の隙間時間に、読書が挿入されている。**は最近の私の読書スタイルそのものだ。
昨日、隙間時間に『海の仙人』絲山秋子/新潮文庫を読んだ。帯には**孤独に向き合う男女三人と役立たずの神様が奏でる不思議なハーモニー**とある。男女三人、なぜか男二人と女一人という組み合わせかと思ってしまったが男一人と女二人の恋愛物語だった。恋愛物語と捉えるのは少し違うような気もするが・・・。
主人公、河野勝男は元デパートの店員、宝くじで三億円当たって勤めを辞めて敦賀で生活している。・・・とあらすじを書き続けてもよいが省略。勝男と全くトーンの異なるふたつの恋愛を展開するのがデパートで同期だった片桐妙子と偶然敦賀の港で出会った中村かりん。
片桐は『沖で待つ』に登場したわたしとよく似たキャラの女性。二人の交わす会話も「おう、片桐、相変わらず、柄悪いなあ」「カッツォも相変わらずさえないなあ」こんな調子で『沖で待つ』のわたしと太っちゃんの会話と雰囲気が似ている。そして二人の関係も似ている(06/04/19のブログ)。 勝男が三億円当たったとき使途を相談したのも片桐だった。
一方、勤めの休みを利用して敦賀にジープで出かけて来たかりんは子供のころ読書魔だったという女性。かりんとの恋愛は予想外の方向へ展開して・・・。ラストは具体的には書かない、「涙」とだけ書いておく。
どうも絲山さんは欲張りすぎたのではないか、と読了後思った。それぞれ別の小説に仕立ててもよかったのではないかと。尤もふたつの恋愛を対比的(とも違うかな、この辺がまだ消化できていない)に描くというのが絲山さんの「意図」のようにも思われるが。
勝男と片桐とで『沖で待つ』のような物語を最後まで展開して欲しかった。かりんとの悲しい物語はこの作家のイメージからは遠いような気がする。『絲的メイソウ』で懐いた印象から、そう思う。 もっと別の作品を読めば、あるいは印象が変わるのかもしれないが。
タイム誌が毎年企画している「今年の顔」、今年は「あなた」ということになったと先日新聞で知りました。
表紙にデザインされたパソコン画面が鏡様になっていて雑誌を手にした人がそこに写る仕掛け、そして今年の顔は「今雑誌を手にしているあなたですよ」ということなんですね。個人がネット上に発信する情報が特にアメリカでは政治や経済を動かす大きな力になっている現状を捉えての結論なのでしょう。
今年3月末の時点でブログの登録者数が日本で868万人に達したそうですが、その後更に増加しているでしょうから既に1000万人を超えているかもしれません。中には休止状態のブログもかなりあると思われますが、それにしても大変な数です。
日本の場合アメリカのように世の中を動かす力になっているのかどうかは分かりませんが、以前も書きましたが個人が発する情報もマスコミが発する情報も等価、ということは実感として理解できます。
さて、多数のブログの中で自分の「お気に入り」に出会うのは、友人の書くブログやそこにリンクされているもの以外は、全く偶然ということが大半でしょうね。ケロケロさんのブログのように「驚きの出会い」もありました。今回紹介するchat_noirさんのブログにも先日偶然出会いました。
ブログには「アートを中心に映画、文学のことなど・・・」というサブタイトルがついています。私と興味の対象が似通っていますが、主として展覧会の感想を詳細に書いておられます。私も春の藤田嗣治展のことからブログを始めました。偶々このブログにコメントをいただきました、まるで示し合わせたかのように・・・。アドレス付きのHNです、そこからブログをご覧下さい。
りんごさんのブログにも楽しいブログが紹介されていました。実社会での繋がりだけでなくネット上の繋がりもまんざらでもないな、と中年のオジサンはこの頃思うようになりました。
駅は駅舎の後方にホームがいくつか並びその上に通路が架かるという空間構成が共通している。「茅野市民館」は大小ふたつのホール、美術館、図書館そしてレストランからなる複合施設だが、駅のホームを建築化したような図書館が特徴だ。
上の写真はホーム上の通路から図書館部分の外観を撮ったもの。図書館がホーム上の通路に直結していて利用者はあたかもホームに降りていくかのように図書館に入ることが出来る。
下の写真は、図書館の内部を撮ったもの。ホームと同様に直線状に長い。一番奥が通路からのエントランス。ゆるやかなスロープ状の床で地上レベルまで下ろしている。円柱のブースはトイレ。
設計者の古谷誠章さんは、現地を訪れて直ちに図書館を駅の通路に直結させようと思ったそうだ。学校帰りの高校生達がホーム上の通路で所在なげに列車を待つ姿を見かけたらしい。そのユニークなアイデアが決め手となってプロポーザルで設計者に選ばれたという(「新建築」05/11)。
プロポーザルやコンペ(両者は明らかに異なるがしばしば曖昧に扱われる)に勝利するには「ひらめき」が必要だ。他の応募者が到底考えつかないようなユニークなアイデア。
伊東さんは「まつもと市民芸術館」のメインホールで、前面の道路側に客席を向けるというアイデアを提示した。応募案の中でそのような提案は他には無かった。普通にプランニングすれば一番奥がステージになり客席は道路に背を向ける。
かつての学校のように「雛型」に倣って設計すればOKという時代は終った。個々のケースごとに独自の解法を示さなくてはならない。設計の苦しみでもあるが楽しみでもある。固定観念にとらわれない自由な発想、脳みそを柔らかく保たなくてはならない・・・。
今年もあと一週間。午前中、書店に出かけた。年内に読み終えることが出来なければ、「年越し本」となる本を探す。
吉村昭さんの遺作短篇集『死顔』はモノトーンの静かな装丁、読みたい一冊。吉村さんの作品は何作も読んだが、中公文庫はいままでほとんど手にしなかった。『秋の街』、誠実な人柄が滲み出る吉村さんの小説は年末に相応しいだろう。
絲山秋子さんの作品が文庫になった。『海の仙人』、初めての新潮文庫だから背表紙の色は白。2冊目が出るときに絲山さんの希望も考慮して決められることになるだろう。彼女がユニークなキャラ、ということは『絲的メイソウ』というエッセイ集から分かるが、どんな色に決まるだろう。
『美しい都市 醜い都市 現代風景論』五十嵐太郎/中公新書
帯の「カオスか秩序か」が気になって手にした。ぱらぱら頁をめくって芦原義信の『東京の美学-混沌と秩序』岩波新書をとり上げていることを知った。このところ都市の景観についてときどき考える。
他にも『フェイク』楡周平/角川文庫 など気になる本は何冊かあったが、結局購入したのは写真の3冊。
『空海の風景 上、下』司馬遼太郎/中公文庫 をようやく読み終えたがクリスマスに空海はないだろう、後日書きたい。
Merry Chirstmas
**締め切りの直前まで書かないでおいて、何日かでわーって書くこともあるんですけどね。今回は同じペースで書いては消し、これという言葉が見つかるまで手触りを確かめつつ書いていきました。**
週刊ポストの「著者に訊け」というコーナーで『真鶴』(以前書いたので内容は省略する(06/11/11))について著者の川上弘美さんがインタビューにこう答えていた。確かにこの作品には川上さんの今までの作品とは異なる雰囲気が漂っている。ひらがなの多用、句読点の多用もその要因だろう。
今朝の週刊ブックレビュー(NHK衛星第2 朝8時から)の書評コーナーでこの本がとり上げられた。今回の書評ゲストは編集者の松田哲夫さん、作家の吉川潮さん、翻訳家の鴻巣友季子さんの3人。
不思議なとしか表現のしようのない読後感、真鶴という絶妙な場所の選定、川上さんしか表現できない言葉の魔術、昼でも夜でもないような時間をゆっくりたどって行く、微妙な心の狭間を行ったり来たりする、ことばと表現と物語が渾然一体となっている、ことばが柔らかいが強い・・・。
書評ゲストのコメントを書き並べると、この小説の独特な雰囲気が少しは伝わるかもしれない。
「存在と不在のあわいを描いた作品」(推薦した鴻巣さんのこのコメントに同感)、今年一番の収穫はこの作品の読者になったことだ。
『真鶴』川上弘美/文藝春秋
「近代日本洋画の志 深く」
江戸末期から明治時代 洋画を学んだ多くの画家の作品展。時代の流れと共に「和」から「洋」に変化していく画風、興味深い展覧会でした。
ポスターにも採用されている高橋由一の「鮭図」、板に油彩されたこの作品は重厚で存在感がありました。山本芳翠の「内海風景」は水面に浮かぶ小舟を暖かな色使いで描いた静かな作品。この絵も板に描かれていましたが柾目がうまく生かされていて印象的な作品でした。
松本深志高校創立130周年を記念して企画された展覧会、松本市美術館で開催中です(会期は来月8日まで)。
「草間彌生のドットな世界」
松本市美術館の常設展示の草間彌生展。
幼少のころから幻覚や幻聴を体験していたという草間彌生、自らの体験を基に築いた独自の世界。美術館の前庭には巨大なチューリップが展示されています。屋外に置かれた自販機にもドット。右のドットは段差の注意喚起用、ドットをたくさん観た後だとこんなところにも目がいきます。
「日本の美 伝統の美」
美術館の中庭の松、冬に備えてわらで養生してあります。伝統的な日本の美、職人さんの感性 いいですね。
前稿には「日本看護協会ビル」黒川紀章 のガラスのコーン(061126撮影)の写真も載せる予定でしたがデータを手元に保存していなかったので出来ませんでした。松本市美術館で見かけた雪吊の写真も載せておきます。これも同じ形ですね。
さて本題、繰り返しの美学。
とある飲み屋街、小さな店が続いています。青い看板が繰り返されています。
このような飲み屋街に欲しいのは雑然とした迷宮的な雰囲気。統一された看板がなんだか場違いな感じ。いろいろなデザインの看板があったほうが、「いい雰囲気」になるんじゃないかな、そう思います。
「繰り返し」によって秩序付けらた印象が漂います。そこに美を見い出しているのですが、場所によってはそれが似つかわしくない場合もあるんですね。
■ JR松本駅の屋上に浮かぶイルミネーションのコーン 松本駅の改築工事関係者の皆さんの粋なクリスマスプレゼント。光のコーン(円錐)が工事用タワークレーンから吊り下げられていて、ランドマークになっている。
建築でコーンというと黒川紀章氏の作品。 表参道の「日本看護協会ビル」や、来年1月、六本木にオープンする「国立新美術館」にも採用されている。ガラスのコーンが何を意味しているのか、氏の説明文を目にしたことがないので分からない。
空間的にどんな効果があるのだろうか、新しい美術館で体験してみたい。
大正末期に建てられたという町屋、取り壊される直前に友人が借り受けて設計事務所として使っています。道路側の打合せ室の後方には吹き抜けの空間があって、その後方に部屋があるという構成。中庭があって更に奥に住宅が続いています。
吹き抜けの空間、天窓から光が射しています。間仕切壁を途中で止めて小屋組みを見せるという空間構成。
松本市内の善光寺街道に面するこの町屋、かつては足袋の卸問屋を営んでいたとか。友人はほとんど手を加えないでうまく使いこなしています。センスのよさが光ります。住宅の空間構成として大いに参考になりそうです。
こういう町屋が姿を消してしまう前に、きちんと手を加えてモダンな住宅に再生する。外観はできるだけ元の状態に戻す。昔の街並みを残すということはそうした努力の積み重ねなんですね。
友人へのメッセージ:頑張っていつまでも使って下さい。
○ 松本城へ続く大名町通り(061217)
保存か取り壊しかで話題になった旧第一勧銀ビルのある大名町、街路樹のシナノキはすっかり葉を落としている(写真)。葉が生い茂っていた時には気づかなかったが、ビルの屋上や外壁の看板が目に付く。やはり街路樹の緑は街並みの百難を隠すと実感。
松本城を「世界遺産」に登録しようという動きがあるという。先日もそのことに関する記事が新聞に載っていた。ユネスコに申請するためには越えなくてはならないハードルがいくつかあるということだが、松本城周辺の復景・修景もおそらくその一つ。松本城単体でOK、ということにはならないだろう。
復景・修景、それは5年10年というような短い期間で達成するのは無理だ。20年、30年、それ以上という長いスパンで実践しなくてはならない。
「街並みはみんなのもの、それは美しくなければならない」という意識が地元住民にも設計者にも必要だ。松本にも蔵を修復し、新し建築も蔵のデザインを引用して全体としてまとまりのある街並みをつくっているところもある。松本城周辺の環境整備(復景・修景)も地道に努力していくしかないだろう。
○ 旧第一勧銀ビルの内観(061217)
ところで旧第一勧銀ビルはレストランとして延命されることになった。そして勧銀ビルの後方に8階建てのホテルが建設される。再来年の春、どんな雰囲気をこの通りに提供することになるだろう。