秋のフォトアルバム 火の見櫓のある風景 朝日村にて
火の見には秋桜がよく似合う
■ 8月に読んだ本はこの3冊のみ。
7月に文京区の森鴎外記念館を訪ねたこともあって、『雁』に続き『舞姫』も読んでみた。30頁に満たない短編だから、擬古文ではあるが短時間で読むことができる。繰り返し読むこともない、一度読めば十分。若い女性のつつましやかな恋を描いた『雁』の方がいい。
『富士山文化―その信仰遺跡を歩く』竹谷靱負/祥伝社新書 富士山文化を網羅的に紹介している。江戸川で偶々富士塚を見て、興味を覚えて読んだ本。
富士講徒が先達に率いられて、七ヶ所の富士塚や浅間神社を巡拝する「七富士巡り」がいまも行われているという。「お胎内潜り」、「富士八海巡り」などについてもこの本で知った。やはり富士山は日本人にとって特別な存在、ということを再認識した。
9月、読書の秋の始まり。長編小説を読みたいところだが、その気になるかどうか・・・。
501 塩尻市広丘野村の火の見櫓。 国道19号の九里巾の信号の近くに立っている。
■ 3角形の櫓、立体的には3角錘台。3面のうち1面は丸鋼の横架材のみで梯子を兼ねている。ブレースは丸鋼だが、ターンバックルはない。横架材が3段ある。うち下の2段はフラットバー、上の1段は丸鋼という簡素なつくり。
鋼板のみで下地の無い屋根は変形している。簡素な見張り台、手すりは丸鋼でつくられていて、手すり子はない。
柱のアングル材(等辺山形鋼)に横架材のフラットバー(平鋼)とブレースの丸鋼を溶接接合している。
この辺りは住宅も増えて火の見櫓が建てられたころとは、すっかり様変わりしたことだろう・・・。
■ 長野県朝日村の古刹・光輪寺のこの青面金剛像のことは、以前から知っていた。上の写真のような状態で像の細部は全く分からなかった。
先日、寺の境内を囲む板塀の汚れを高圧洗浄機で落とす作業をした際、青面金剛像も洗浄してみると、
像が鮮明に浮かび上がった。足下の三猿もはっきり分かる。像が損耗していたわけではなく、泥で汚れていたのだ。
腕が6本あるが、内2本を上に挙げていて、右手の先には月(この写真では分かりにくいが)、左手の先には日がある。合掌している手は残念ながら欠損している。下げた左手で弓を持っている。右手の棒状のものが何か分からない。
左側面の刻字も洗浄してはっきり分かるようになった。明和6年をネットで調べると確かに干支は己丑(つちのとうし)で、西暦で1769年。江戸の中期に祀られたことが分かった。古い部類の青面金剛像(庚申碑)だろう。江戸末期の庚申の年にあたる1860年のものはときどき見かけるが。
明和の頃、どんな人物がいたのか調べると、歴史に疎い私でも知っている与謝蕪村、田沼意次、平賀源内、杉田玄白などの名前があった。
そのころ、この像はこの場所にあったのかどうか、どんな風景を見ていたのだろう・・・。
■ 魅力的なまち(*1)に欠かせないのはどんな要素だろうか、と考えている。以前こんな記事も書いた。
(過去ログ)
魅力的なまちに欠かせない要素として今まで挙げていた①から④に今回⑤を加え、以下のようにまとめる。
①まちが小規模なこと
②まちの全体像が把握できる「俯瞰場」があること
③まち中を川が流れていること
④まちに歴史的な重層性があること
⑤まちにシンボル、ランドマークがあること
これらはまちの全体像を把握したいという個人的な、マップラバーな願望に因るところ大である。街並みラバーであれば、別の要素を挙げるかもしれない。ただし程度に個人差は当然あるだろうが、人は皆両方を好むだろうから共通するかもしれない。
魅力的なまちに欠かせない要素は理論的に演繹できるものでもないだろうが、まったく恣意的なもの、個人的なものとして帰納されるものでもなく、ある程度共通性があるだろう。それらを抽出しようという試みだ。
先に挙げた要素を地元、松本で考えると以下のようになる。
①松本駅がまちの南西の隅に位置し、駅を起点に東方向に徒歩で約20分のところに旧制松本高校(北杜夫や辻邦生、熊井啓の出身校)の校舎が保存されている「あがたの森」がある。ここがまちの南東の隅となる。北へは松本城まで徒歩で15分くらいか、更に5分くらいで開智学校に至るが、ここが北の隅となる。松本のまちはこの3ヵ所を結んでできるエリアにほぼ収まってしまうような小さなまちだ。
②城山(じょうやま)と呼ばれる「俯瞰場」があり、そこからは松本のまちが一望できる。
③女鳥羽川がまちの中央を流れている。川はまちの構造を理解するのに有効だ。川の上に建物が無いから見通しが効く。また、川や橋には物語性(極めて曖昧な概念だが)がある。
④まちなかに蔵が数多く残り、新しい建物と共存している。古いものだけでもだめで、古いものと新しいものがあることによってまちの歴史の重層性が浮かび上がる。金沢の21世紀美術館が兼六園のすぐ近くにあることもこの一例として挙げられよう。
⑤なんといっても松本城。明治初期、松本城が競売にかけられ、解体されそうになったとき、「城がなくなれば松本は骨抜きになる」として買い戻した市川量造の慧眼と努力に感謝し続けなければならない。それから北アルプスの峻嶺の連なり。
函館、弘前、角館、金沢、郡上八幡、倉敷、萩、長崎、鹿児島・・・。観光地として有名な地方のまちについてこのような条件が当て嵌まるのかどうか。
これらのまちに旅する機会があればこのような視点で観察してみたい。対象が何であれ独自の視点設定ができるかどうか、これがポイント!学術的な研究はもちろん、普段の生活においても。
*1 町でも街でもなくまちと表記することには意味というか理由があるが今のところ上手く説明できない。
■ JR篠ノ井線の近くに火の見櫓が何基も立っていることに気がついている。今朝(13日)の6時過ぎにこの撮影ポイントに立った。
どちらも列車の位置がベストとは言えない。撮り鉄ならば完全にボツにする写真だろう。線路の後方に火の見櫓が立っている、という位置関係の方が好ましいような気がする。晩秋の休日にでも篠ノ井線に沿って長野方面まで足を伸ばすか・・・。
上 聖高原6:03発松本行きの普通列車 6:28撮影
下 長野6:09発名古屋行きの特急しなの2号 6:56撮影
(再) この火の見櫓をとり上げるのは2回目。
■ 梯子段の数とピッチによって高さを概算する方法によると踊り場の床までの高さは約11m。踊り場の床から避雷針の先端までの高さは下の写真を分一(ぶいち)当たりして約3mと割り出した。よって総高は約14m。
この高さなら櫓の中間に踊り場があることの方が多いと思うが、これにはない。消防団員は昇り降りする際、怖い思いをしているだろう(怖い思いをしていただろう、と過去形にすべきか)。
3角形の櫓の場合は屋根と見張り台はともにこの火の見櫓のように平面が円形か、6角形の場合が多い。このことは骨組みの整合性からの必然といえるだろう。丸い屋根には下り棟がないので蕨手はつかない。それであっさりした印象になる。
消火ホースを昇降させる電動ウインチがあって、その上に切妻の小屋根が設置してあるのがうっとうしい。だが、放水後の20mの消火ホースは相当思いだろうから、これは仕方がない。これをうっとうしいとは部外者の勝手な言い分だ。
柱脚部分にはコンクリート基礎を立ち上げてある。これは柱部材の接合部の保護、というより補強を意図したものだろう。私が考える美脚とは違うデザイン。
アーチ部材と第1横架材を繋ぐプレートの横に銘板があるので建設年月日が昭和34年12月25日と確認できる。昭和30年代半ばには火の見櫓が盛んに造られた。
夏のフォトアルバム (再)撮影日 140809
■ 現存最古だという富士塚が見たくて辰野町の下辰野公園に秋葉神社を訪ねた。そこから辰野町の市街地を俯瞰することができ、以前観察した火の見櫓(過去ログ)が確認できた。
■ 先日読んだ『富士山文化』 竹谷靱負/祥伝社新書に**現存する最古の富士塚は、どこにあるのだろう。それは、東京でも埼玉でもなく、長野県上伊那郡にあった。意外に思われるかもしれないが、長野県も重要な富士塚分布エリアである。その辰野町、下辰野公園内の秋葉神社境内にある富士塚が、私が調査した限りでは、最古の遺例である。**とあった。
更に**特に伊那地方で、六〇年ごとの庚申年に富士塚を築き、浅間大神を勧請し、農民の視点から天下太平や五穀豊穣を祈願する習俗があった。**という記述もある。
明応9年(1500年)から庚申年ごとに富士塚を築いていたそうで、永禄3年(1560年)、元和6年(1620年)、延宝8年(1680年)、元文5年(1740年)、寛政12年(1800年)、安政7年(1860年)、大正9年(1920年)と計8基の築造が記録された史料があるそうだ。
昨日(9日)出かけた。辰野町役場前から車で5分くらい、車のすれ違いは無理な細い山道を上って目的地に着いた。写真は明るく写っているが、まわりは木々がうっそうとしていて、曇天でもあったのでかなり暗かった。
何基もの石碑が祀られていたが、知識に乏しいし、摩耗が進んでもいて読みとれないものが多かった。
昭和55年(1980年)には塚は造らず、この石碑が建てられたという。秋葉神社を参拝したから、なにかいいことがあるかもしれない・・・。
■ 昨日(9日)、所用で辰野町に出かけました。集合時間は午前9時。7時過ぎには辰野町の到着して既にアップした火の見櫓を見てまわりました。休戸(やすど)の火の見櫓の近くに石碑が何基も並んでいました。
この庚申塔の裏面には安政七年二月廿三日 休戸中 と彫ってありました。安政7年(1860年)は庚申の年です。書のことは分かりません。でも、存在感のある文字です。
こちらは二十三夜塔。大正9年と彫ってありました。
昔は庚申講や伊勢講、富士講、御岳講など、いくつも講が組織されていました。これらの講を今も続けていることろもあるようですが(私の鄙里にも伊勢講や庚申講を続けているところがあります)、宗教的な意味合いは薄れ、親睦会のようなものと捉えてもかまわないと思います。
過去ログ
地域力などと表現したくはありませんが、昔は講などによって、地域が強く結ばれていたんですね。
500
■ JR小野駅から4kmくらい西方に入った藤沢地区に立っている火の見櫓。周りの樹木が大きくなって火の見櫓の下半分位を覆ってしまいそう。
前々稿(529)、前稿(530)の火の見櫓とデザインがよく似ている。
柱の頂部を横架材で繋ぎ、そこにアーチ状の部材を付けて補強している。この火の見櫓を印象付けるアーチ。
脚元は夏草が伸び放題。辰野町は消防団の活動が活発で、今でも火災予防週間のときなどに半鐘を叩いている。この火の見櫓にも半鐘も木槌も吊るしてあるが、使われていないのかもしれない。だいぶ錆がでているからメンテナンスもきちんとしていないのだろう。
499 辰野町小野休戸(やすど)の火の見櫓 後方は休戸公民館 撮影日140809
前稿の火の見櫓とよく似ている。他の鉄工所のデザインをまねることはよく行われていたと聞くが、両者は同じ鉄工所で造られたものだろう。
529
■ 国道153号を南下、JR小野駅前の信号を右折して数分生活道路を走ったところに立っている火の見櫓。4角形の櫓に4角形の屋根と、同見張り台。南信方面にあるごく一般的なタイプの火の見櫓。
屋根の形に注目。中央部はかなり急勾配で周辺は緩勾配。この形状に機能的な必然性は無いだろう。職人の美意識の反映か。平鋼のフックのような蕨手、くるりんちょとは呼び難い。
4隅を面取りした4角形の見張り台。手すりのハートを逆さにしたような飾り、このデザインはよく見かける。
見張り台直下のデザインに注目。火の見櫓には欠かせないリング式ターンバックルを横にふたつ並べたデザイン。こうしたのは下の段のように入れるとブレースが角度的に効きにくいという構造的な理由からだろう。
踊り場の床が半分しかないのは、後方は梯子の上り下りには不要、という判断からだろう。梯子の両側に簡易な手すりを付けてあるが、床は全面ある方が消防団員にとっては安心だろう。
次は脚元の様子。既に何回も書いたが、脚のデザインをしていないのが残念。末広がりのきれいなカーブな脚部だけに惜しいとは観賞者の勝手な言い分。