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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ブックレビュー 1506

2015-06-30 | A ブックレビュー

 早いもので今年も半年過ぎる。6月に読んだ本は4冊。





安曇族についてはほとんど何も知らなかった。坂本 博氏の『信濃安曇族のルーツを求めて』と『信濃安曇族の謎を追う』を続けて読んで、ごく基本的な知識を得たつもり。

史料の乏しい古代史、ロジカルな推論に基づく安曇族の興亡に関する論考。


 
『道路の日本史』武部健一/中公新書

今年の上半期のベスト1。下に示した章立てで分かるが、本書は「日本の道路史」を概観している。

第一章 世界の道路史と日本
第二章 律令国家を支えた七道駅路
第三章 中世―乱世と軍事の道
第四章 近世―平和の礎としての道
第五章 近代―鉄道の陰に追いやられた明治の道
第六章 現代―高速道路時代の到来
終章   日本を支えるシステムとしての道

特に興味深かったのは第二章。

**駅路は、馬が疾走するに足る形を整えておかなければならず、必要な馬を備えた駅を必要な間隔に置いた。七道駅路というのは、古代の日本の領域を覆い尽くすそのような道路システムのことである。実は、このようなすぐれた組織を持つ道路網が日本に実在したことは、日本の歴史上ほとんど知られていなかった。**(34頁)

この七道駅路の総駅数は402で、総延長はなんと6300kmにもなるそうだ。著者が作成した全国駅路図が載っている。また、東京都国分寺市で発掘された東山道武蔵路の航空写真や埼玉県所沢市の古代駅路の発掘状況を示す写真も紹介されている。

奈良時代から平安時代にかけて既に全国的な道路網が整備されて、それが現代の高速道路網とかなり重なっていることを本書で知った。

この駅路は軍事や国の統治が主たる目的で造られていて、民間人の旅行など眼中になかったそうだ。民衆の利用を意識して道路や橋を整備したのは信長、秀吉だという。

日本の道路の歴史についてまとめた本を読んだのは初めて。なかなか興味深い内容だった。総じて中公新書は内容が深くて濃いが本書も例外ではない。



『火の路 上』松本清張/文春文庫

酒船石や益田岩船、猿石など飛鳥の石の謎を大学の史学科助手(助教)の若い女性が解き明かす。

松本清張の説をこの主人公に語らせる、古代史に関する「論文小説」。ペルシャ(古代イラン)に始まったゾロアスター教と大いに関係があるとする論考。実に緻密に持論(自論)を展開しているところはさすが。

松本清張はイランまで取材に出かけているが、小説でも下巻のはじめで主人公の高須通子がイランまで出かけて行く。

余談だが、高須通子は南安曇郡三郷村(現安曇野市三郷)の出身となっている。上巻の最後に彼女が実家に帰省するシーンがでてくる。**村は尾根道伝いに常念岳に向かう鍋冠山の登り口に当たる。**(384頁)

鍋冠山は常念岳の手前にある里山で、なだらかな美しいカーブを描くその山容は屋根のかたちのモチーフにしたいくらい。実はこの山の名前を知ったのは最近のことだが、小説に出てきたので驚いた。

寸暇を惜しんで本を読むのは久しぶりだ。

今年は古代史関係の本に絞るか。いや、読みたい本は他のジャンルでも出てくるだろう・・・。


 


552 茅野市豊平の火の見櫓

2015-06-28 | A 火の見櫓っておもしろい


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 この火の見櫓は小高い所に立っていて尚且つ背が高いので、遠くまで見通せる。なかなか整った姿で美しい。櫓はなめらかなカーブを描いて下に広がっている。櫓の高さに比して脚が短いような気もするが、これはこれでまとまっている。



反りのついた方形の屋根、控えめな蕨手。隅切りをした4角形の見張り台、丸鋼のみで装飾無しの手すり子。シンプルでモダンな印象。床にモーターサイレンを設置してある。





地上で叩くことができる半鐘。寺院の梵鐘のような表面のデザインで龍頭もあれば乳や帯、撞座もある。



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踊り場 



2基とも同じ鐵工所の製作だから全体の印象、細部のデザインがよく似ている。


 


― 茅野市本町西の火の見櫓

2015-06-27 | A 火の見櫓っておもしろい


■ 茅野市本町西で見かけた火の見櫓。見ての通りの簡単なつくり。3本の柱で櫓構造を成しているが、後方の柱は正面の梯子を支えるステーのようなもの。梯子だけで安定的に立っているのであれば、無くても支障ないがやはり梯子より櫓がいい。表面がつるりんちょな半鐘はミントグリーンに塗装されているが、櫓のシルバーとよく合っている。


 


縄文のビーナス 仮面の女神

2015-06-27 | 絵画・芸術・デザイン

 縄文の美女とは善光寺の御開帳に合わせて長野県信濃美術館で開催された〝いのり〟のかたち展で既に会っていますが、今日(27日)、再会するために茅野市尖石縄文考古館まで行ってきました。


茅野市尖石縄文考古館 外観


展示室の様子 縄文の美女ふたりが小さく写っています。


縄文のビーナス


縄文中期(およそ5,000年前) 身長27cm 体重2.1kg 国宝(平成7年) 







体を極端にデフォルメしていますね。縄文人の理想の女性像を表現しているのかもしれません。
腕を省略しているのは製作上の技術的な理由によるのでしょうか?

頭の上部はなぜか平です。そこにうずまきがあります。このデザインの意図を作者に訊いてみたいです。なんとなく恣意的にこうしたのか、何か意味があるのか。意味があるとしたら、どんな・・・?

国宝になったことを作者が知ったら、なんてことを考えながら観ました。


仮面の女神


縄文後期(およそ4,000年前) 身長34cm 体重2.7kg 国宝(平成26年)

輪積みという方法で製作されていて、内部は空洞になっているそうです。縄文のビーナスはいくつかのパーツを粘土の塊で作ってそれらをくっつけているそうですから、製作方法が全く違います。

女性であることをきっちり表現していますね。





後ろ姿です。おしりの表現の違いに注目してしまうのはスケベな中年的鑑賞? 





縄文のビーナスとは違って、仮面の女神はミステリアスなデザインです。遭遇した宇宙人をモデルにしたんじゃないか、なんて思ってしまします。 仮面は一体どんな時に使ったんでしょう? 舞踏会? 

「仮面舞踏会って、少年隊?」 「 いや真面目に考えて。焚火のまわりを仮面を被って踊る祭礼でもしていたのかも・・・」


国宝の土偶
 中空土偶(北海道函館市)
 合掌土偶(青森県八戸市)
 立像土偶・縄文の女神(山形県舟形町)
 縄文のビーナス(長野県茅野市)
 仮面の女神(同上)
 以上5体 2015年


展示作品の撮影は許可されています(ストロボ使用禁止)。


 


551 信州新町の火の見櫓

2015-06-26 | A 火の見櫓っておもしろい


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 Aさんから火の見櫓の画像データを送ってもらった。所在地を示す地図のデータも添付されていて、それによると信州新町日原西、日原郵便局の近く。

シンプルな火の見櫓でユニークな姿・形をしている。細い鋼管(だと思う)の3本の柱を同材の横架材よって最下段、中間、見張り台の床の位置で繋いでいる。見張り台までの高さを梯子段の数と間隔などからおよそ4mと見た。

柱と横架材から成る3つの構面の内の1面は梯子、残りの2面はブレースを入れないで、替わりに3角形の補強プレートで接合部の変形を拘束している(という理解でいいのかな・・・)。火の見櫓でこの補強法を見るのはたぶん初めて。

簡易な見張り台の手すりはリング式ターンバックル付ブレースを模したデザイン。奥の柱1本だけ上に伸ばして、その先端に小屋根付きの半鐘が下げてある。その位置は右利き仕様。

こんな火の見櫓があるなんて・・・。やはりデザインは多様だ。


 


「火の路」松本清張 再読

2015-06-22 | A 本が好き 



 この本を読んだのは1978年の7月だから37年ぶりの再読ということになる。こんなに間を空けた再読ができるのは、書棚に並べてあって目にすることがあるから。このような動機づけをされることって、電子書籍では無いのでは。

上巻のカバーのイラストに描かれている明日香村の酒船石はどんな目的でつくられたのか、何に使っていたのか・・・。

**酒船石のあるこの丘に、いま髪の長い青いスラックスの女が歩いてくる。
古代人が残したさまざまな謎の石は、彼女に何を語りかけるのか。
現代と古代のミステリーが交錯するロマンは飛鳥から始まる。** カバー裏面の本書紹介文より

狛犬巡りをしていて、心が古代にタイムスリップしてしまったのかも。この作品は上下2巻の長編で、昔の文庫本だから文字も細かく、老いた目にはきつい。でも読み進めるのが楽しみだ。


  


550 なぜ屋根が無いのかな・・・

2015-06-21 | A 火の見櫓っておもしろい


550  安曇野市豊科真々部にて 撮影日150620

■ この火の見櫓は前稿で取り上げた火の見櫓のすぐ近くに立っている。やはりFさんに案内してもらった。全く知らなかったが、2基の火の見櫓が立っているこの道路(千国街道のひとつ西側の道路)は武田信玄が整備した、棒道と呼ばれる軍事用道路だという。

この火の見櫓にも屋根が無い。柱が1本の火の見柱や2本の火の見梯子に屋根が無いのはごく一般的で不思議でもないが、柱が3本、4本の火の見櫓には屋根があるのが一般的な姿。

前稿の火の見櫓と同様に屋根が無いが、こちらには見張り台というか半鐘を叩くための足場がある。半鐘は櫓から外に持ち出した腕木に吊り下げてある。



火の見櫓ではあまり見かけない割枠式ターンバックルが使われている。



なぜこのような状態なのか・・・。製作途中で発注者の意向で仕様が変更されて、踊り場から上が取りやめになった?   まさかそんなことはないだろう・・・。2基に共通の事情があるような気がする。

ちなみに下の写真は金沢の火の見櫓だが、老朽化したために後年上部を撤去したためにこのような姿になったという。


金沢市内の浅野川大橋のたもとに立つ火の見櫓(登録有形文化財)  写真提供:同僚のT君

1924年(大正13年)に建てられた火の見櫓で、当時の総高は23mほどだったという。1971年(昭和46年)に老朽化のため櫓の上部を切断、撤去した。現在の高さは約11.6m(ネット検索で得た情報による)。


 


549 豊科真々部の火の見櫓

2015-06-20 | A 火の見櫓っておもしろい


549 安曇野市豊科真々部にて 撮影日150620

 二兎を追う者は一兎をも得ずということわざがよぎることがあります。火の見櫓を巡り、狛犬を追いかけていると、どちらも中途半端になってしまうのではないか・・・。そんな時には、いや二足の草鞋を履くということわざもあるじゃないかと自分に言い聞かせます。

見張り台も屋根も無い火の見櫓で脚元に石造の添え束が残っています。しばらく前にFさんからこの火の見櫓の画像を見せてもらっていました。是非見たいと思っていましたが、運よく今日(20日)見ることができました。 夕方にFさんが車で案内してくださったのです。Fさんに感謝、感謝です。

総高7m程の火の見櫓です。なぜ屋根が無いのか分かりません。てっぺんが唐突な仕舞いです。



部材の接合部に薄いプレートと細いボルトを用いています。



大正4年(1915年)11月10日に大正天皇の御大典が京都御所で行われています。それを記念して同年同月に建てられた木造の火の見櫓の添え柱だけが残ったのでしょう。そこに後年この火の見櫓が建てられたと考えるのが妥当でしょう。



ブレースにパイプ枠式のターンバックルが使われていますが、火の見櫓では初めて見ました。まだまだ見ていない火の見櫓が近場にありそうです。

火の見櫓巡りはまだまだ続きます。


 


食材と調理

2015-06-18 | A あれこれ考える

■ 人との付き合いで基本になるのは何といっても会話、コミュニケーションでしょう。でもせっかく直接会っているのに、お互いにスマホとにらめっこではもったいない、つまらない。でも案外見かけます、この光景。

さて、人との会話ですが、相手からどんなことを聞くのが楽しいか、ということについて。

単に知識を並べられてもあまりおもしろくありません。もちろん豊富な知識を持っていてそれを聞かせてもらえれば、タメにはなりますが・・・。

このことを料理に喩えれば食材を語られてもつまらないということです。意外な食材の組合せとか、調理法を聞かせてもらえるのが楽しいのです。テレビ番組でもプロの料理人が、素人では全く思いつかないような食材を組み合わせて調理してみせる。できた料理を試食するとすごく美味しい、という過程が放送されることがあります。

会話していてなるほど!と思うのは全くこれと同じこと、つまり持ち合わせている知識をベースにした自分なりのものの捉え方や考え方について語ってもらう時なのです。こんな時は聞いていて興味深く、楽しいのです。

しばらく前、週末のサードプレイスで内科医のM先生の話を聞く機会がありましたが、上述の通りで大変興味深いものでした。

ユニークなというのか、オリジナルなものの見方を提示するということは簡単ではありません。ですから、単に知識を並べるだけ、物知り自慢という場合も少なくないのでしょう。もっともこのことには他の理由もありそうですが。

どんなことについても自分なりの見解を示すことができるように努力し続けること・・・、自分への課題としたいです。会話する相手がこのように望んでいると信じて。


 


古代駅路はすごい!

2015-06-18 | A 本が好き 



 『信濃安曇族の謎を追う ―どこから来て、どこへ消えたか―』坂本 博/近代文芸社新書を読み終えた。

著者の坂本氏はあとがきに次のようなことを書いている。残されたわずかなデータを基に安曇族興亡の全体像を明らかにすることは土器の復元作業に似ている。土器の欠けた部分は石膏で補って全体像を明らかにする。石膏で補うことは古代史の場合には推論するということに他ならない。

なるほど確かに土器の破片をみればその曲面の様子からおよその大きさが分かるだろう。いくつもの破片が見つかれば大きさだけでなく表面のデザインの様子も把握しやすくなる。本書ではまさにこのような方法によって安曇族の興亡の全体像を浮かび上がらせている。

興味深く読んだ。


さて、次はこの本。


『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』 武部健一/中公新書

**邪馬台国の頃には獣道しかなかった日本列島も、奈良時代になると幅12mの真っ直ぐな道が全国に張りめぐらされ、(後略)**この本のカバー折り返しにはこのような文章が載っている。

本文中にも**日本の道路史のなかでもっとも特徴的で、かつ世界に誇るに足ることは、古代の律令制が確立した奈良時代を中心に、全国に七道駅路という道路運用の制度を備えた道路網を持ったことである。**(23、4頁)とある。その様子を示す、今の高速道路網を思わせるような全国地図まで載っている。

奈良時代にこんな道路網が整備されていたとは・・・、驚き。

古代駅路については、しばらく前にある方から話を聞いた。大変興味深い、驚きの内容だった。それで先日書店で偶々この本を見つけて買い求めた。

今週末はこの本を読むことにする。


 


朝カフェ読書

2015-06-17 | A 本が好き 



■ 今朝も7時半ころから小一時間朝カフェ読書、『信濃安曇族の謎を追う』を読む。

以前はこちらがオーダーする前に「ホットのショートをマグカップですね」と確認してくれた店員さんがいたけれど、このところ見かけない。辞めてしまったのかも・・・。

2階のいつもの席に着く。

**八面大王こと安曇族を征伐したのは、仁科氏か坂上田村麻呂か、そのいずれであるか、あるいは両者の連合軍であったという結論が必然的に導かれる。**(207頁) そう、著者の坂本氏は安曇族以外には八面大王は考えられないとしている。

しばらく古代をさまようことにする・・・。


 


松本市会田 大黒天像

2015-06-17 | B 石神・石仏


撮影日150626  松本市会田(旧四賀村会田)の廣田寺前の路傍に祀られている大黒天像。

七福神のひとつ、いや一柱の大黒天像を石造で見るのは初めてかもしれない。
右手に打ち出の小槌、左手に福袋を持って俵の上に立つという、いつもの決めポーズ。
近々良いことがあるかもしれない。 にこやかな表情の大黒様に大いに期待したい。
臨時収入もあるかも・・・。


 



 


穂高柏原の道祖神

2015-06-16 | B 石神・石仏



撮影日150613

 北安曇郡池田町の川会神社を目指して安曇野市は穂高の生活道路を走行中にこの道祖神を見かけた。カーナビに表示されている住所は穂高柏原。双体道祖神で前稿同様、抱肩握手像。 白御影石は摩耗しやすい石質で、この道祖神も摩耗で顔の表情がはっきりとは分からない。

真円の中に貴族スタイル(衣冠束帯、十二単姿)の像をバランス良く納め、その周囲に大きく建立年を彫りこんである。右側は天保十三年、左側は寅(*1)、その下の渦巻きのような文字が読めない。最後は月吉日だろうが・・・。


 

*1 天保13年(1842年)、この年の干支は壬寅(みずのえとら)