透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ヒヨドリのお宿は?

2014-11-30 | D キミの名は?


撮影日 141130 

 隣家の柿の木はすっかり葉が落ち、実だけが収穫されることなくいくつも残っている。その実を啄ばむヒヨドリを今日も観察して写真を撮った。素早い動きで、なかなかその瞬間を捉えることができなかったが、何枚目かでようやくこの写真が撮れた。ヒヨドリが枝に停まった状態て啄ばみやすい柿の実はどれも下半分くらいが無くなっている。

私が暮らす鄙里の集落には柿の木があちこちにあるが、他の木の実はこれほど啄ばまれてはいないようだ。なぜだろう・・・。

この柿の木のすぐ近くに(この写真の背景となっている)小さな竹やぶがあって、そこに直ちに逃げ込むことができて安全だからかもしれない。この竹やぶはヒヨドリたちのねぐらになっているのかも。

ここで無知をさらける。ねぐらと言えば、つい最近まで成鳥は巣の中で寝ると思っていた。でも巣は卵を産み、雛を育てるためのもの。そう、子育てスペースであって、成鳥の寝室ではないのだ。成鳥は枝に停まった状態で寝る。このことを私に教えてくれたFさんは私の無知にあきれたことだろう・・・。  


 


ブックレビュー 1411

2014-11-30 | A ブックレビュー



 時の流れは早い。あっという間に今年もあと1ヶ月となった。今年を振り返るのはもうしばらく先にするが、11月18日に高野山参拝に出かけたことが大きな出来事だった。

菩提寺は真言宗の寺、その檀信徒総代を務めることなったのを機に空海について少し勉強してみようと、何冊か関連本を読んできた。

11月に読んだのは高野山参拝に出かける前に読んだ本、2冊。

『空海入門』加藤精一/角川ソフィア文庫

この国の思想、宗教に大きな足跡を残した空海の生涯(774年~835年)、思想を概観するのに適した1冊。 ただし、生涯はともかく、思想はおろか言葉の意味を理解することすら素養のない私には困難。

遣唐使船は今現在の小さな漁船ほどの大きさの船だが、その船で唐に渡るとき、4隻のうち2隻が沈没して、唐に流れ着いたのは空海と最澄が乗っていた2隻だけだったという事実をどう捉えたものか・・・、不思議というか、奇跡としか言いようがないように思う。

中国南端の福州に漂着した一行は地元の役人に疑われて上陸することができなかった。その際、遣唐大使の求めに応じて空海が書いた手紙により中国側は直ちに船の封を解いて、大使の来唐を長安に伝えたという。空海の格調高い文章に深い教養を読みとった役人が驚いたということだが、このエピソードだけでも空海の凄さが窺える。

空海を密教の正統な後継者と認めた高僧・恵果(けいか)がわずか8ヶ月後には入滅してしまう。その間に学ぶべきものをすべて学び終えたということだから、空海は天才としか言いようがない。留学生は20年間滞在することが定めだったとのことだが、空海は3年足らずで帰国の途につく。

帰国後空海は約3年、福岡に留め置かれる。**朝廷が無名の一留学僧空海の処遇を決めかねたのだと言われている。**と高村薫は説明しているが(信濃毎日新聞2014年8月14日付朝刊文化面)、本書で、著者は留学生の定めは20年の滞在で、勝手に短縮するのは大罪になり、朝廷が都に入ることを許可しなかったからだと記している。

その後・・・、空海は修行の場を高野山に開くことを嵯峨天皇に認められ、東寺も下賜される。唐で土木技術に関する知識も得ていた空海は今でも使われている讃岐の灌漑用ため池、満濃池を修理した技術者でもあったし、民衆の教育機関として日本初の私立学校を設立した教育者でもあった。 なんと充実した生涯であったことか。

『高野山』松長有慶/岩波新書

高野山の歴史や文化、建造物などを知るのに適した1冊。ガイドブックとして持参すればよかった。

*****

歴史に名を連ねる武将や名もなき庶民まで、供養塔で埋め尽くされた参道を御廟まで歩くという体験を得たことが今年一番の出来事だった、と括ってしまおう。


さて、師走。今年の読みおさめはどんな本にするか・・・。
 


年賀はがきのひつじ

2014-11-29 | D 新聞を読んで

■ しばらく前に書いたことの繰り返しです。

2003年の年賀はがきにひつじが編み物をしている絵が採用されていました。そして来年、2015年の年賀はがきの絵ではひつじが編み上がったマフラーを首に巻き、編み棒を持っています。この記事を書くために先日年賀はがきを1枚だけ買い求めました。12年前の続きになっているのですが、このことが今話題になっていると29日付信濃毎日新聞が紹介しています(19面の子ども欄)。

新聞記事によるとふたつの絵を描いたのは日本郵便の切手デザイナーの星山理佳さんだそうです。理佳と書いてあやかさんと読むそうですが、名前って難しいですね。

2003年用の絵を描いた時から「12年後に続きができたらいいな」と考えていたそうです。こんなに長いタイムスパンで構想することができるってスゴイと思います。

上の2003年の年賀状は私が保存していたものです。昔の年賀状を保存していても役に立つことなんて何にもない、と思っていましたが、こんなことで役に立ちました。



 


忘年会

2014-11-24 | A あれこれ

  

■ 21日の金曜日、今年の6月にオープンしたばかりのイタリア料理の店で美女とデート。  鄙里のカールおじさん(いや、おじいさんか)は、「ハイカラな店」が苦手。でも美女のお誘いを断るなんて考えられません・・・。



などと書きましたが、本当は仲良し4人組(と私は勝手に書いています)の少し早目の忘年会でした。  このようなフレーミングにするとふたりだけのデートのように見えるでしょ。美女から誘われたわけではなくて、私が計画していた忘年会だったのです。

前菜の繊細な味が美味でした。2種類のニョッキをオーダー、もちもちでパスタというよりもお餅のような食感、美味でした。

この後、ドイツ料理の店でソーセージを何種類も味わって、カクテルを数杯飲んで、最後は壁面の書棚にぎっしり本が並ぶ、バーというかなんというか不思議な店に移動してウィスキーの飲み比べ。

Mさんが本好きな私にぜひ紹介したいという店でした。


 


519 金沢の火の見柱

2014-11-24 | A 火の見櫓っておもしろい


519





 金沢近江市場のすぐ近くにこの火の見柱が立っていた。引きこみ柱に腕木を取り付けてそこに半鐘を吊るし、小さな切妻屋根を架けている。屋根は人工竹垣。木の押さえ桟を下地の桁と母屋に留めて固定している。松ヶ枝消防団と書いた木製看板と赤色回転灯を付けている。

金沢の町屋を模した詰所の塔屋の外壁にも半鐘が吊るしてある。これは既に撤去してしまった火の見の半鐘かもしれない。

*****

以上で「高野山奉賛と吉本新喜劇&金沢兼六園の旅」の記録を終わりにする。

旅行中、平凡というか凡庸な写真ばかり撮っていた。オリジナルな視点がなければつまらない。反省。


 


大阪から金沢へ

2014-11-24 | A あれこれ

■ 総本山金剛峯寺の見学を終え、高野山を後にして大阪に向かった。大阪では「夜の修行」をきっちりこなした。  写真は無し。下は20日の朝、宿泊したホテルから撮った写真。アベノミクスじゃなかった、あべのハルカスと通天閣が写っている。



大阪を発って、観光バスは名神高速道路を通り、琵琶湖の東側を北陸自動車道で北上、金沢に向かった。

*****

金沢は近江市場で昼食。高野山の質素な精進料理とは打って変わってなかなか豪華な海鮮丼。

日常のケな暮らし、非日常のハレ。このメリハリが大切なんだな~と実感。



14種類の海の幸をのせた海鮮丼 この写真をもって食レポ終わり。

*****

兼六園







雪つり 先端のデザイン



毎日手入れをしているから庭園がきれいに保てているわけで・・・。

兼六園を後に東海北陸自動車道で高山へ。

高山で夕食、その後は鄙里に向けてネコ、もといバスまっしぐら・・・。


 


高野山参拝 6

2014-11-24 | A あれこれ

総本山 金剛峯寺


正門

■ 壇上伽藍見学の後、総本山 金剛峯寺を訪ねた。豊臣秀吉が母君のために1593年に建立した寺。その後3回焼失し、現在の建物は江戸末期の1863年(文久3年)に再建されている。


金剛峯寺正面

屋根の上にふたつの天水桶が載っている。非常時に備えた貯水設備、現在は使われていない。

堂内は撮影禁止だから写真は無い。昔、皇族や大名の応接間として使われたという総金箔押しの壁の上段の間、それから豊臣秀吉に追放された2代目の関白秀次が自害した柳の間(歴史に疎いのでそんな史実があったことを知らなかった)。

大きな厨(くりや)、それから部屋の中央に大きな囲炉裏というか、暖炉のある土室と呼ばれる部屋などを見てまわった。


蟠龍庭(ばんりゅうてい)と名づけられた石庭

雄雌一対の龍が四国産の石で表現されているのだそうだ。説明をきちんと聞いていなかったのでどこが頭なのか、どこが尻尾なのか分からない・・・。

やはり説明はきちんと聞いてメモするくらいの姿勢でないと記録にも記憶にも残らない。ガイドブックに載っている写真と同じような写真を撮ることに終始していてはダメだ。反省。


鐘楼

1864年(元治元年)の再建


 


高野山参拝 5

2014-11-24 | A あれこれ

壇上伽藍

■ 宿泊した恵光院を8時半過ぎにバスで出発して壇上伽藍に向かう。伽藍北側の道路から階段を上り、根本大塔の西側に出る。


以下、旅行前に読んだ本やリーフレット等を参考に記した旅行記録。


金堂

正面に金堂の背面を見る。高野山の堂塔は火災で焼失したものが多い。この金堂は1926年(昭和元年)に失火で焼失、1932年(昭和7年)に再建された。


御影堂

檜皮葺きの方形の屋根、吊り上げ式の格子戸、内側に障子戸。 低く抑えられた御堂は落ち着いた佇まい。伽藍内の御堂で一番美しい。





御影堂越しに根本大塔を見る。右側は松葉が3本という珍しい三鈷の松。弘法大師が唐から帰国する際、伽藍建立の地を占うために投げた三鈷が架かったと伝えられる。人を写さないように気を使ったが、やはり人がいた方が現実感があっていいかも。


西塔

伽藍の西北の隅に樹木に囲まれて建つ多宝塔。この塔は1834年の再建。



大屋根の出が大きいので4隅に柱を立てて支えている。法隆寺の金堂にも同様の柱が立っているが、確か後年建てたものだった。この柱は建立当初からのものだろう。


六角経蔵

鳥羽上皇の菩提を弔うために皇后の美福門院得子が1159年に建立した。この蔵は1934年(昭和9年)の再建。

回廊の下の環状の帯の部分は象の鼻を模したと思われる腕木を力を合わせて押すとまわる。右まわりで1回転すると願い事が叶うと聞き、同行者何人かでまわしたが、1回転する前に止まってしまった。上層の軒裏を白く塗ってあるので他の堂塔とは印象が異なる。


根本大塔



高野山開創の816年頃着工、887年頃竣工、工期約70年。高さ約50メートル。この塔は1937年(昭和12年)の再建。鉄筋コンクリート造。上層の屋根を支える柱は無い。高野山で最も有名な建物かもしれない。


東塔

西塔とともに9世紀後半に建立されたが何回か焼失、この塔は1984年(昭和59年)に建てられた。中尊は尊勝仏頂尊、脇侍に不動、降三世の両明王を祀っている。


不動堂

1198年、鳥羽上皇の皇女・八条女院の発願により建立された。高野山に現存する最古の建造物で国宝。四方の屋根がそれぞれ異なった形をしている。4人の大工が打ち合わせ無しで4方から造りだしたからだ、という冗談を案内の方から聞いた。優雅な姿が好ましい。

本尊の不動明王の脇侍の八大童子(国宝)のうち、6体は、運慶とその一門の作だという。八大童子はサントリー美術館で12月7日までの会期で開催されている「高野山の名宝」展に出張中。東京まで出かけていくか・・・。





蛇腹路と呼ばれる伽藍へのアプローチの紅葉


六時の鐘@蛇腹路の起点


作家の高村薫が新聞に「21世紀の空海 高野山開創1200年」という記事を連載しているが、その第16回目の記事(信濃毎日新聞11月20日付朝刊文化面)で**高野山はもはや真言密教の道場というより、人びとに死後の安寧を約束する霊場として日本じゅうに認知されていたのである。**と書いている。

奥之院の記念燈籠堂に納められた燈籠や参道のおびただしい数の墓石などを見ると、この指摘が十分な説得力をもって迫ってくる。

 


高野山参拝 4

2014-11-23 | A あれこれ


町石(ちょういし) 

 町石は五輪塔のような高さ約3メートルの石柱で、道しるべとして根本大塔を起点として九度町の慈尊院までの約24kmの道中に1町おきに180基、大塔から弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基、計216基の町石が設置されているとのことだ。

鎌倉時代にそれまでの木製の塔から石柱に変わったという。この町石を頼りに急な山道を登ったに違いない、石柱に刻まれた残りの町数を確認しながら・・・。

火の見櫓を見て宿坊・恵光院に戻る時に町石を撮った。町(ちょう)は距離の単位で1町は約109メートル。このことを旅行前に調べていれば火の見櫓の近くにある町石と宿坊近くの町石を見ればその間の距離が分かったのに・・・。



道路沿いの町屋 妻壁の窓の両側の袖壁(名称が分からない)の意匠に注目




入り口の両側に設置された折りたたみ式の床几、ばったり(と高野山で呼ぶかどうかは分からない)。



成福院の山門 屋根の棟端飾りはどうやら高野山に共通のデザインコード。鬼瓦のような飾りの上の板は雨除けが装飾化されたものだろう。



高野山は来年(2015年)開創1200年を迎える。


繰り返しの美学 大広間の食膳配置



朝食をいただいた。この写真をもって食レポに代える。


 


518 高野山の火の見櫓

2014-11-23 | A 火の見櫓っておもしろい


518

 19日は朝6時半から恵光院の本堂で勤行に参列した後、この火の見櫓まで出かけた。徒歩で10分くらいだった。この位置からだと見張り台の様子が分かりにくい。



別の方向から見て、櫓のてっぺんにサイレンを設置し、切妻の小屋根で覆っていることが分かった。見張り台に屋根が無い。九度山町上古沢の火の見櫓の屋根は後付けかもしれない。





梯子が櫓の外に設置されているから櫓の内部に入りこむ必要がない。にもかかわらず正面だけブレースを設置していないのは何故だろう・・・。


 


高野山参拝 3

2014-11-22 | A あれこれ


英霊殿

 高野山の大門を通過して街中を進み、中の橋の駐車場でバスを降りて徒歩で奥之院、弘法大師御廟を目指す。



杉の大木がそそり立つ参道、その両側にはおびただしい数の墓石が立ち並ぶ。



五輪塔 仏教の世界観を表現する。案内していただいた方から梵字ではなく漢字で書いてあるのは珍しいと聞いたような・・・。



 御廟橋から燈籠堂を望む。ここから先は撮影が禁止されている。燈籠堂の内部には信者が献じたものすごい数の燈籠が吊り下げられていた。右隣に新たな燈籠堂が建設されたが、そこも既に燈籠でほぼ一杯だとか。燈籠堂の背後に弘法大師御廟がある。



 弘法大師に供する食事をつくる御供所と試食をする嘗試(あじみ)地蔵。その後奥の院弘法大師御廟へと向かう。毎日朝6時と10時半の2回続けられているという。宝来という名前の絵を切り抜いた紙が張ってある。



御供所の門 下は屋根の棟端の飾り





応其上人廟 

 高野山を攻略しようとしていた豊臣秀吉を説得し、高野山を救った高僧・木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)の廟。案内の方の説明を聞いて説得力のある僧だったんだな~と感じ入りカメラを向けた。



後方は豊臣秀吉の墓



参道に立ち並ぶ燈籠 繰り返しの美学



宿泊した宿坊「恵光院」の山門(上)と中庭(下)




供された夕食 精進料理 お酒もOK。食レポは以上!



 


高野山参拝 2

2014-11-22 | A あれこれ


九度町上古沢の休憩場所から 撮影日141118

■ 急な斜面に住宅が点在している。この辺りは冨有柿の産地。斜面一面柿畑。確か和歌山は柿の生産量が全国で最も多い県。ここは戦国時代の武将、真田幸村が隠棲していた町だという。長野県にも縁があるわけだ。


550

午後2時半ころようやく高野山に到着。出発したのが朝5時半だったから、9時間かかったことになる。以前から高野山に行きたいと思っていたが、ようやく念願がかなった。

山上に寺院と民家が共存する街並みが形成されていた。高野山は海抜850m前後、東西6km、南北2km弱の盆地だ。周囲をさらに高い山が囲む。それら峰々を蓮華の花びらに見た立てて(内の八葉、外の八葉)、この世の浄土だと古くからと伝えられているという。

『高野山』岩波新書で著者の松長有慶氏は**現実の俗なる世界の中に、真実なるもの聖を見出す、インド以来の密教が目指す宗教的な目標であった。(中略) 密教では(中略)俗を無条件に排除することはない。聖が俗を包摂しつつ、時間をかけて俗の浄化をはかる。聖と俗との混在、これも密教の特色の一端を映し出したものといえるであろう。**(13、4頁)と記している。

*****

あらかじめ調べておいた火の見櫓がバスの前方に見えた。車内から撮影した。添乗員との雑談で私が火の見櫓好き(火の見ヤグラー)だと伝えてあったので、「近くでバスを停めますよ」と言ってもらったが、固辞した。団体旅行で我が儘は禁物だ。

宿泊予定の宿坊からはそんなに遠くないはず、なんとか時間を見つけてここまで来よう・・・。

聖地に来てもやはり火の見櫓が気になる。この心をどう捉えたものか・・・。


 

 


517 あっ 火の見櫓!

2014-11-22 | A 火の見櫓っておもしろい


517

 大型観光バスはすれ違いがやっとの狭い道路を上っていく。と、カーブの先に突然火の見櫓が出現! だが、無情にもバスは通り過ぎて行く・・・。

ところがしばらくすると休憩予定場所に到着。 添乗員に頼んで停めてもらったわけではない。バスから降りて火の見櫓目がけて走った。距離はざっと500メートル。で、観察したのがこの火の見櫓。所在地は和歌山県九度山町上古沢(かみこさわ)。

やはり所変われば火の見変わるで、これは初めて見るタイプ。簡易な送電鉄塔か、無線アンテナ用の櫓のような構造だ。平鋼の交差ブレースと片掛けブレースを交互に設置している。梯子は櫓の外付け。

屋根の下に半鐘を設置して雨を防いでいる例が多いが、この火の見櫓は腕木を持ち出し、その先に吊り下げている。右利きが多いから半鐘は梯子の右側に付けて当然。見張り台が無いから、屋根の下に半鐘を吊り下げても叩くことができないだろう。

屋根の下の平面に小型のモーターサイレンが設置してあるようだが、これはおそらく半鐘の代わりに後から設置したものだろう。ならば、屋根が建設当初からあったとすれば、その屋根の意味は? 櫓のてっぺんを視覚的にまとめるためか?


 

 


高野山参拝 1

2014-11-22 | A あれこれ



18日、朝5時半過ぎに大型観光バスで出発。東海環状自動車道の刈谷PAを過ぎたところで車内から撮った写真。それにしても分かりにくい道路案内だ。黒い道路が何を意味しているのか全く分からない。




出発から6時間、11時半に奈良県五条市の吉野川(紀ノ川上流)沿いの食堂で昼食。行きつけのカフェ  バロのカクさんから食レポ依頼(?)があったので、写真をアップしておく。

野鳥の撮影も難しいが、料理の撮影も難しい。料理のことがよく分かっていないと的確なアングルも分からない。数枚撮った内の1枚を載せるだけでレポートとする。


 

バスの席は前から2番目。1番前の席に座る添乗員から相談を受けることもあるから、その後ろが幹事の指定席。おかげで前方の景色がよく見えた。これは南海高野線の丹生川橋梁(大正14年完成)。フロントガラスの雨粒にピントが合ってしまったのは残念だが、車内からのとっさの撮影だから仕方無い・・・。高野山まではすれ違いがやっとの狭い道路を上っていく・・・。


 


62 添乗員のKさん

2014-11-21 | C 名刺 今日の1枚

62枚目

■ この18、19、20日の3日間は菩提寺総代会の旅行だった。旅行会社の旅程表に「高野山奉賛と吉本新喜劇&金沢兼六園の旅」とある通り、盛沢山の旅行だった。

で、62枚目を渡したのは今回の旅行の添乗員のKさんだった。写真を撮る機会を逸したのは残念・・・。


次稿から旅行中に撮った写真をアップする。