透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

講談社現代新書 2000点

2009-07-30 | A 読書日記


 1962年創刊の中公新書が今年の5月に2,000点を越えた。その記念として『中公新書の森』が作成された。

1964年創刊の講談社現代新書も2,000点に到達した。記念すべき2,000点目は分子生物学者、福岡伸一さんの『世界は分けてもわからない』。この本を本日購入した。今週末読む予定。

講談社は2,000点記念企画を何かするのだろうか。できたら中公新書のように記念冊子を発行して欲しいと思うが、どうなんだろう。講談社現代新書は装丁が変ってからはあまり読まなくなったが、昔はよく読んだ。

自室の書棚を見ると新書では講談社現代新書が一番多い。中公新書は装丁が地味、講談社現代新書は派手、好対照を成している。

ところで中公新書の2000点目は『戦後世界経済史』という経済の本。経済の本を手にすることはまず無いがいつかこの本を読んでみようと思う。案外面白いかも知れない・・・。

絶滅危惧種?

2009-07-30 | A あれこれ
■ 生活雑記  

すずめってどこにでもいる鳥だと思っていましたが、ここ何年か家の周りで見かけることがほとんどありません。チュンチュン、鳴き声を聞かなくなりました。

先週の木曜日、朝のラジオ番組「日本全国8時です」で月尾嘉男さんがすずめのことについて触れ、すずめの数が50年前の1割にまで減少したと指摘していました。

1割にまで減少・・・。鳥は環境の変化に敏感な生き物、やはり環境の変化がすずめの減少を招いたのでしょうか? 気になります。このままではそう遠くない将来、すずめが絶滅危惧種になってしまうかも・・・? 可能性がまったく無いとはいえないですね。朱鷺だって昔は決して珍しい鳥ではなかったということですから。

ホタルやトンボも随分少なくなったような気がします。


今日も蔵

2009-07-29 | A あれこれ



 蔵のまちというと喜多方、川越あたりが思い浮かびます。松本市内の中町も蔵のまちですが。このところ蔵モード全開。で、今回も蔵です。

安曇野は北安曇郡松川村の蔵です。車を近くの空き地に停めて路上観察。妻壁は最近手を入れたようで、真っ白です。平側に小さな窓がふたつ。やはり窓は蔵に表情を与えます。

さて、この蔵で注目は外壁のコーナー(出隅)。なぜかなまこ壁を上まで伸ばしています。このことに何か意味があるのでしょうか・・・。出隅は傷みやすいので補強のため? では他の出隅が漆喰塗り廻しなのは何故? よく分かりません。道路側から見て目立つように? 単なるデザインで特に機能的な意味は無い?

それにしても蔵ってみんな違いますね。地方によって違うのはもちろんですが、同じ地域でもそれぞれ違います。漫然と見ていると違いには気が付きませんが、ちょっと注意してみるとその違いに気が付きます。

旅行に出かける際、蔵にも注目していただけたら幸いです。


 


路上観察 高山の蔵

2009-07-26 | A あれこれ


高山の蔵 20090723

 高山市郊外で見かけた蔵。存在感のある立派な蔵です。山里というロケーションがいいですね。壁の白と黒のコントラストも魅力的。すっきりとした妻壁がそれを強調しています。腰壁は板(樹種は不明です。)の縦張り。このあたりでよく目にする構法です。

高山地方では梁や母屋などの小口を白く塗ることが多いですが、この蔵の登り梁の小口もやはり同様です。赤い破風の下に付けられた白の妻垂(?)は意匠的にどうなんでしょう、あるいは無い方がいいかもしれません。でも、それだと平凡かな・・・。

土蔵は普通の住宅の4倍程度の坪単価で、大工工事と左官工事がほぼ同額になったそうです(「民家をつくった大工たち」吉野正治/学芸出版社 1986)。ピッタリと閉じることができる扉は大工と左官の最高の腕の見せ所。息の合ったコラボでいい蔵をつくってきたんですね。 

飛騨の工匠は平安の昔から都の造営でも活躍したそうですが、その優れた技術を継承してきた職人たちが残した建築文化財、このまま後世に残して欲しいと願うばかり、といつもと同じことを書いておきます。




安曇野の屋敷林

2009-07-26 | A あれこれ


北安曇郡松川村にて路上観察(20090722)

 安曇野の屋敷林、しばらく前に載せたときは樹種については触れませんでした。高木には杉、檜、欅、赤松が多いようです。低木の種類はいろいろです。

しばらく前に路上観察したこの屋敷林、樹種は赤松です。樹高は15~20mくらいはありそうです。屋敷林は主に防風のためにあるのかも知れませんが、その他にも枝を焚き木にしたり、建材として売ったりすることも目的としていたようです。

この屋敷林は、立派な屋敷を構えているぞ「ドーダ」の表現かもしれません(
ドーダとは ←過去ログを参照してください)。 そう、ステータスシンボルとしての屋敷林です。

今年、私の友人がリーダーとなって安曇野の屋敷林の調査をしています(調査報告書を確か今年中にまとめる予定だったと思います。安曇野の財産の屋敷林も次第に少なくなっているようです。調査が屋敷林の保全に生かせるように、その成果に期待しています)。

調査では屋敷林の所有者にヒアリングもするでしょうが、まさか「ドーダ」のための屋敷林などと答える人はいないと思います。でも案外このドーダな屋敷林が多いのではないか、私はそう思います。

それにしてもこの屋敷林、見事としかいいようがありません。


 


雨降りだ、本を読もう

2009-07-25 | A 読書日記



 休日のひと時、カフェ・シュトラッセで読書しながら過ごす。

屋根を打つ雨の音、水が張られた田んぼを渡ってくる涼風、店内に静かに流れるピアノ曲。
こんな時は川上弘美の小説がいいなあ、と思いつつ『屋根の日本史 職人が案内する古建築の魅力』原田多加司/中公新書を読む。

 ***

先日(0714)見たNHKのテレビ番組「爆笑問題のニッポンの教養」で味覚の研究をしている九州大学大学院教授の都甲潔さんと爆笑問題が語り合っていた。

都甲教授によるともともと生物は「甘み」を好み、「苦み」を嫌う味覚を持っているのだそうだ。甘みは栄養、苦みは毒。どうもそのように生物にはインプットされているらしい。番組では単細胞生物の粘菌を使った簡単な実験によってそのことを実証していた。そういえば、♪あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ とホタルを誘う童謡があったっけ。

ところが、人はいつの間にかこの苦みを好むようになった。コーヒーを好むのもその一例だ。

苦みは毒というデータが人にもインプットされているためだろうか、苦いコーヒーを飲むときほんの一瞬、ためらいが生じる。さあ飲むぞ、その時たぶん自分にそう言い聞かせるのだろう。理性による本能の説得だ。

ところが、である。カフェ・シュトラッセのコーヒーを飲むとき、この一瞬のためらいは生じていないのではないかと思う。実に素直にというか、スムーズに飲むことができる。深煎りのコーヒーがまろやかで、甘みさえ感じるのだ。

 ***

『屋根の日本史』原田多加司/中公新書

この本を読むと、古代から優れた建築技術が連綿と受け継がれ、磨かれてきたことが分かる。そしてそのような技術が今、廃れつつあることも。伝統的な建築文化を捨てたこの国の当然の帰結、悲しい・・・。

**近代以降のわが国の歴史は、有り体にいえば職人の矜持(きょうじ)をなし崩しにしていった過程であって、「近代化」や「画一化」という巨大なひき臼によって、ひき潰されていくという根の深い社会問題を孕んでいた。** 

著者は家業の桧皮葺師・柿葺師の10代目 原田真光を襲名し、国宝や重要文化財など指定建造物の修復を多数手掛けている職人。


 


車椅子は椅子か?

2009-07-25 | A あれこれ

 皆さんは車椅子を使う生活の経験、ありますか?

昨日の新聞(信濃毎日新聞)のくらし欄に車いす(記事の表記に倣います)に関する記事が載っていました。**生活の場に応じて対応が可能です。** **車いすは生活の質にかかわるもの。** このような内容から、車いすを椅子としても使うことを前提として記事は書かれていることが分かります。記事のタイトルも「生活に応じ 楽な姿勢で」となっています。

車いすは椅子と同じなのでしょうか。確かに座面と背もたれがありますから、椅子と同じです。でも車いすの大きな車輪はどうも安定感に欠けます。椅子の脚のようにしっかりと床に据えられているという感じがしません。車輪が固定されていても、です。それとフットレストが気になります。フットレストは名前の通り、足を置くところですが、やはり床に足を置くのとは明らかに安定感、安心感が違います。フットレストを跳ね上げて床に足を置くこともできますが、フットレストが邪魔で足の位置が自由になりません。

このように車いすと椅子とは明らかに違う、と私は思うのです。ちなみにウィキ
ディアにも**車椅子は、身体の機能障害により歩行困難となった者が利用する移動手段、福祉用具である。**とあります。福祉用具ということばに椅子としての機能が含まれているのかどうかは分かりませんが・・・。

老人ホームにお邪魔すると、お年寄りが車いすでテーブルに向かって食事をしていたり、テレビに向かっているところをよく目にします。そこに私は違和感を覚えてしまいます。車いすは椅子ではないのですから・・・。

その一方で介護する方のことも考えるのです。日常生活の様々な場面で車いすから椅子にお年寄りが移乗するのをサポートする。一日に何回も。これは大変なことでしょう。介護員が腰痛に悩まされ、職を離れなくてはならなくなってしまうということもよく耳にします。車いすから椅子への移乗をなくせば、かなり楽なことは分かります。それで、車いすを椅子としても使う・・・。

1台29万8000円と記事に紹介されている車椅子(かなり高額ですね)には背もたれが倒れるリクライニング機能、ひじ掛けの高さが調節できる機能、背もたれと座面の角度を変えないで傾けられるチルト機能などが付いているそうです。でも、私はやはり普通の椅子がいいです。普通の椅子に座って食事がしたいです。

新聞記事を読みながら考えてしまいました。

「日常生活の質の確保か、介護の負担軽減か、それが問題だ」 


 


久しぶりの建築トランプ

2009-07-24 | A あれこれ


「シャッフル!日本建築」選者:五十嵐太郎、イラスト:宮沢洋/南洋堂/1600円(税込)

 あと10数枚を残して中断していた。中断の理由は特にない。再開して最初に引いたのが
伊東豊雄(←過去ログ)さん。

トランプで伊東さんが手にしているのは「せんだいメディアテーク」の鋼管トラス柱。初期のイメージではこれはゆらゆら揺れる海草ということだった。着ているのは多摩美の図書館の構造体、鋼板をはさんだRCの壁。襟はどこだっけ、ドイツ?にできたパビリオン? 襟元には中野坂上の家、確か既に取り壊されてしまっている。帽子はスペインの地方都市の巨大巻貝建築か?(都市の名前も建築の名前も覚えていない)

先日書いた小布施の新しい図書館の設計者はプロポーザルで勝利を収めた古谷誠章さん。では伊東さんは一体どんな案を提示したんだろう・・・。それを確認する方法がないものだろうか・・・。確か図書館の事務室には古谷さんのプレゼン用のパネルが置いてあったと思う。他の提案者のパネルも残っているのではないか・・・。雑誌に紹介されることはないだろうか。しばらくアンテナを張っていようと思う。


 


路上観察 高山の民家

2009-07-24 | A あれこれ

 所用で飛騨高山へ。帰路、国道158号線から少し外れて高山市郊外の集落内を走行、民家を路上観察した。



これを車内から見かけた時、一瞬「懸魚か?」と思った(懸魚←過去ログ参照)。

既に書いたことだが、懸魚は棟木の小口を塞いで雨水による腐朽を防ぐという機能を本来持っている。それが次第に飾りとして凝った意匠が施されるようになったもの(と私は解釈している)。過去ログには懸魚の原初的な、機能のみの形を載せた。

路上観察したこの民家、形が過去ログのものと似ていたので懸魚か、と思ったのだった。が、よく見ると懸魚が隠すべき棟木の小口は顔を覗かせている。

これは妻垂、壁を雨から守るために付けた垂れ壁、と解釈すべきかもしれない。通常妻垂は軒桁あたりから上部を全て覆うようにつくられているが、この場合はなぜかその範囲が狭い。これで、雨を防ぐという機能が発揮できるものかどうか・・・。

あるいは、単なる飾りなのかもしれない。こんなとき、家の方に訊いてみても、さあ、昔から付いているのでよく分かりません・・・、といった答えが返ってくることもある。

勝手な解釈を試みるのが楽しい。学術的な調査研究ではないのだから。


 


蔵の妻壁の保護

2009-07-24 | A あれこれ

 

 土蔵の壁を雨から守るために板で覆ったものを見かけることはよくある(左の写真 長野県池田町にて 撮影2009年7月)。が、右の写真のように樹皮で覆ったものはあまり見かけない。これは伊予大洲、愛媛県の大洲市で見かけた土蔵(撮影1980年3月)。妻壁を杉皮で覆って竹で留めている。

板で覆うとなるとちょっと大変、大工さんに頼まないとなかなかできないが、樹皮を留めるような施工なら、やろうと思えば素人でも出来る。古い民家ほど特別な技術を要せず、素人でも施工できるようになっている。隣近所で協力して造ってきた民家、その素朴さが魅力だ


 


「胎児の世界」

2009-07-24 | A 読書日記



■ 胎児は生命の進化の過程を再演する。

**胎児たちは、あたかも生命の誕生とその進化の筋書きを諳んじているかのごとく、悠久のドラマを瞬時の〝パントマイム〟に凝縮させ、みずから激しく変身しつつこれを演じてみせる。**とこの本の著者、三木成夫氏はまえがきに書いている。

第Ⅱ章「胎児の世界」で著者は「比較発生学」の名でよばれる、学術的な知見によってこのことを実証的に示してみせる。

**胎児は、受胎の日から指折り数えて三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸史を夢のごとくに再現する。**と紹介した上で、受胎32日、34日、36日、38日、40日の頭部顔面を真っ直ぐ正面から写生した図を示す。

32日の図は上陸と降海の二者択一を迫られた古代魚類の時期なんだそうだ。その後胎児の顔が劇的に変化していくことが図によって分かる。1億年分を1週間で再現するのだから劇的な変化は当然か。

第Ⅲ章「いのちの波」 それまでのいわゆる理系的な表現から変わり、詩的なというか、文学的な表現によって生命のリズムについて綴られている。

**こうして生物リズムを代表する食と性の波は、四大リズムを代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、そこにはいわゆる生と無性の違いこそあれ、両者は完全に融け合って、一つの大きなハーモニーをかもし出す。まさに「宇宙交響」の名にふさわしいものであろう。** とまあこんな調子に。

ところで、学術的な研究は対象領域を狭く限定し、その中で深く掘り下げることで成果を挙げてきた、といっていいとは思う。でも、領域を狭くしてしまうことで見えなくなってしまう事柄も当然あるとよく指摘される。

木を見て森を見ず、木をどんなに詳細に観察してもそこから森の姿を知ることは出来ない・・・。病気に罹った臓器だけを詳細に診ても患者を診察したことにはならない・・・。

この本の著者の三木さんは、ただ木を見るだけでなく何歩も後退して森を見、さらに後退して海も見、同時に宇宙をも見た研究者だったと思う。そのような総合的な視点、というか、神の視点をもてたからこそ、生命の進化という悠久の流れを胎児の成長に見ることが出来たのだろう。

私が抱いているイメージの中公新書らしからぬ一冊、久しぶりにわくわくしながらの読書だった。



 


まちとしょ テラソ 2

2009-07-22 | A あれこれ



 外壁は同じ設計者による茅野市民館と同様、縦長の壁面とガラス面を交互に繰り返して構成している(前稿の写真参照)。

さて、再度特徴的な屋根についてだが、このような曲面を構成するのは難しい。鉄筋コンクリート造と鉄骨造、どちらも設計も大変だが、施工も大変だ。ちなみにこの図書館は鉄骨造。仕上げは金属板(材質は分からない)の一文字葺き。このもっこり屋根のてっぺんあたりは水仕舞が出来るんだろうか。用心深く下地の段階でもきちんと防水しているだろう。

ところで図書館は蔵書の全貌が一度に見渡せることが望ましい、と私は思う。「知の総体」に身を置きたいという欲求を満たしてくれる空間。そこで思い出すのが、アスプルンド設計のストックホルムの図書館だ(関心のある方は「アスプルンド」と「図書館」の2語で検索してみて下さい)


調べてみると小布施のこの図書館は床面積が約1,000㎡、屋根の形そのままの天井を杉の角材で仕上げている。 樹をモチーフにしたと思われる何本かの「枝付き鋼管柱」が立っているだけで、内部を仕切る壁は無い。前述の意味でなかなか好ましい空間だ。

今回はちょっと立ち寄っただけ、次回は内部空間をじっくり体験したい。


 


まちとしょ テラソ

2009-07-22 | A あれこれ



■ 先日小布施町に新しい図書館「まちとしょ テラソ」が開館したことを新聞で知った。設計者はプロポーザルで選ばれた古谷誠章さん。二次選考には伊東豊雄さんや、隈研吾さんも残ったそうだ。公開で行われたというプレゼンテーション、見たかった・・・。

この図書館の外観の特徴は手のひらで水を受ける時の形、それを伏せたような屋根。里山をイメージしているのだとか。もう少し引いて遠くから写真を撮ればそのもっこリした屋根の様子がきちんと写ったかと思う、残念。

今回は以上で、続きは次回。


 


cafe matka

2009-07-20 | A あれこれ



■ matka フィンランド語で「旅」という意味だとオーナーから聞きました。

柿渋を5回も塗って仕上げた板張りの床、珪藻土仕上げの壁、既存の仕上げを一部撤去、梁を見せた天井。これらの内装工事はオーナー自らの手によるとのことです。手づくりのザックリとした雰囲気の空間、ゆったりとした気持ちになりました。

このカフェのことは日曜日の午後によく行くカフェ・シュトラッセで知りました。ショップカードが置いてありましたから。



野菜カレー。せいろうで蒸した野菜! 玄米と白米をブレンドして炊いたライス。やや辛めのカレー、とても美味です。

食後にコーヒーを注文。豆は
カフェ・シュトラッセのオリジナルブレンド(←クリック)、ここでしか味わうことができません。

店内に小さな書棚があって、川上弘美の文庫が並んでいました。川上ファンとしてはうれしいかぎりです。

閉店時間は午後6時とちょっと早めです。これからは土曜の夕方にでも出かけるつもり。読書空間が松本市内でも見つかりました