透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

265枚目 写真家の高橋侑也さん

2024-11-30 | C 名刺 今日の1枚


 写真家の高橋裕也さんは今年2024年の4月からほぼ毎月1回東京から長野県朝日村のBLUE HOUSE STUDIOへ通い、1週間くらい同スタジオに宿泊して、鎖川を始め村内の「水」の諸相を撮り続けてる。

高橋さんのことを紹介する新聞記事(11月8日付MGプレス)を読んで、高橋さんが朝日村をどのように捉え、どのような写真を撮っているのか、是非知りたいと思った。アポを取り、25日の午後、同スタジオに高橋さんを訪ねた。高橋さんと名刺交換、渡したのは265枚目の名刺だった。

堰堤を流れ落ちる水、用水路の泥上げ作業をする村びと、稲の苗、水神様・・・。高橋さんが村内のあちこちで撮影した「水」のモノクロ写真を何枚も見せてもらった。人の情報の匙加減が難しい、と高橋さん。

「純粋に美しい写真ももちろんあるけれど、水という「もの」を写して、その背後の「こと」をどう表現するか、ということが課題ですよね」とわたしは2時間近くに及んだ写真談議を括り、エールを送った。

来年2025年の5月に写真集を出版したい、7月に同スタジオで個展を開きたいとのこと。楽しみに待ちたい。







264枚目@講演会場

2024-11-29 | C 名刺 今日の1枚

 松本市のあがたの森文化会館で「現代住宅のルーツとしての『文化住宅』」という演題の講演が24日にあり、聴講した。講師は神奈川大学の特任教授・内田青蔵さん。

講演会場の受付で声をかけられた。
「火の見櫓の・・・」
「あれ、ぼくのことをどうして知ってるんだろう・・・」
「YNです」と自己紹介されて、分かった。
YNさんはマスクをしていたし、もう何年も会っていなかったので、分からなかった。
講演開始まで時間があったので、建築談議をした。

名刺を交換した。YNさんに渡したのは264枚目の名刺だった。
改めて建築談議をしたいな。まあ、その機会もあるだろう。


 


「水辺の環境学」「続・水辺の環境学」

2024-11-27 | A 読書日記


『水辺の環境学 生きものとの共存』『続・水辺の環境学 再生への道をさぐる』桜井善雄(新日本出版社1991年、1994年)

 友人のIT君から借りた上掲本2冊を読んだ。ともに30年も前に出版された本。水辺の環境保全の必要性を論じている。

そのころは治水という観点のみから河川改修が盛んに行われ、水辺の環境が大きく変わってしまうという結果を招いていた。著者はそのような状況を各地に取材し、環境保全という観点から課題を指摘している。そして、その解決策について、先進国であるドイツなどの事例を紹介している。

例えば「ブランケット」と呼ばれる河川改修について、著者は次のように紹介している。**ブランケットの造成は、漏水防止には有効な工法の一つであるし、また造成された平坦な高水敷は、野球グラウンド、公園、ゴルフ練習場などにも利用できる。しかし一方で、このような工法は、河岸帯の自然環境を広い範囲にわたって犠牲にすることも事実である。(後略)**(106頁)

これは長良川の下流域の事例。かつてここにはヨシやヤナギ類などの植物群落があり、付近の浅瀬には多種の水生植物の生育も確認され、魚類や野鳥たちの生活・繁殖の場所になっていたという。

『続・水辺の環境学』はサブタイトルが「再生への道をさぐる」となっている通り、環境保全を考慮せずに行われた治水のための河川改修によって失われた水辺の環境を取り戻すために、再び行われた河川改修事例の紹介。

治水から利水、そして環境保全へと大きく変化してきた河川の捉え方。今現在、どのように論じられているのか、勉強してみたい。


この辺で切り上げて、本を読まなきゃ。


安部公房の「砂の女」を読む

2024-11-26 | A 読書日記


 安部公房の『砂の女』(新潮文庫)の発行は1981年2月25日。この頃も安部公房を読んでいたから直後の1981年3月2日に買い求めて読んでいる。このブログを検索して、2008年12月、2020年12月にも読んでいることが分かった。ブログを始めた2006年より前にも読んでいると思う。

人間の存在を根拠づけるのもは何か、人間は何を以って存在していると言うことができるのか・・・。人間の存在の条件とは? 安部公房はこの哲学的で根源的な問いについて思索し続けた作家だったと、『箱』の読後に書いたが(2024.05.29)、『砂の女』にもこのまま当て嵌まる。

砂浜へ昆虫採集に出かけた男が、砂丘の大きな窪みの底の一軒家に閉じ込められる。脱出を試みる男と、男を引き留めておこうとするその家で暮らす女。蟻地獄的状況。最後に、男は脱出可能な状況になるが、脱出せずに女とともに留まる。その結果、男は失踪者となる。

この小説の最後のページに主人公の男・仁木順平を失踪者とするという審判結果が表示されている。奥さんの失踪宣告の申立に対する家庭裁判所の審判だ。

**(前略)不在者は昭和30年8月18日以来7年以上生死が分からないものと認め、(後略)(230頁)** 7年以上生死が分からないと死亡したものとみなされる。仁木順平は自らの意志で砂の穴の底の家で生きているのに。この小説のテーマがここに象徴的に示されている。

小説ではそのプロセスが描かれているが、なるほど、ありかもなと思わせ、説得力がある。安部公房の作品の中では読みやすい。


新潮文庫23冊 (戯曲作品は手元にない。再読した作品を赤色表示する。*印の作品は絶版)今年(2024年)中に読み終えるという計画で3月にスタートした安部公房作品再読。11月25日現在19冊読了。あと4冊!

新潮文庫に収録されている安部公房作品( 発行順)

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月 ※1 

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月


※1 『死に急ぐ鯨たち』は「もぐら日記」を加えて2024年8月に復刊された。



諏訪市小和田の火の見櫓

2024-11-25 | A 火の見櫓っておもしろい

 八剱神社(諏訪大社上社摂社)は諏訪湖御神渡神事を執り行うことで知られている。この神社の前に火の見櫓が立っていることをしばらく前に知った。それ以来行きたいと思っていたが、多忙で・・・(と言い訳)。ようやく一昨日(22日)行くことができた。


1527 諏訪市小和田 444型トラス脚 2024.11.22


あまり撮らないアングル

見張り台の高さは9~10mくらいあるかと思われるが、途中に踊り場を設けておらず、1本の梯子を直登するようになっている。


がっちりつくられた反りの強い屋根。程よい大きさの蕨手。屋根の中心から吊り下げられたつるりんちょな半鐘。

見張り台の手すりの外側にぐるっと設置された横材(バー)は消火ホースを掛けるためだろう。一部下方に曲がっていることからそう判断した。横材の設置位置が見張り台の高さの推定値が妥当であることを裏付ける。見た目には無い方が好ましいが、必要なものだから仕方ない。スピーカーやサイレンが設置されていないのは好ましい。


トラス脚の正面だけ上部をアーチ部材で繋いでいる。お迎えゲート的なことを意図したデザインだと思われるが、構造的にも好ましい。4面すべてにアーチ部材を取り付ければ尚好かった。

消防信号板を脚に取り付けてある。何回も書くが、これは見張り台に取り付けて信号を見ながら半鐘を叩けるようにするのか好いと思うが、なぜかそうしてあることは少ない。なぜだろう・・・





火の見櫓のビフォーアフター

2024-11-24 | A 火の見櫓っておもしろい




Before 2012.07.14




After 2024.11.22(再)辰野町平出 444型複合脚(正面開放他面交叉ブレース)

 岡谷市の川岸から県道14号で辰野町へ向かう。辰野町平出に立っているこの火の見櫓、今から12年前の2012年に見た時と屋根が替わっていた。火の見が跨いでいる倉庫も更新されていた。

屋根を修復した事例や屋根を撤去してしまった事例は知っているが、屋根をつくり替えた火の見櫓をみたのは、たぶん初めて。こんなことがあるんだ! びっくり。


更新後の屋根と櫓とのミスマッチ感、デザインはトータリティだということがよく分かる事例だ。


岡谷市川岸西の火の見櫓

2024-11-23 | A 火の見櫓っておもしろい

 岡谷市の川岸は諏訪湖から流れ下る天竜川の両側に形成された河岸段丘に集落が連なるところ。川岸西地区にまだ見ていない火の見櫓があることをひのみくらぶ会員の投稿で最近知った。

以下のような予定を立てて昨日(22日)実行した。まず岡谷市川岸西の火の見櫓を見る。それから辰野町を通って伊那市高遠町へ行き、火の見亭でラーメンを食べる。その後、茅野へ出て、久しぶりに大麦小麦へ行く。それから諏訪市でまだ見ていない火の見櫓を見て帰る。以上で一日要し、走行距離は約130kmだった。


1526 岡谷市川岸西 3〇無型 脚は判断し難く・・・2024.11.22


写真で分かる通り、火の見櫓は集落内のかなり狭い生活道路脇に立っている。


この火の見櫓は河岸段丘の地形を利用した「高さかせぎ」といえる。なかなか好いロケーションだ。



土地に高低差があるために、こんなアングルの写真を撮ることができた。

柱3本の櫓。正面に梯子を外付けしてある。正面の垂直構面にはブレースが設置してない。他の2構面には片掛ブレースが設置してある。変則的な構成の櫓だ。屋根は陣笠。下地組を確認しなかった・・・。


この脚の分類、どうしようか。複合脚。道路側の正面は斜材が入っていない。残り2面は短い脚だがタイプとしてはロング3角脚とするか・・・。なんとも判断が難しい。



実はこの火の見櫓を見る前にもう1基見たが、なんとなく前に見たような気がするなぁと思った。帰宅して確認すると、既に見ていた(過去ログ)。


 


火の見亭という名のラーメン屋の隣に火の見櫓

2024-11-23 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)伊那市高遠町西高遠 444型トラス脚 2024.11.22

 ①  
①2018.10.06撮影  ②2024.11.22撮影

 伊那の高遠に火の見亭という名前のラーメン店があり、昨日(22日)に行ってきたことは前稿で書いた。火の見亭の隣に立っている火の見櫓は既に2018年10月6日に見ている(写真①)。昨日も6年前と変わらぬ姿で立っていた(写真②)。 店主によると、2年ほど前にこの火の見櫓を撤去するという話もあったという。ヤバ。

改めてこの火の見櫓を見る。


反りのついた方形(ほうぎょう)の屋根のてっぺんの避雷針には存在感たっぷりな飾りがついている。蕨手はついていない。表面がつるりんちょな半鐘。見張り台は四隅を大きく隅切りした4角形(純粋に幾何学的にみれは8角形だが)で、二股の方杖を角に突いている。床にはU形の開口。その上部に同形の手すりがある。安全上の配慮だ。梯子を床面から突き出して上まで伸ばしている。これは上り下りしやすいようにという配慮。手すり子は縦しげで飾りなし。


外付け梯子から櫓内へ入る開口部廻りのデザインに注目。逆U形の開口部の両側に飾りがついている。見張り台には無いけれど。梯子の支柱を開高の縦枠に留めるために上部の幅を広げている。そのカーブが手工芸的で好ましい。小屋根の下の半鐘は乳や帯付きの鋳造品。二つの半鐘が撤去されずにあるのは嬉しい。


トラス脚に消防信号板が設置されている。脚の直上の横架材に施工した会社が分かる銘板が設置されていた。昼時が過ぎてお客さんがいなかったので、店主に半鐘の叩き方を説明した。「東京スカイツリーより東京タワーが好きだ」と店主。私も同じ。

来年(2025年)の桜の季節にまた来よう・・・。


 


名刺 最近の3枚

2024-11-23 | C 名刺 今日の1枚

 もうどのくらい前のことだろう。メディア関係の方と名刺交換をする機会があった。その時お渡ししたのは261枚目の名刺だった。
11月18日、塩尻市の宗賀支所で旧洗馬学校の模型を見せていただいた(過去ログ)。その時、宗賀支所長と名刺交換した。お渡ししたのは262枚目の名刺だった。

伊那市高遠町に「火の見亭」という名前のラーメン屋さんがあることをしばらく前にひのみちゃんから教えてもらっていた。その店は火の見櫓の隣にあるとのこと。ぜひ行きたいと思っていたが、今までなかなか時間が取れなかった。ようやく昨日(22日)出かけることができた。

名刺に火の見ヤグラーとあることを示し、「火の見亭」という名前が気になって来店したことを店主に告げた。ご夫婦で営む店。店主に伺うと、以前八王子で香味屋という名前の店を営んでおられたという。この店のオープンは2022年6月。奥さんがフランス出身で、エッフェル亭という名前も候補にあったとのこと。仮にその店名になっていたら、たぶん訪れることはなかっただろう・・・。店主にお渡ししたのは263枚目の名刺だった。


のれんに「火の見亭  醤油ラーメン」とある。


八王子ラーメン 600円(税込み) 2024.11.22

ストレートの細麺。鳥ガラ、煮干し、鰹節、それにタマネギのスープ。刻みタマネギのトッピング。タマネギの甘みを感じるスープは程好い濃さ。コシのある麵。実に美味いラーメンだ。


数年かけて店主がリフォームを全て自分でしたと聞き、びっくり。大正ロマンな雰囲気の店内。席数はカウンター3席、テーブル席12席、計15席。お客さんがいなくなったところで撮影させていただいた。 


玄関も店主の手による。ステンドグラスが印象的だ。

火の見亭の隣に立っている火の見櫓については稿を改めて書くつもり。


 


アート書評だってさ

2024-11-22 | D 新聞を読んで


 11月6日付朝日新聞朝刊の書評面に掲載された美術家・横尾忠則さんの書評はアメリカの物理学・光科学研究者のグレゴリー・J・グバーの『透明マントのつくり方』(文藝春秋)を取り上げていたが、文章の一部が読めないものだった(写真)。

文章を情報伝達媒体としている(写真や図も使われるが)新聞に、このような書評が掲載されたことに違和感を覚えた。いや全文読めず、内容が分からないのは書評とは言えない、と私は思う。

次の面にQRコードが載っていて、**今回の横尾さんの書評は、朝日新聞デジタルで全文を無料でお読みいただけます。**とあるが、これは逆ではないだろうか。「アート書評」なるものをQRコードで読めるようにして、書評面では全文読めるようにすべきだ。そうでなければ、掲載面が違うと言いたい。朝日新聞にアートに関することを掲載する面があるなら、このアート書評はそこに掲載すべきだ。

読書編集長の弁明文が掲載されている。**「アート書評」は、書評とは文章で書かれるものだという固定観念のようなものを揺さぶる試みだと、私たちは考えています。** 書評を文章で書かずして、空白でもよいというのだろうか・・・。

**横尾さんの型破りな書評から多様な議論が生まれ、**って一体どんな議論が期待できるというのだろうか。きちんと情報提供しない紙面なんて、新聞なんて・・・。

フルコースのフランス料理をオーダーした客にオードブル・スープ・魚料理が順に出されて、次にサラダ・果物・コーヒーが順に出されたとする。肝心の肉料理が出されなかったことについて、シェフからフルコース料理の固定観念のようなもの(って何?)を揺さぶる試みなんです、と説明されて、なるほどと納得して文句を言わない客がいるのもだろうか・・・。


 


ものごとを見るということ

2024-11-21 | A あれこれ

   
 マグカップを真正面から見ているだけでは取っ手があることに気がつかない。上から見ないとカップの平面形が真円であることが分からない。「もの」の形を把握するためにはいくつかの方向から見なければならない。

前から見ると四角形、横から見ると三角形、上から見ると円形に見える。このような立体があるとすればどんな形か。随分昔にベストセラーになった多湖 輝の『頭の体操』(第1集の刊行は1966年)というクイズ本にこのような問題が載っていたことを覚えている。

答えはコーヒードリッパーに似ていて、下の写真のような形から取っ手や底のつば(? 名称が分からない)を取り去った幾何学的な立体。大根を切って答えの形をくってみてくださ~い。

  
このように形が定まっている「もの」でさえ、形をちゃんと理解するためにはあちこちから見ないとダメ。ましてや形のない「こと」については尚更だ。十分な情報開示や説明がなければ状況が把握できない。新聞に時々「十分な情報開示や説明を」といった見出しの記事が載る。


2024.10.23付信濃毎日新聞に掲載された記事の見出し

中途半端だが、この辺りで本稿を終りにする。


 


旧洗馬学校の模型

2024-11-20 | A あれこれ

 国民皆学を目指して1872年(明治5年)に「学制」が公布された。これを受けて、1873年、1874年、1875年に多くの学校が開校している。1874年に開校した塩尻市宗賀小学校(前身は旧洗馬学校)は今年2024年に開校150周年を迎えた。これを記念して地元宗賀地区の住民が旧洗馬学校の模型をつくって寄付したという。その熱意がすばらしい!

宗賀小学校開校150周年記念式典が今月(11月)16日に開催され、模型が公開された、と新聞記事で知った。式典後、模型は宗賀支所で展示されるという。

早速18日に出かけて見せていただいた。模型はまだ倉庫に置かれていた。写真撮影を了解していただき、何枚も撮った。塩尻市の市民地域部 宗賀支所長のNさんが模型のバックに、とグレーの衝立を設置してくださった。


旧洗馬学校復元模型(縮尺1/30)




右側面を見る


裏側を見る グレーの壁面でこの先に続く校舎を省略したことを示している。

この模型製作に関わったかわかみ設計室の川上さんの文章によると、模型をつくるのに必要な資料はわずかだったとのことで、資料を集めたり何度も開智学校を見に行ったりして試行錯誤、復元模型用の図面を描いたとのこと。すばらしい!


小屋組みも表現されている。

Nさんから、模型はケースに入れて宗賀支所の玄関ホールに展示する予定と伺った。

旧洗馬学校は国宝の旧開智学校と同じく立石清重がつくっている(設計・施工)。旧開智学校は木造2階建てだが、模型写真から解る通り、旧洗馬学校は木造3階建てだ。だが、雰囲気が似ていると思う。

より多くの人に見て欲しいなと思って「松本市との共同企画として旧開智学校で一定期間展示したらどうでしょうか」と提案した。川上さんにも話してみよう。


 


朝日小学校 校歌

2024-11-18 | A あれこれ


朝日村HPより転載

 長野県朝日村の朝日小学校は今年2024年開校150周年を迎えた。

朝日小学校の校歌は昭和26年3月1日に制定されたとのことだが、3番の歌詞がすごい。

平和な日本のゆく道をわれらもうたって進もうよ

「うたって」はもちろん歌を歌うというような意味ではなく、謳ってだろう。謳うとは主張するという意味だ。校歌にするということは高らかに宣言するということだ。子どもたちに寄せる期待の大きさが解る。

朝日は民度が高く會津(会津)八一や折口信夫が講演するような村だったのだ。塩尻短歌館通信「短歌のふるさとVOL34(平成20年9月25日)」に掲載された記事は**朝日村が會津八一の学術講演を受容するにふさわしい土地であり、八一の学術的生涯を育てるポイントになったと言えるのではないか。**と結ばれている。

小学校の校歌に「平和な日本のゆく道をわれらもうたって進もうよ」という歌詞があることも、上記のことと無関係ではないように思われる。

いま改めて、研精覃思(けんせいたんし)の意味を考えなければならない。


「研精覃思」と書かれた會津八一の書碑(朝日村中央公民館前庭)