透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

143 飯山の細身の火の見櫓 

2011-02-28 | A 火の見櫓っておもしろい


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飯山の火の見櫓

 細身の(痩身のというべきか)火の見櫓だ。下の写真で半鐘の大きさと比べると三角形の櫓が随分絞り込まれていることが分かる。とにかく細い。見張り台の上で柱に横架材が渡され、ブレースが掛けられているが、このような火の見櫓を初めて見た。

見張り台と比べて屋根が大きく、急勾配なのは雪対策だろう。見張り台に雪が積もっては困る・・・。屋根上の避雷針の先端と矢、蔓のような飾りのデザインとプロポーションがなかなかいい。


写真を提供していただいたTさんに感謝します。 

 


なぜ?

2011-02-27 | A 読書日記



■ ヒトがするデザインには意味のない、つまり特にこれといった役割のないものもある。デザイナーが気まぐれで「なんとなく」するデザイン。意味のあるのがデザインだとすれば、意味の無い気まぐれなデザインはデザインとは言えないのかもしれない・・・。

これに対し、自然(造物主、神)のデザインにはすべて意味がある。ならば、蝶の翅の鱗粉にも意味、役割があるはずだ。それが知りたい。ネットで検索すると、水に濡れないようにするためという答えが出てくる。鱗粉は水をはじくので、雨が降った後でも翅が濡れず、すぐ飛び立つことができるというわけだ。でもそれだけだろうか・・・。

自室の書棚でこんな本を見つけた。2003年3月発行と奥付にあるから、7、8年前に読んだのだろう。この本にもしかしたら先の疑問の答えが出てくるかもしれない。再読してみよう。

ヒトと昆虫とでは可視光線の領域が違っていて、昆虫は紫外領域を感受できる。モンシロチョウの雄と雌の翅はヒトには同じ色に見えるが、彼らには全く違う色に見えている。ヒトにはモンシロチョウの雄雌の区別が視覚的にはつかないが、彼らははっきり区別できている。

著者は雌の翅を花嫁衣装に喩えて、**モンシロチョウの雄を魅了し、交尾行動に駆り立てるものは、雌がまとっているまぼろし色の打ち掛けであることにほとんど疑いありません。**(45頁)と書いている。

その打ち掛けの柄は鱗粉でできているのだ。


**雄が交尾した雌に自分の子を産ませるために編み出した、第二の戦術は驚きに値します。雄はなんと、交尾栓、つまり貞操帯で雌の交尾口を封じるのです。**(134頁)

「家内安全、子孫繁栄」 神様のデザインの意味は全てここに通じている、ということなのであろう・・・。

**しかし、交尾栓の交尾阻止効果は必ずしも完全ではないようです。ギフチョウなどある種のチョウの雄は、前の雄が残した交尾栓を取り除くことがあるからです。(135頁)

やれやれ。 


メモ)
ドイツのカール・フォン・フリッシュは1967年にミツバチが紫外線を感受できることを発見している。その後いくつかの昆虫で同じことが知られるようになった。

まえがきに**本書を中高生と一般の方々を念頭に置いて書き記しました。**とあるが、確かに興味深い内容が平易な表現で分かりやすく書かれている。

「モンシロチョウ キャベツ畑の動物行動学」 小原嘉明/中公新書


― みんなちがってみんなおもしろい

2011-02-26 | A 火の見櫓っておもしろい





■ 昨年の5月に大町市美麻(旧美麻村)で木造の火の見櫓を見て、火の見櫓っておもしろそうだと思った(上左)。いきなりレアな木造の火の見櫓を見てしまったものだから、以後病みつきになった・・・。とはいえ今まで火の見櫓観察が目的で遠くまで出かけることはなかった。だが、上中の火の見櫓(茅野市)と、飛騨高山の登録有形文化財に指定されている火の見櫓はわざわざ見に出かけた。

茅野市の火の見櫓(上中)は生活道路を跨いで立っていて、時々車が櫓の下を通っている。写真は軽トラックが通っている様子を撮ったものだ。

上右は穂高神社の近くに立っている火の見櫓で、櫓の中間に方丈くらいの大きさの小屋がある。黒四ダムの砕石場に監視塔として立っていたものを譲り受けたものだそうだ。

中左は蔵の屋根の望楼。須坂市内で見かけた。

中右は恵那市明智(旧明智町)の大正村で見かけた梯子状の火の見櫓。櫓とは立体構造を成すものだと思う。従って梯子状のものや、1本脚の火の見を「櫓」と呼称することには抵抗がないわけではないが・・・。昔はこのような簡易な木製の火の見櫓が多かったのだろう。

戦後まもなく施行された消防団令により全国で消防団が組織される。それに伴って昭和20年代後半から30年代半ばにかけて現存する火の見櫓の多くがつくられる。

下右の火の見櫓と倉庫の取り合い。脚が倉庫の屋根を貫通して、1本は外壁から突き出ている。火の見櫓が先に出来たのか、それとも倉庫が先か・・・。この火の見櫓は原村で見かけた。

鉄という素材のみの火の見櫓。素朴で衒いのない造形に惹かれ、この1年、長野県内各地の火の見櫓を見てきた。火の見櫓のデザインは実に多様だ。  

火の見櫓、みんなちがってみんなおもしろい!


 


民家 昔の記録

2011-02-21 | A あれこれ



■ 久しぶりの「民家 昔の記録」 今回は松本中町蔵造りのカレー屋さん。

観光ガイドブックに必ず載っているカレー屋さん。この写真は30年前、81年8月の撮影だが、今は当時とは様子が違う。電線が地下に埋設されていて、電柱は無いしこの街灯も撤去されている。

蔵も後方半分(ちょうど人が写っている辺りから後方)が撤去され、ビルが建っている。先日この写真を見ていて、この頃とは様子が違うことに気がついた。

今現在の様子を写真に撮って並べてみよう・・・。


水玉バス

2011-02-21 | B 繰り返しの美学


 
 草間彌生といえば水玉。

松本出身の前衛芸術家・草間彌生がデザインした「水玉バス」が昨年の12月から松本市街地を走っている。今日(18日)、1台しかない水玉バスに遭遇した。なんだか得した気分になった。この週末何かいいことがあるかも知れない・・・。


繰り返しの美学の基本は全く同じ要素の直線的で等間隔な繰り返し、それも建築構成要素の繰り返しだが対象を建築以外に、そして平面的な繰り返しにまで広げている。

この水玉バスは大きさは異なるが、色と形が同じデザイン要素のを平面的に繰り返している。但し繰り返しに数理的な規則性はない。あるのは前衛芸術家の感性だ。

水玉バス これも繰り返しの美学なデザイン。




水玉自販機@松本市美術館


142 骨太

2011-02-20 | A 火の見櫓っておもしろい


142 松本市北深志(安原町)の火の見櫓 110220



 先週この火の見櫓の前を車で通りかかった。そのとき随分存在感のある火の見櫓だなと思った。今日(20日)の昼過ぎ改めて観察にでかけた。

櫓を構成する等辺山形鋼(L形の鋼材)の寸法(辺の長さ)を計ると10cmあった。存在感がある、と感じた理由は鋼材のサイズにあったのだ。ブレースにも丸鋼ではなく、アングルが使われていることもその一因だろう。自宅のすぐ近くにある火の見櫓の鋼材の寸法は5cm、この火の見櫓は「骨太」と言っていい。

櫓は上方に向かって直線的に絞られているし屋根は飾りっけ無しの四角錘、見張り台の手すりも直線で構成されていて、堅いという印象を受ける。見張り台も踊り場も床には鋼板が張られている。

地域の人たちはこの男性的な火の見櫓を頼もしく感じているだろう・・・。


 


「江戸の紀行文」

2011-02-19 | A 読書日記



 江戸時代の紀行文といえば松尾芭蕉の『おくのほそ道』。

江戸時代の紀行文、なぜか教科書では『おくのほそ道』以外の作品はほとんど取り上げられていないようだ。「江戸時代の紀行文を挙げよ」と言われても他の作品が出てこない・・・。で、一体どんな紀行文が書かれていたのか知りたくてこの新書を読み始めた。

今はデジカメ持参で旅行に出かけ、旅行先で得た情報を文章にして、撮った写真とともにブログに載せる、ということをする人が多いが、江戸時代の旅人も筆記用具を携帯して旅先で見聞きした情報や詠んだ和歌などを記録し、帰宅してから紀行文にまとめていたようだ。

**徳川の世は泰平。人びとはどこへでも旅ができる喜びを実感する。(中略)好奇心いっぱいの殿様の旅、国学者のお花見、巡検使同行の蝦夷見聞などを通して、本書は江戸の紀行文の全体像を浮かび上がらせるものである。**(カバー折り返しの紹介文より引用)

今週末はこの本で、江戸の紀行文を読もう(もちろん現代語訳付き)。


路上観察

2011-02-14 | A あれこれ



■ 路上観察 外壁の下見板張り    松本市内にて 110214

板一枚のプリィミティブな小庇、瓦の組棟が渋い。開口部の幅は押縁のピッチの倍数に、高さは板巾の倍数に寸法が調整されている。このようなモジュラーコーディネーションは日本の伝統的な構法(工法とは本来意味が違う)では当たり前。日本の建築文化のすばらしいところだ。因みに寸法は押縁(簓子)の見付が30でピッチは450、板巾は210だった。1階の建具が木製ではなくアルミサッシになってしまっているのは残念だが仕方がない。


「成熟と喪失」江藤 淳

2011-02-13 | A 読書日記



■ 副題の〝〟付きの母とは何か。本文から何箇所か引用することでその輪郭が浮かび上がってくるだろう・・・。

**「母」が「家」に結びついているかぎり、「子」は「家」を出て東京に行き、「近代」に触れて「個人」というものに出世したと感じることができた。「母」は帰るべき場所であり、感受性の源泉であり、(後略)**75頁

**『抱擁家族』の作者が描こうとしているのは、だから「娼婦」に変容した「母」の美ではなくて、「人工」の浸透によって崩壊して行く「母」の肉体である。(中略)しかし私はむしろそこに、日露戦争後の日本の社会心理の源泉にひそむ不安をとらえていた、作者の感受性の鋭さを見たいような気がする。つまりそれは農耕社会から近代産業社会への移行を開始した時代に、はじめて日本の都会生活者の心理に生じた不安の美的反映とでもいうべきものである。**100頁 

**しかし占領が法的に終結したとき、日本人にはもう「父」はどこにもいなかった。そこには超越的なもの、「天」にかわるべきものはまったく不在であった。(中略)この過程はまさしく農耕社会の「自然」=「母性」が、「置き去りにされた」者の不安と恥辱感から懸命に破壊されたのと表裏一体をなしている。先ほどいったように、今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。**140頁 

このような「不安の時代、困難な時代」をどう生きる・・・。 

**しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかも知れない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、(中略)彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯えつづけなければならないのかも知れない。**227頁

この文芸評論で江藤は、農耕文化に由来する「母」という精神的支えというか殻を近代化社会への移行過程で喪失した日本人(の男)は、家族や社会を秩序だてる、あるいは後ろ盾となる「父」という制度も戦後失った・・・。まず、この現実を直視せよ、と指摘しているのだ。

そうして結論付ける。

**だが近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきりと見定めることができ、「個人」であることを余議なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかもしれない。**227~228頁

ようやく30年ぶりの再読を終えた・・・。

注)下線部は本文では傍点。
  頁は昭和53年8月15日発行の講談社文庫のものを示す。





「美の世界遍歴」

2011-02-13 | A あれこれ

 昨日(12日)の午後、松本市美術館で行われた柳沢孝彦氏の講演「美の世界遍歴 PARTⅡ」を聴いた。

建築とそれに通底する絵画などの芸術作品を氏の視点で選び、両者を並置させて、デザインの意図、意義を解説するという興味深い内容だった。例えば、信州塩田平の大法寺の三重塔(国宝)にはジャコメッティの細長い立像を対応させ、立ち姿の美を語るというように。

以下、備忘録。

□建築と絵画
・本棟造りの屋根(塩尻の堀内家)とカンディンスキー:切断面のデザイン
・フィレンツエの屋根:市民の芸術への深い認識
・パリの屋根と浜口陽三のメゾチント作品:整然とした秩序
・広島の原爆ドームとピカソのゲルニカ:むき出しになった破壊の痕跡と戦争の悲惨さに対する怒り
・メトロポリタン美術館の借景(セントラル・パークの緑)とサルバドール・ダリの作品における引用

・プラハ国立劇場のスペクタル:空間と時間の往来
・高台寺の茶室(傘邸)の奇想とセザンヌ
・パンテオンとアルバース:幾何学的造形
・アムステルダムの縦長の窓とフェルメールの「牛乳を注ぐ女」
・サンフランシスコのベイウィンドウとデュシャン、草間彌生
・京都の連子格子の家並と北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」
・ドレスデンの壁:屋外に連れ出された絵画
・城下町(松本)の路地:街並みは生活模様
・内子上芳我(かみはが)家の壁とロートレック
・京都の家(町家)の妻壁のデザインと小磯良平

・イタリア・カラーラの壁と佐伯祐三の油絵
・劇場都市ローマの大階段と北斎:祝祭性の演出
・バチカン・ミュージアムのステップとエッシャーのだまし絵:垂直軸、視線の垂直的移動
・パリのオペラ座の階段(舞台の都市への展開)とマルセル・デュシャンの「階段を下りる裸体」(要素への還元と再構成)
・エッフェル塔と鉄:近代を象徴する記念碑

・イカロスの墜落とガウディのサグラダファミリア大聖堂:重力に対するデザイン、バランス
・カラーラの石(大理石)とイサムノグチ:ヨーロッパの石の文化
・ガラスの透過と反射:建築と都市に変化をもたらしたガラス、透過と反射の両義性
・打ち放しコンクリートの力学とジャクソン・ポロック:新しい表現法、生成のプロセス

□作品紹介
・窪田空穂記念館:対面する空穂の生家との視覚的呼応、妻壁のデザイン、影による光の演出
・中川一政美術館:地元産の石材
・郡山市立美術館:ホワイトコンクリート
・東京オペラシティ タケミツメモリアル:親和性の高い木

□メモ
・地勢とは街形成の遺伝子
・川は日本人の感性の象徴

Kさん、こんな内容でした(私の理解不足、誤りがあるかもしれません)。


 


旧三松屋蔵座敷

2011-02-12 | A あれこれ







 旧三松屋の蔵座敷の移築工事が終わり、昨日(11日)から一般公開が始まった。この蔵は重要文化財の旧開智学校を手掛けた立石清重の設計・施工だと新聞記事で知った。

早速見学に出かけた。蔵は2間半×5間の大きさで、1階が和室3室、2階が大きな洋室という構成になっている。この擬洋風建築は一般的な蔵とは外観の趣がかなり違う。

漆喰仕上げの外壁を下見板張りで覆っている。このような手法は珍しくはないが、屋根を寄棟にして外壁4面を軒までそっくり覆っているのはいままで見たことがなかった。出入口には洋風の破風が設えてある。2階の縦長の窓には両開きの鉄扉が付けられ、内側には木製の上げ下げ窓が付けられている。この窓はバランサーを壁の中に仕込んだ優れものだと以前施工者から聞いたと記憶する。

受付で渡されたパンフレットに載っている解体中の内観写真をよく見ると、洋小屋であることが分かる。「洋」は構造にも取り込まれているのだ。この蔵は1894(明治27)年の竣工で、1829年生まれの立石はこの年に亡くなっている。この蔵は遺作なのかもしれない。ちなみに旧開智学校は立石40代半ばの作。



白と黒 蔵の窓

2011-02-12 | A あれこれ

穂高にて 110206

 漆喰細工の名匠といわれた伊豆の長八、本名入江長八。出身地の西伊豆、松崎町に石山修武設計の長八美術館がある。仕上げに漆喰を多用した美術館の施工には全国から腕に自信のある左官職人が集まったという。

漆喰細工の優れた「作品」は全国各地で今でも観ることができる。これは先日安曇野市穂高で見かけた蔵。平側の窓まわりの意匠に注目した。窓上の楣(まぐさ)、窓下の台座に施された漆喰細工、扉裏面のシンプルな意匠。派手過ぎず、地味過ぎず、白と黒が絶妙のバランスで配されていて実に美しい。