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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

塩尻市宗賀日出塩の火の見櫓

2021-02-28 | A 火の見櫓っておもしろい


(再 454)塩尻市宗賀日出塩 3脚66型 撮影日2021.02.27

 JR中央西線の日出塩駅前に立っている火の見櫓。2013年12月以来、約7年ぶりの再訪。櫓の末広がりの整ったフォルムが美しい。2013年に観察した時は梯子の段数と梯子桟のピッチで見張り台の高さを約10メートルと見たか、今回は描けてある消火ホースから、やはり約10メートルと見た。

ちょっと残念なのは屋根。見張り台との大きさに比して少し小さいことと、勾配がなだらか過ぎること。

なだらか過ぎるということは②の写真で分かるが、柱の上端と屋根との取り合いがよく分からない。③の写真だと逆に屋根の立体形状はよく分からないが、柱と屋根との取り合いは分かる。やはり、「何を撮るのか」カメラを向ける時ちゃんと抑えておくべきだ。このことはもう何回も書いたが、どうもこのことが現地ではなかなか実践できない。

見張り台に設置してある箱は何だろう・・・。

火の見櫓の後方に防災行政無線柱が立っていてスピーカーを取り付けてあるし、火の見櫓にもスピーカーが取り付けてある。両者どのように使い分けているのだろう。




 


木曽町日義の火の見櫓

2021-02-28 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)木曽郡木曽町日義(旧日義村) 3無66型 撮影日2021.02.27

 この道路は旧中山道ですぐ近くがその中間地点。この道路に並行して通る国道19号からもこの火の見櫓が見える。近くに道の駅「日義木曽駒高原」がある。

一見して細身と分かる火の見櫓だ。この火の見櫓を初めて観察したのは2012年11月のことだった。当時はまだ火の見櫓のタイプの表記もしていなかった。3無66型となるが、3無とは櫓が3角形(三角形というように漢数字表記が一般的だと思うが、このブログでは算用数字を使っている)で脚が無いタイプであることを示している。しばらく前からこのように表記している。



櫓を脚元から屋根のところまで直線的に逓減させていて、上端では半鐘が辛うじて納まるような細さ。半鐘を強くたたけば柱に当たりそう。6角錘の屋根のてっぺんの避雷針がやけに長い。見張り台の床はすのこ状にしておらず、鋼板張りにしてある。



櫓が細いため、中に梯子が納まらないためだろうか、外付けしている。この梯子を昇り降りするのは怖いと思う。櫓内の梯子の昇り降りでも怖いことを経験上知っている。



脚元の様子。前述したようにこれは脚が無いタイプ。脚があればこの火の見櫓は美形なのに・・・。


 


時間の蓄積

2021-02-27 | A 本が好き 

360

 『箱男』(新潮文庫)を読み終えて、『壁』(新潮文庫)を自室の書棚から取り出した。これも安部公房の作品で1975年に読んでいる。その後この作品を読んだという記憶も記録もないから、45年ぶりに再び読む、ということになる。

用紙の周囲が変色している。このような状態の文庫本を手にするときの気持ちは・・・、温泉宿でちょうど好い湯加減の湯ぶねに身を沈め、「あ~」(*1)と思わず発してしまうような気持ちとでも喩えたらよいだろうか。

このように変色した用紙の細かな活字を読むときのこのような心地よさは、電子本では味わうことができない。本好きはやはり紙の本が好きなのだと思う。


*1 「う~」と「あ~」の中間くらいで濁点付きのような声、かな。


「箱男」再読

2021-02-26 | A 本が好き 

 朝カフェ読書で安部公房の『箱男』(新潮文庫1998年31刷)を読み終えた。この前衛的な小説については2009年にこのブログに次のように書いている。

360

**『砂の女』は要するに人間が存在することとはどういうことなのか、という問いかけだったように思う。最後のページに「不在者仁木順平を失踪者とする」という家庭裁判所の審判書が載っているのが印象的だった。

『箱男』のテーマもこれとそう違いはないのではないか、と思う。箱をかぶることで自己を消し去るという、実験的行為。他者との違いは何に因るのか・・・。他者と入れ替わるということは可能なのか。自己の存在を規定(アイデンティファイ)するものは何か・・・。

表向きはエロティックな小説ではあるが、読者に問うているテーマは難しい・・・。**(過去ログ



以前は上掲したように書いているが、今回は何だか、単なる覗き趣味のおっさんの物語じゃないか、などという感想を持ってしまった。いや、そんなはずはない・・・。やはり僕の脳ミソはかなり劣化している。


 


松本駅お城口のキャノピー

2021-02-23 | B 繰り返しの美学



 松本駅のお城口(東口)のキャノピーに注目。4本のステー(つっかい棒)にワイヤーを張った梁が8本等間隔に並ぶ、繰り返しの美学。上の写真だとすっきりしているが、近くで見ると



こんな様子。下から2番目のステーの通りだけ下端をワイヤーで繋ぎ、両端には斜材を入れている。ガラスをこの構造フレームに直接載せることはできなかったんだろうなぁ。これ以上のスッキリは、無理か・・・。


 


「『2001年宇宙の旅』講義」再読

2021-02-21 | A 本が好き 

    

 アーサー・C・クラークのSF小説『2001年宇宙の旅』はスタンリー・キューブリックによって映画化された。SF映画は好きだが、とりわけ「宇宙もの」が好きでレンタルDVDでよく観る。だが、この映画を超える作品にはまだ出会っていない。SF映画の、いや洋画のベスト1だ。ちなみに邦画では松本清張原作の『砂の器』。

『2001年宇宙の旅』に出てくるモノリスや後半に描かれているボーマン船長の視覚体験については様々な解釈が与えられている。モノリスは人類の進化に関わる造物主(神)の存在を暗示するものだと僕は思っている。また、ボーマン船長が見たのは(同時に僕たちも見ているわけだが、)宇宙の空間旅行ではなく(と敢えて書く)、時間旅行の映像表現だと解釈している。遙か彼方の未来からまだ生命が誕生していない宇宙、というか地球への旅行。現在から未来、未来からいつの間にか過去へつながる時間旅行、そして生命誕生から猿人への進化・・・、そう生命の輪廻。

「『2001年宇宙の旅』講義」巽 孝之(平凡社新書2001年発行!)をまた読み始めた。

この本で著者の巽氏はモノリスについて次のように書いている。**人類は、じつは神ならぬ地球外知性体によってもたらされた石板(モノリス)状の教育装置の力で、四〇〇万年前(小説版では三〇〇万年前)に猿人だった時代より密かに誘導されてきた。**(14頁)

また、後半ボーマン船長の視覚体験については**これまで映画版『2001年』後半の万華鏡的シークエンス(*1)が、じつはよくいわれるような麻薬幻想でもなければ超絶体験でもなく、たんにモノリスという名のもうひとつのコンピュータ・マトリックスがボーマンという人間を素材にその生体情報をカットアップ/リミックス/サンプリングしているシーンにほかならないことが了解されよう。**(63頁)と書いている。

*1 引用者である僕の注:ソリッドで金属的なシーンは、超未来へと進む視覚的表現として、その後に出てくるシーンは非常に有機的で柔らかく、生命誕生前の水中のようなイメージとして僕は観る。

この本を読み終えたらクラークの原作を読もう。映画も観よう。


昨年の5月に文庫本の大半を処分した。僕が残したSF作品はこれだけ。アーサー・C・クラークの作品では『2001年宇宙の旅』1冊のみ。






繰り返しの美学

2021-02-21 | B 繰り返しの美学

 建築の構成要素そのもののデザインには特にこれといった特徴が無くても、それを直線的に、そして等間隔にいくつも配置すると、「あ、美しいな」とか、「整っていて気持ちがいいな」とか、そういった感情を抱く。このような経験は私だけの個人的なものではないだろう・・・。シンプルなルールによって、ものが秩序づけられた状態・様子を脳が歓迎しているのだ。建築構成要素を直線状に等間隔に並べるとそこに秩序が生まれ、それを美しいと感じる。このことを「繰り返しの美学」と称して時々ブログに取り上げてきた。

このように書いて国宝の旧開智学校の屋根棟を載せたのが2019年の6月のことだったから、1年半以上間が空いたことになる。



久しぶりに取り上げる繰り返しの美学は長野県生坂村の道の駅「いくさかの郷」のトイレ棟。トイレ棟の全形が分かる写真を撮るべきだったと反省。床面の誘導ブロックの状況からトイレの入口前の通路の様子であること、入口が3か所あることが分かる。

トイレ棟の屋根は切妻形状で通路まで伸ばしている。今回は通路部分の構造フレームに注目する。

木造の場合、伝統的な構法では柱、軒桁、梁の納め方に
京呂組と折置組というふたつの方法がある。在来工法(構法)は柱の上に桁を通し、桁に梁を掛けるのが一般的で、これは京呂組に近い組み方だ(桁と梁の天端の高さ関係に相違がある)。

このトイレ棟の軒回りの構造材の取り合いを見ると、柱と登り梁を一体に組んでできるフレームの間に桁、いやつなぎ梁(とした方が好ましい)を入れている。 きちんと観察してこなかったのはうかつだったが、梁には集成材を使っていたように思う。大断面集成材を構造部材として使う場合には在来木造とは異なり、鉄骨造のフレームと同じ扱いをすることが少なくない。このトイレ棟も同様に扱っているのかもしれない。

このように分析的な観察をすることが目的ではない。柱と梁が一体になったフレームが等間隔に並んでいるなあ、美しいなあ・・・。ただそれだけのこと。


 


「濹東綺譚」再読

2021-02-19 | A 本が好き 

320

 朝カフェ読書。永井荷風の代表作『濹東綺譚』を読み始める。黄色のテープ、40代に読んだ本。随分久しぶりの再読だ。

昭和12年(1937年)に発表された作品。モデルは荷風自身と思われる小説家の大江 匡と私娼のお雪との出会いから別れまで。現代だと小説として成立するかどうか、起伏に乏しいふたりの情交が静かに描かれる。

このような小説を文庫で、それも岩波文庫で読むのもいいものだ。今の文庫本は活字が大きくて読みやすいが、本好きの私は細かい活字びっしりの昔の文庫本の方が好き。読んでいるという実感!


 


「脳は、なぜあなたをだますのか」

2021-02-16 | A 本が好き 

320

 **みなさんは数多ある本の中から、この本を手に取って下さった。その行為は、みなさんの意志によるものだろうか。それとも、環境から受けた刺激の帰結として、必然的にこの本を手に取ったのだろうか。**

『脳は、なぜあなたをだますのか――知覚心理学入門』妹尾武治(ちくま新書2016年)はこの問いかけで始まる。

ぼくはもちろん自分の意志でこの本を書店で棚から取り出して買い求めた。だが、答えはなんと、後者。環境からの刺激が必然的にこの本を取らせたと考える方が正しいようだと書いてある。意志というものはただの錯覚に過ぎないのだそうだ。釈然としない・・・。

具体的な実験内容はここには書かないが、例えばハトがピカソとモネの絵を判別することができることを明らかにした実験。例えば人は男女を問わず、自分の顔をより魅力的な方向に歪ませて記憶していることを示す実験、等々。いくつも興味深い実験が紹介されている。

どうも脳は「任せておきなさい、悪いようにはしないから」と私を説き伏せて、勝手(?)に振る舞っているようなのだ。


注意資源 二重課題 アンカリング効果


コンコルドの誤謬

2021-02-15 | A あれこれ考える

「コンコルドの誤謬」という記事を昔(2009.10.15)書いた。以下、それをもとに書いた新たな記事。

コンコルドは英仏両国で開発した超音速旅客機。開発の途中で採算が合わないと分かったが、巨費を投じたので、いまさらやめればすべてが無駄になるということで続行したプロジェクト。このような誤りを「コンコルドの誤謬」と難しくいう。

「リニア中央新幹線」は既に工事が始まっているが、本当に必要なんだろうか・・・。必要だからつくる、というわけではなくて、技術的に可能だからつくるというだけのことではないのか。

東京―大阪間を1時間ちょっとで結んだとしても、その前後の交通事情が改善されない限り、東海道新幹線を利用する場合と目的地までの所用時間はそれほど変わりないだろうに。このようにトータルな交通システムを考えればその一部を構成するだけのリニア中央新幹線の効果はずっと減るような気がする(*1)。

どう考えてもこのプロジェクトは「コンコルドの誤謬」の代表的な事例といずれいわれるようになるような気がする。いや、この手の誤りは「コンコルドの誤謬」に替わって、「リニア新幹線の誤謬」などといわれるようになったりして・・・。

『東京裏返し』には経済的な成長の時代から成熟の時代に転換した社会おいて、より速くの交通システムからスローモビリティ、具体的には13、14キロの速さのトラムや水上交通の整備への転換が説かれている。

東京裏返しは日本裏返しに通ず。

リニア中央新幹線の東京大阪間が開業するのは20年くらい先の見込み、そのころ今以上に急いで移動する「必要」がある社会になっているだろうか。個々人の仕事や生活に関する考え方も変わっていくだろう。社会も経済優先から生活優先へと変わるだろう。

もっと速く社会からもっとゆっくり社会への転換。「狭い日本 そんなに急いでどこへ行く」 20年後、リニア中央新幹線は時代のニーズに全く合わくなってしまっているかもしれない。


*1 関連記事(過去ログ


屋根の支え方

2021-02-14 | A 火の見櫓っておもしろい



 この火の見櫓は先日、信越放送(SBC)の「ずくだせテレビ」で紹介された。収録時にあまりきちんと観察していなかったことに気がついて、放送後に改めて出かけて観察してきた。このことは既にこのブログにも書いた(過去ログ)。

今日(14日)改めて撮影した写真を見て気がついたことがある。それは屋根の支え方。





櫓の頂部で3本の柱を水平部材で繋いでできる3角形と屋根下地の3角形(6角錘の屋根の6本の稜部分の補強下地をひとつおきに繋いでできる3角形)をちょうど重なるようにして、それぞれの3角形の三隅(3つの頂点)に火打を入れ、上下の火打を丸鋼の短い束で繋いでいる(黄色い○で囲ったか所の説明をしたいのだが、どうも簡潔に書けない)。②の写真の方が分かりやすいが、屋根と櫓の頂部を直接接合しないで、細い丸鋼を介して接合している。だから屋根が浮いているように見える。このことは先日書いたときには全く気がついていなかった。はやり見ているのに脳が気がつかない、認識しないことってあるんだなぁ。


 


『東京裏返し』

2021-02-14 | A 本が好き 

 この国の街並みの魅力を考える時はこの混沌とした状態を前提とせざるを得ない。ならば、せめて大正から昭和初期、戦前、そして戦後まもなく建てられた古い建築も共存する、つまり何層かの歴史の重なりが見られるような街並みに、魅力を見出そうという考え方があるのではないか。このことを「歴史の重層性にある街並みの魅力」と表現した、という次第。

以上2009年10月6日にブログに書いた記事(過去ログ)後半の再掲。




昨日(13日)一気読みした『東京裏返し』吉見俊哉(集英社 2020年)のサブタイトルは「社会学的街歩きガイド」だが、よくあるような単なる街歩きのガイド本ではない。「街歩きを通して東京の再生を考える」とでもしたほうが内容を的確に表現している、と思う。

私は歴史の重層性が街並みの魅力に欠かせない条件のひとつに挙げられると考えていて、上掲した記事を書いた。『東京裏返し』を読んで著者の吉見俊哉教授の考え方に大いに共感した。

吉見教授は凹凸地形にある都市は異なる「時間層」の痕跡が消えることなく残るとし、武蔵野台地の東端に位置し、大小の川によって形成された複雑な凹凸地形の東京には過去の時間層の痕跡が完全に消えることなく今でも残っていると指摘する。

時間層。吉見教授は東京には四つの大きな時間層があるという。自然地形の上に村や町が出来ていた江戸以前の時間層、家康によって自然が大改造された江戸の層、明治維新のなかで薩長によって行われた東京の層、終戦直後の米軍の占領とそれから続く高度成長期、1964年開催のオリンピックのために改造された東京の層。このようなざっくりとした捉え方、ぼくは大好きだ。

吉見教授はなぜ東京を裏返すことを提言するのか・・・。

「成長」の時代から「成熟」の時代へという歴史の大転換のなかにあって、目指すべきは「より速く」から「よりゆっくりと」、「高く」から「低く」。で、吉見教授は東京を裏返して**現代東京の表層下に生き続けている過去の資産を蘇らせよう**(24頁)と提言する。

路面電車、荒川線の延伸・環状化によるスローモビリティの都心での復活という具体的な構想が示される。スローモビリティは単なる移動手段ではなく、さまざまな文化的、商業的価値に光を当てるメディア的機能を持っていると吉見教授は指摘する。なるほど、確かに。地下鉄だと外の景色は全く見えないし、山手線の電車は速すぎて商店街と直接的に結びつかない。

**川の上を走る高速道路は、利便性ばかりを追求し、文化や伝統、景観を置き去りにした東京の過去の象徴です。首都高がいわば川の蓋になっているのですから、この蓋を取り払えば、東京都心の川は青空の下でもっと魅力的な
街並みを生み出すことができるはずです。**(327頁)これは東京の表層をはぎ取る試みと言える。

高速道路の撤去は実施例があり、アメリカ西海岸のシアトルでは湾岸と都心を繋ぐ高架の高速道路を撤去してしまったというし、韓国でもソウル都心部の清渓川の高架の高速道路が撤去され、川の流れが復活しているそうだ。この韓国の事例は聞いたことがあるような気がする。東京でも首都高速1号線の江戸橋ジャンクションから路線が分かれた先は「盲腸線」だから、撤去しても影響が少ないはずだと、ターゲットを具体的に示している。 
**高度成長期の機能中心の開発主義の産物が幾重にも歴史を寸断しているのです。**(106頁)

最後に少し長くなるが本書から引用する。

**狭い土地の容積率を緩和してそれまであった低層の建物を壊して更地にし、タワーマンションを建てたり、道路を拡幅して自動車交通を便利にし、さらに地上げで大規模開発してくというやり方は、そこで長い時間をかけて営まれてきた暮らしも、積み上げられてきた歴史もすべてを破壊し、チャラにしてしまう。(中略)そこにあるのは、地域との分断であり、過去との根こそぎの断絶、すなわち街の決定的な記憶喪失です。**(206頁)  

「都市の再生に対する明快な理念とそれに向けての具体的な実践法の提示」このように本書を括ろう。 なかなか興味くおもしろい本を読んだ。


都市の記憶喪失 過去ログ


「ゼロ・ダーク・サーティ」

2021-02-13 | E 週末には映画を観よう

 「ゼロ・ダーク・サーティ」を観た。



ビンラディンの居場所を一体どのようにして突き止めたのだろう・・・。困難を極めていたビンラディンの居場所の特定。CIAの女性情報分析官・マヤ(写真)の執念によって、ついに特定された。パキスタンの首都・イスラマバードの近郊、アボッターバード(Abbottabad)という都市で。

映画の終盤、ゼロ・ダーク・サーティ、午前0時30分、特殊部隊を乗せたステルスヘリ2機がビンラディンが潜んでいる要塞のような豪邸に向けて飛び立つ。豪邸突入、ビンラディン射殺。

映画のラスト、主人公・マヤただ一人を乗せて飛び立とうとする輸送機。パイロットの「で、どこへ行く?」という問いかけ、これはマヤに対するものではなく、世界の人々に対する問いかけだろう。ビンラディンの殺害。で、世界はどこに向かうのか? 

この映画の製作にアメリカ政府が「情報」を提供しているとのこと。このような映画をつくり、公開することができるアメリカはやはり凄い。


 


読書雑記

2021-02-12 | A 本が好き 



 信濃毎日新聞の芸能面に連載中の「いきものがかり水野良樹の「そして歌を書きながら」」というエッセイ、今日(12日)の「カフェをはしごするぜいたく」は我が意を得たりと思わせる内容だった。

水野さんはデビュー後に名前が売れ、大きなお金が入ったとき**品行方正を気取るつもりはなく、バカで恥ずかしいぜいたくもいくつかしたと思う**と告白。続けて**だが、結局、自分の心持ちを支えるのは派手なことより「毎日気兼ねせずに好きなカフェに行ける」というような、日常が豊かになるぜいたくであったりもする。**と綴る。そして次のように結ぶ。**幸せや豊かさを感じさせてくれるのは、このコーヒーが何げなくここにあってくれるようなことなのかもしれない。** 

そう、幸せは日々の小さな喜びの積み重ねによって得られるものだと思う。


朝カフェ読書で『コミュニティと都市の未来――新しい共生の作法』吉原直樹(ちくま新書2019年第1刷)を読み始めた。しかし・・・。

**産業主義的生産様式や文化が進展していくにつれて、「生きられる共同性」が内包するような時間と空間は社会の後ろに退き、モダンの時間と空間が前面に出てくる。**(61頁)

**生産主義的生産様式に埋め込まれたモダンの時間と空間、つまり「絶対的時間」と「幾何学の連続的空間」は産業主義的生産様式の進展とともに極限にまで達した。**(67頁)

書かれている文章の意味が理解できない。僕にはこのような文章を読み解く能力が全くない、ということを改めて知った。こんな時の対処法について立花 隆氏が『ぼくはこんな本を読んできた』(文藝春秋1996年第3刷)に次のように書いている。**自分の水準に合わないものは、無理して読むな。水準が低すぎるものも、水準が高すぎるものも、読むだけ時間のムダである。時は金なりと考えて、高価な本であっても、読みさしでやめるべし。**(74頁)**読みさしでやめることを決意した本でも、一応終わりまで一ページ、一ページ繰って見よ。意外な発見をすることがある。**(74頁)

このアドバイスに従い、文章をざっと目で追うことにする。


 


辰野町小野の火の見櫓再訪

2021-02-12 | A 火の見櫓っておもしろい


火の見櫓のある風景 好みの道路山水的構図
(再)上伊那郡辰野町小野下雨沢 4無44型 撮影日2021.02.11

この火の見櫓は2014年9月に一度観察している。一度観たらそれでおしまい、ということにはしない。好きな小説を何回も読むことと同じで、何回か観ているうちに初めて気がつくこともあるし、季節や天候、時間帯によっても火の見櫓は雰囲気が変わる。



屋根:存在感のある蕨手と避雷針の飾り
見張り台:4隅の面取り部分の飾りは「開いたハート」を上向きと下向きセットにしているが、このパターンを手すり4面に繰り返している。見張り台直下にも櫓部分と同じ、リング式ターンバックル付き交叉ブレースを設置している。これには構造的な意味合いはなく、装飾的なものだろう。



屋根と櫓上端との接合部:ずいぶん入念に接合している。屋根の補強材の入れ方も分かる。

この写真だと半鐘をどのように吊り下げているのか分からない。もっと的確なアングルがあったと思う。撮り急いではいけない(反省)。消火ホースを干すために掛けるフックはこのくらいの位置にあると作業しやすいだろう。このフックの取り付け高さから、この火の見櫓の屋根てっぺんまでの総高を約12メートルと見た。



外付け梯子と踊り場の取り合い:整ったフォルム。左側は消防団詰所(屯所)の外付け階段から櫓の踊り場に掛けられた梯子。



「辰野町第十七分団」という切文字が取り付けられている。2014年にこの火の見櫓を見た時は切り文字には注目していなかったようだ。



柱あれど脚は無し。基礎から突き出した短材と柱材の下端を接合している、という理解でよいのだろうか・・・。このような方法にすると建て方がやり易くなったのだろうか。