透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「野球の神様」と呼ばれている青面金剛像

2024-10-26 | B 石神・石仏


心念堂 撮影日2024.10.25

 塩尻市洗馬芦ノ田にある心念堂に行ってきた。目的は境内に祀られている青面金剛庚申像を見るため。この像のことは洗馬区の文化祭で知った。


左から3基目の背が低い石仏が目的の青面金剛庚申像。高さは約80cm、幅は一番下の正面で約30cm。




説明文によると、かなり有名な青面金剛庚申像のようだ。本尊についての説明も興味深い。


洗馬区の文化祭ではこの陰刻像の写真と拓本が展示されていた。

添付されていた説明文によると、手に持っている宝剣と宝輪をバットとボールに見立てて、野球の神様と呼んでいたとのこと。

なるほど、人(ヒトと表記するのがよいのかもしれない)は見慣れないものを目にすると、既に知っているものに帰着させようとするから、バットとボールに見立てたというのもよく分かる。大正の頃から野球の神様と呼んでいたという。

この石仏の側面に刻まれている文字を読み取ることは出来なかったが、展示されていたこの像の写真に、像の右側面には一千時元禄十一戊寅六月吉日と刻字されているという説明文がついていた。元禄11年の干支を確認すると確かに戊寅(つちのえとら)だ。西暦で1698年の建立だ。芦ノ田で最も古い庚申塔とのこと。

青面金剛像には三猿が彫られていることが多いと思うが、この像は二猿だ。猿の下に酉(ニワトリ)が二羽彫られている。素朴な像だ。


 


路傍の馬頭観音

2024-05-25 | B 石神・石仏


長野県朝日村西洗馬にて 2024.05.24

 Y字路に馬頭観音が何体も祀られている。前側に馬頭観世音塔、後ろ側に文字塔。散在していたものを一カ所にまとめて祀ったもの。




頭上に馬の頭を置く像。右側に弘化二巳九月と、建立年が刻まれている(1845年)。穏やかな顔の観音さま。


上と同じく頭上に馬の頭を置く像。

馬頭観音について『安曇野  道祖の神と石神様たち』西川久寿男(穂高神社 発行 第1刷1987年、第2刷1990年)から得た知識もかなり薄れてきているので改めて読み直した。以下引用は同書から。

観世音菩薩は阿弥陀如来の脇侍。**来世において理想が実現する阿弥陀仏の救いとは対照的に、観世音菩薩の救いは極めて現世の利益と結びついているためか、中国・日本には古くから、観世音菩薩が救ってくださった物語が多く作られています。**(119,120頁)

六観音の一つである馬頭観音は六道のうちの「畜生」を教化する観音さま(*1)。ちなみに「餓鬼」担当は千手観音。また、お地蔵さまが六体並ぶのは六道にそれぞれ対応しているから。

**時代が下るにしたがって簡単になり、宝冠をつけるかわりに馬の像を置く像が多くなっています。**(123頁)

**「馬頭」ということからでしょうか、次第に馬の神様として崇められるようになり、馬が死ぬと供養のために石像や文字塔が建てられたり、運送業者や馬持仲間が、馬の無病息災を願ってこれを建てたりしました。このように馬頭観世音の信仰は、後世になるほど次第に本来の性格からはなれて、民間信仰の中に生きる石仏に変わっていったといえます。**(123頁)

路傍に祀られていてよく目にする道祖神や二十三夜塔、馬頭観音、庚申塔などの石神・石仏について調べてみるとそれぞれなかなか奥が深い・・・。


*1 このことについてある方からコメントをいただいていた。


松本市島立永田の道祖神

2024-05-17 | B 石神・石仏




松本市島立永田の双体道祖神(彩色祝言跪座像)と文字書き道祖神(右)2024.05.17

 何に注目するかで写真の撮り方は違う。今回は道祖神に注目しているので右隣に立っている火の見櫓は一部しか写していない。




彩色祝言跪座像 黒く塗られた盃を持つ男神にやはり黒く塗られた酒器を手にした女神が跪いて寄りそっている。高さ約120cm、幅約80cm、像を納めた円の直径約70cm。男神と女神は内側の手をつないでいるのかな。双体道祖神は熱々カップルにしないと(過去ログ)。

『松本平の道祖神』今成隆良(柳沢書苑1975年)によると祝言跪座像は松本独自の造形で、祝言像の4割(19基/46基)を占めているという(171頁)。このタイプは北安曇郡や諏訪地方には全く見られないとのことだ(172頁)。


裏面 弘化二乙巳年二月吉日 帯代二十両 (1845年)

上掲の『松本平の道祖神』に松本の道祖神11基の帯代が表で示されている。30両が一番高く、5両が一番安い。平均値を求めると約15両となった。20両はやや高め、ということになるだろうか。同書には永田の道祖神は2度嫁入り(過去ログ)させられたため、帯代を20両と刻んだとある。尚、帯代については**天保年間から流行した「帯代」を刻むことも明治初期頃は、単なる装飾文字としての意味程度に考えられてしまったのであろう**(同書259頁)という記述がある。


側面 永田村


文字書き道祖神(造立年不明)高さ約60cm、幅約60cm。


5原村のオオカミ像

2023-06-02 | B 石神・石仏


 丸みを帯びてきのこを思わせるような祠の横にちょこんと座っているオオカミ(山犬)さま。

祠の数え方を調べると「宇」だって・・・。3宇の祠の横にちょこんと と上の文章を直すのかな。宇、初めての助数詞。




のんびりムードのオオカミのようで、案外顔つきは鋭い。


 


2興味深い「オオカミ」

2023-06-02 | B 石神・石仏

 神社の参道や拝殿前に鎮座する一対の霊獣・狛犬(獅子と狛犬)には以前から興味があって、機会あるごとに見てきたし、お稲荷さんのキツネも目にすることがあった。だが、今まで神社の境内でオオカミ像を見たことはなかった。昨日(1日)諏訪地域を一緒に巡った藤田さんに先日(5月17日)案内してもらって初めて原村(*1)でオオカミ像を見た(写真①)。




茅野市泉野の赤嶽神社里宮の境内の奥の小さな祠の前に一対のオオカミ像が鎮座していた(写真②)。①と②とではオオカミの位置づけが違うのではないか。

4本の御柱で囲まれている①のオオカミは人を守る神としての存在で、②のオオカミは祠のご祭神を守る、そう狛犬と同じ役目の霊獣ではないか、と思うが、どうだろう。

オオカミは農作物を荒らす猪などの野生動物を追い払う益獣、害獣除けの霊力をもつ霊的な存在と捉えることができると思う。この場合、オオカミを①としても②としても位置付けることができるだろう。

オオカミ信仰にも広く深い世界がありそうだ。さて、この世界どうする・・・。とりあえず、オオカミ像観察に留めておこう。


祠に向かって右側のオオカミ


同左側のオオカミ 痩せていてあばら骨が浮き出ている(?)。

後方に写っているのは社殿を囲む御柱。


*1 茅野市と書いていたが、藤田さんからラインで原村と指摘されたので訂正した。また。同ラインでオオカミ像をオイヌサマと書いていたので、今後はオイヌサマとしたい。2023.06.05


松本市島立の彩色道祖神

2023-04-19 | B 石神・石仏

「本の蔵1885 お座敷一箱古本市」が松本市島立の亀田屋酒造店の母屋で今月15日に開催された。午前10時ころ出かけた。1885って何? 会場で受け取ったチラシによると、会場の古民家の建設された1885年に因んでいるとのこと。


ダイナミックな吹き抜け空間に目を奪われた。


会場の和室には14組の箱主さんが出店していた。一通り見てから『沿線風景』原 武史(講談社文庫2013年)を買い求めた。この本については稿を改めて書きたい。


会場の亀田屋酒造店前の路傍に彩色された双体道祖神と二十三夜塔が祀られていた。






高さがおよそ1mの自然石に大きな円窓を納め、その中に祝言像を彫っている。男神は盃を、女神は提子を手に持ち、内側の手を相手の肩に掛けている。疫病神を寄せ付けない熱々カップル像。像の下に嶋立・・・、何という字だろう。見たことのない漢字。

思い出した、漢字の偏旁の位置を変えることがあった。左右の配置を上下に変えている。これは町だ。町村。そういえばここに至る国道158号の交差点の信号は「島立町区」と表記されている。

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像の向かって左側面に天保十三年壬寅三月十二日と刻字されている。この年は西暦で1842年、今から181年前に建立された道祖神。この道は千國街道、と説明板にある。この道が千國街道だなんて思いもしなかった・・・。


右側面 さて・・・。読めないが大意は何となく分かる。要するに帯代15両いただきますということ。この(道祖)神を他村に移し、お祀(祭)りしたことで、その後栄えてお祝いすることになったら金十五両いただきますよ。

ただ帯代何両と刻字してある道祖神は時々見かける(過去ログ)。

  


 


桜の下に祀られている石神・石仏

2023-04-06 | B 石神・石仏




桜の下に祀られている石神・石仏 長野県朝日村 2023.04.05

 手前の道祖神、奥の左から庚申塔、青面金剛像 蠶神の順に載せます。


祝言跪座像 明治22年4月13日建之



大正9年12月吉日建之 この年(1920年)の干支は庚申。



線刻された青面金剛像 邪鬼の上に乗っています。脚元に二猿二鶏。手に持っているのは向かって左側に上から三叉戟(さんさげき)、剣、矢。右側上から輪?、羂索、弓。蛇を首にかけています。

昭和55年12月吉日建之 この年(1980年)の干支は庚申。朝日村にはこの年に祀られた庚申塔が何基かあります。



蠶神 養蚕が盛んだった地域に祀られていることが多いでしょう。明治12年2月8日建之





白馬村神城の道祖神(加筆訂正)

2022-11-14 | B 石神・石仏


北安曇郡白馬村神城 2022.11.11

 向かって右側に立つ男神は盃を手に持ち、左側に立つ女神は酒器を手に持つ酒器像(祝言像)。お互い内側の腕を相手の肩に回している。紙垂で隠されることなく、相手の肩に掛けた手が写っている写真が1枚あった。写真は常に複数枚撮らなくては。

注連縄に玉串。神事が行われた直後だったのかもしれない。像が鮮明だ。新たに祀られた道祖神だろうか、礎石まわりの掘削土の埋め戻しがまだ終わっていないような様子だった。



 以下追記 この双体道祖神について、平安貴族の衣装を身にまとう道祖神などと安易に書いたところ茲愉有人さんから**「平安貴族の衣装」とはちょっと違う印象を抱きました。**というコメントをいただいた。なるほど、確かに女神の服装を見れば一目瞭然ではないか。**双体道祖神の造形は多様ですね。興味がつきません。**とコメントを結んでいただいているが、これは私への優しい配慮というべきであろう。



服装の知識もなく、安易に記事にしてしまったことを反省しなくては。下に追加した写真④は安曇野市内に祀られている道祖神。やはり盃と酒器を手に持っていて両者は同じ型に入る。見比べると、顔の表情も違うし、女神の服装も明らかに違う。④の男神は垂纓冠(すいえいかん)をつけ、冠のひもをあごの下で結んでいる。①の写真で男神の頭上に纓(えい)を見て、平安貴族と早合点してしまった。いや、これは纓ではないのかな・・・。そもそも纓はいつ頃から?

茲愉有人さんのコメントには日本の服装を扱っているサイトのアドレスが添付されている。服装史も広く深い世界だ。

今後、道祖神の服装に言及する場合にはじっくり調べることにしたい。加筆・訂正前の記事から冒頭の平安貴族の衣装を身にまとう道祖神という記述を削除した。

ブログでは十を知って一を書くくらいでなくてはだめ、と反省。茲愉有人さんに感謝します。


安曇野の道祖神 2013年2月撮影


 


彩色青面金剛像

2022-07-25 | B 石神・石仏


安曇野市穂高田中 撮影日2022.07.22

 安曇野市穂高田中の生活道路沿いに彩色された青面金剛像が祀られていた。昨日(21日)、偶々通りがかり、観察した。


石種は花こう岩。碑高約1m、碑幅約70cmの自然石を薄く舟形に彫り込んで、一面六臂の青面金剛像を陽刻している。像の脚元に二鶏、その下には例によって塞目・塞耳・塞口の三猿。像の両側に陰刻された建立年は嘉永五子年(1852年)三月吉日となっている。その下に田中村中とある。 


青面金剛像の場合、注目は手に何を持っているか。右(像に向かて左)の上の手に月輪、左に日輪。右の下の手に斧、左には蛇(だと思う)。月輪、日輪が像の上に彫られているのは珍しくはないと思うが、手に持っているというのはどうだろう。記憶にはない。



彩色道祖神は見たことが ある(過去ログ)。



(再) 安曇野市穂高上原 3脚〇〇型 撮影日2020.03.22


蠶玉神社の道祖神

2022-06-20 | B 石神・石仏


 既に書いたが今月(6月)16日に諏訪大社 4社巡りをした。その時、上社本宮のすぐ近くにあるこの神社に道祖神が祀られていることに気がついた。




額に書かれた神社名、蠶玉(こだま)神社。 この文字はしばらく前に調べたから知っている。蚕(蠶 かいこ)の神様をお祀りした神社。


石灯籠の横に双体道祖神が祀られていた。




お互いに内側の手を相手の肩にかけ、外側の手を握りあう「抱肩握手像」。像の上に紙垂が陽刻され、像の右に神宮寺村、左に中町と陰刻されている。残念ながら、顔が損耗していて表情は分からない。建立年は裏面にも彫られておらず、分からなかった。

像を浮き彫りにするために像の周りを一段深く平らに彫り込まなければならない。彫り込んだ部分を「中区」といい、中区と碑の周辺を区画する形状を「くり型」ということが手元の資料(*1)に出ている。同資料には40ものくり型が示されていて、この道祖神の型は「雲版」という名前の型に似ているが、同じ型なのかどうか、分からない・・・。


*1 『『双体道祖神』伊藤堅吉(緑星社出版部 出版年不明)


辰野町横川の青面金剛像

2022-05-20 | B 石神・石仏


辰野町横川にて 撮影日2022.05.19

 『庚申信仰』平野 実(角川選書1969年)に**庚申の夜を徹夜で謹慎する守庚申が日本で行われだしたのは、平安時代からと思われるが、一般庶民の間で、ほぼ同趣旨の庚申待が始まったのは、おそらく室町時代のことであろう。**(16頁)という記述がある。

辰野町の横川には石碑が点在している。一ノ瀬地区にも庚申文字碑などの石碑が祀られているが、その中の青面金剛像を観察した。


舟型の碑に青面金剛像が浮き彫りされている。碑の下には例によって三猿、その上に二鶏が向き合っている。青面金剛像には6本の手。2本で合掌、残り4本は何か持っている。左の上手は輪(細部がはっきりしないが宝輪か)、下手は棒状のもの、教科書的には弓だが、分からない。右の上手は剣か。下手は右下手と同じ棒状のもの、矢か。

道祖神や庚申塔は文字碑が多い。だが観察しておもしろいのは像碑だ。





朝日村針尾の石碑

2022-05-15 | B 石神・石仏


長野県朝日村針尾大石原にて 生活道路沿いに大小12基の石碑が祀られている。撮影日2022.05.15 

 コメントにお応えするため、再取材に出かけた。

向かって右から左に石碑の写真を載せる。


右 「庚申」文字碑 大正九年十月(1920年) 大石原耕地 左(小)不明


道祖神 祝言跪座像


「庚申」文字碑 萬延元歳十二月日(1860-1861年)大石原中


右 不明 中 「青面金剛」文字碑 明和四丁亥年(1767年) 左 「南無阿弥陀仏」碑


右(小)不明 左「二十三夜」碑


「庚申」文字碑 昭和五十五年十一月(1980年) 大石原部落中 


*1 「養蠶神」 裏面の刻字:明治九子年九月(1876年)大石原耕地中 
   碑高約150cm 碑幅約70cm 碑厚約30~35cm


青面金剛像碑 (過去ログ


*1 行書で3文字 下は「神」。同じ神様が別の地区にも祀られているのではないか、そう考えて近くの御道開渡(みどがいと)へ。


朝日村古見御道開渡にて 撮影日2022.05.15

左から2番目の文字碑の「養蠶神」、*1はこれと同じなのではないか。は蚕。だから「養蚕神」と同じ。


『新字源』角川書店(1969年)

大石原にに戻り、読めない文字碑(*1)の前に立つ。中の字は下に虫がふたつ並んでいるように読める。とすると、上の字は養・・・? 養とは読めないけれど、行書だとこう書くのかな。


朝日村小野沢本郷 撮影日2022.05.15

「蠶神」2文字の碑が別の地区に祀られていた。


**蚕玉様(こだまさま) 蚕玉様は養蚕の守り神であり、(後略)。石碑や祠、幟や御札などに書かれている神名は「蚕玉神」「蚕神」「養蚕神」「蚕大神」「養蚕神」「養蚕守護神(尊)」などで、書かれている文字も(*2)蠶・蚕などがある。**『朝日村誌 上巻』 朝日村村誌刊行会(1989年)(755,6頁) *2 変換できない漢字

『朝日村誌 上巻』第四節 民間信仰 四ムラの神仏 によると庚申塔が朝日村には74基(村誌刊行時1989年)あるとのこと。**村内全般にわたって集落ごとに庚申塔が建てられた村は全国でも珍しいといわれる。**(758頁)という記述がある。


 


朝日村針尾の青面金剛像

2022-05-03 | B 石神・石仏


長野県朝日村針尾にて 撮影日2022.05.02


左端に祀られている一面六臂の青面金剛像。舟形に形を整えた像。

 
六臂、6本の腕。2本で胸の前で合掌、右腕は上が剣で下が蛇を持っている。上に挙げた左腕は何も持っていない。何か必ず持っているということでもないようだ。下に下げた腕は輪を持っている。その輪に釣り下げたものが何か分からない。足の下に二猿。大半は三猿だと思う。

刻字、向かって右側は正徳五、年は読み取れない。正徳五年は西暦1715年。江戸中期の建立ということになる。左側は七月吉日、かな。下には大石原村中とある。原という文字ははっきりしないが、この辺りの集落名は大石原だから。