透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

口の開閉か、角の有無か

2025-02-13 | C 狛犬

■ 左右対称を好まない日本人の心性。左右対称形で伝わった寺院の伽藍配置をいつの間にか左右非対称に変えてしまった。長安の都市計画も左右対称だったが、それを手本にした平安京の左右対称の構成も次第にくずしてしまった。




日本最古の本格寺院といわれる飛鳥寺の伽藍配置(①)と法隆寺西院の伽藍配置(②)
「日本名建築写真選集4 法隆寺」新潮社より

やはり、日本人は左右非対称を好むようだ。日本人は月も元々満月ではなく、すこし歪な十三夜を愛でていたという。

狛犬も中国から伝わったが(仏教とともに伝わったということだから、6世紀中ごろ、飛鳥時代)、両方とも同じ姿の獅子だったということだ。その後の経緯をよく知らないが、左右違う姿になり、獅子と狛犬、別々の名前になった。左右対称、左右同じを好まない日本人の心性だろう、シンメトリーの中国からアンシンメトリーの日本へ、狛犬の姿かたちも変化した・・・。

先日読んだ『狛犬学事始』に、下のような一次元的な表が載っていた。宇治市内の22対(44体)の狛犬(獅子と狛犬をまとめて狛犬と呼ぶ)を調査して、頭の角の有無にによって獅子と狛犬に分類した表だ。

①阿・吽が、狛犬・狛犬 1例
②阿・吽が、狛犬・獅子 0例
③阿・吽が、獅子・狛犬  10例 
④阿・吽が、獅子・獅子  11例

上の表を下のように2次元的なマトリックス表にしてみた。断るまでもないが、表で口開は阿、吽は口閉は吽。


口の開閉と角の有無を縦軸と横軸にしてできる4マスに44体を振り分けた。狛犬の設置位置の左右も入れると3次元になるので、省略した。これには2体の位置関係という相対的な特徴より、個体そのものの特徴で判断しようという意図もある。

このマトリックス表で、口開で角無の獅子は右上のピンク、口閉で角有の狛犬は左下のピンクのマスに入る。これは獅子・狛犬を分ける一般的な視点による分類。

『狛犬学事始』の扱いでは、角が無けれは緑色の縦2マスに入る。この場合、口の開閉を考慮しなければ44体のうち32体が獅子で、角有は狛犬で左側の縦2マスで12体。一方、口を開いていれば獅子と判断する場合は、水色の横2マスに入る。結果、44体のちょうど半分の22体が獅子で残り22体が狛犬。

さて、この結果をどう判断するか・・・。

先に、左右対称の長安をモデルにした平安京の都市計画が次第に左右非対称、アンシンメトリーに変化していったこと、寺院の伽藍配置も同様であったこと、更に月を愛でるのも中国は満月、日本は元々、歪んだ十三夜だったことを述べた。

左右対称を好まない日本人の心性は獅子・狛犬にも反映されていると考えたい。心性は個々人のものではなく、日本人の総体としてのものだから、時代とともに変わるというようなことはないだろう。

そうであれば、どの時代においても、狛犬は2体同じではなく、特徴を変えて、違う動物に造形されていると考えるのが妥当ではないだろうか。このことから、獅子・狛犬はほぼ同数になると推測される。

ほぼ同数になるような視点をこの結果から逆に探す、ということもできるのではないか。表③から、獅子か狛犬かを見極める、そのような視点は口の開閉ということになる。


茅野市宮川 酒室神社 2023.06.04
開口角有、向かって右側設置の「獅子」

補足として、前稿から次のくだりを引きたい(少し加筆した)。**参道狛犬の多くは石造だ。石造では角は折れやすい。制作時、あるいは運搬時、施工時と折れてしまう可能性はどのフェーズでもある。角が折れてしまった狛犬を発注者が受け取らないケースが結構あったのではないか。瑕疵だと指摘されれば、つくり直さざるを得ないのでは。それで、石工は角をつくらないことも少なくなかった、とは考えられないだろうか。** 
また、狛犬(獅子・狛犬一対、の狛犬)は想像上の動物であるため、姿かたちはきちんと定まらない。従って、角が必須ということでもなかったのではないか。狛犬の姿かたちが多様なのも、このことに由るだろう。

以上のことから、ぼくは、獅子か狛犬か判断する場合、角の有無ではなく、口の開閉に依拠したい。


※ 最後の一文の通り、本稿は自分自身の判断根拠を自省するために書いたものであることをお断りします。


神殿狛犬 参道狛犬

2025-02-11 | C 狛犬


 ぼくが持っている『徒然草』(岩波文庫)の奥付を見ると、昭和44年(1969年)6月10日 第52刷発行 となっている。読んだのは随分昔、55,6年も前のことだ。今も忘れずに覚えているのは第109段の高名の木のぼりの「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」ということば(表記はこの文庫87頁による)。油断大敵という教訓だと理解している。それから、仁和寺にある法師の教訓も内容は覚えている(過去ログ)。

『徒然草』に狛犬が出てくることも、いつごろからか知っていた(第236段)。

ある年の秋、聖海上人が大勢の人を誘って丹波の出雲神社を参拝した。**御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子のたちやう、いとめづらし。ふかき故あらん」と涙ぐみて(後略)** (168頁)

獅子・狛犬がお互い背を向けて据えられている様を見た上人は、「大変珍しい。これには深いわけがあるのだろう」と感激して涙ぐむ。同行者たちにそのことを伝えると、「これは都へのみやげ話にしよう」などと言っている。で、上人がものをよく知っていそうな神官に、このような据え方には由緒があるのでしょう。そのことについて、お聞かせ願えませんか、とお願いしたところ、「いたずらっ子たちが向きを変えてしまったんですよ」と言って、元のように据え直して行ってしまった、という話し。

ねずてつやさんが『狛犬学事始』(ナカニシヤ出版1994年初版1刷、2012年初版7刷)でこの狛犬を取り上げていた。塩見一仁さんの『狛犬誕生』(澪標2014年)でも取り上げられている。

ねずさんはこの段を描いた学習マンガを2冊、江渡大輔・園田光慶著『古典まんが徒然草』と『赤塚不二夫のまんが古典入門⑦徒然草』を取り上げ、どちらも参道狛犬の扱いで、描かれているのは台座に据えた石造の狛犬であることを紹介している。ぼくも図書館でマンガ日本の古典17の『徒然草』バロン吉本(中央公論新社)を見たけれど、やはり石造の参道狛犬が描かれていた。


神殿狛犬 京都の河合神社の境内社・貴布禰神社社殿 2015.12

『徒然草』の獅子・狛犬は上の写真のように神殿の縁に据えられた神殿狛犬と解さないといけない。

聖海上人たちが見た時は、いたずらっ子たちが右の獅子を右を向いた状態に、左の狛犬を左を向いた状態に据え替えてしまっていたというわけ。この据え方に由緒があるわけでもなんでもなく、単なる子どものいたずら。あちゃー、このことが分かったとき、上人はどうしただろう。

3冊のマンガには参道狛犬が描かれているが、石造の狛犬は(簡単には)動かせない。参道狛犬は江戸時代になってから普及し始めているようだ。『徒然草』が書かれたのは鎌倉時代末期ころとされている。その頃はまだ、参道狛犬は無かった、ということではないか。

「御前なる獅子・狛犬」と文中にある。御前は社殿の直前であって、仮に参道に設置されていたとすれば、御前ではなく別の表現をするだろう。また、神殿内に設置されているのなら、子どもたちのいたずらの対象にはならないだろう。神殿狛犬は木で作られたものが多い。大きさにもよるが、軽くて子どもたちにも動かせるし、神官が持ち上げてくるっと向きを変えることもできる。

漫画家も編集者も狛犬と聞いて、参道に設置された石造の狛犬しか浮かばなかったのだろう。確かに神社に詣でても、参道狛犬しか気がつかない、ということが普通だろうから・・。『徒然草』でも聖海上人に言われるまで、同行者は狛犬に気づいていなかったように。


赤塚不二夫が学習マンガに描いた狛犬の画像がありますが、掲載は控えます。ネット検索すればすぐ見つかります。

さて、本を読まなきゃ。



木造の参道狛犬

2025-01-23 | C 狛犬

 
 神殿狛犬は風雨にさらされて傷むことがないので木造が多い。一方、参道に鎮座する参道狛犬は青銅や陶器で造られたものもあるが、大半が石造だ。前稿に書いたように、昨日(22日)岡谷のスカラ座へ「鹿の国」を観に行った。その途中で、偶々この狛犬を見かけた。岡谷市の今井十五社神社の参道狛犬、木造だ。はじめて見た。

大きな木の彫刻。後ろ側に設置されている銘板により、地元今井区民、総代会が平成26年(2014年)により奉献されたものと分かった。なぜ、石造ではなく、敢えて木造の狛犬にしたのだろう・・・。

 
一対の霊獣を狛犬と括っているけれど、元々別で、向かって右が獅子、左が狛犬。神殿狛犬の場合、獅子の毛髪は緑青色、狛犬の毛髪は群青色とされている(下掲の日光陽明門の狛犬参照)。この神社の狛犬はこの色を台柱にも塗っている。
  
 
シッポの毛 くるりんちょな獅子、ストレートな狛犬、と変えている。


諏訪地域では小さな祠にも御柱が建てられている。この神社にも建てられていた。
拝殿の左隣、境内社津島社本殿 ここにも御柱。お賽銭箱に諏訪大社の神紋がある。調べてみた。この神社には建御名方神、八坂刀売神はじめ、神社名の通り、15社のご祭神が祀られている。


 
日光陽明門の裏側にいる狛犬には一般参詣者は注目しないかもしれない。(2023.04.14)


篠ノ井の布制神社の狛犬

2025-01-20 | C 狛犬

 篠ノ井駅から見えた火の見櫓に向かう途中に神社があった。鳥居の扁額に「布制神社」とある。拝殿に続く参道に一対の狛犬が見えた。立ち寄って狛犬を観察することにした。まず、拝殿で2礼2拍手1礼。



狛犬と括るが拝殿に向かって右側は獅子、左が狛犬。そう、左右別々の霊獣だ(狛犬についてはネットに多くの解説サイトがある)。


右 きっちり蹲踞(蹲踞)の姿勢をとった獅子 逞しい体つき。


左 獅子と同じ姿勢の狛犬。本来、狛犬には角があるけれど、角がないものも多い。欠損しやすいこともその理由ではないか、と思う。折角つくったのに、運ぶ途中や設置作業中にポキってこともあっただろう。それなら、最初からつくらないでおこう、と石工が考えたのかもしれない。

獅子・狛犬本体も台座も花崗岩でつくられている。花崗岩は風雨にさらせると損耗しやすい。この狛犬の顔の表情や体の細部の表現がよく分からないのは、このことによる。台座に刻まれた文字も読み取ることができなかった・・・。


篠ノ井駅から布制神社までおよそ520m、ここから火の見櫓までおよそ180m、と帰宅後に地図で確認した。駅から火の見櫓まで往復して1400m、1.4km。


駒止稲荷神社の狛犬(追記)

2024-04-26 | C 狛犬


 墨田区にある旧安田庭園内に祀られている駒止稲荷神社。この神社のことは知らなかった。刀剣博物館が閉館していたので、予定を変更してこの庭園を散策していて、この社殿とその前に鎮座している狛犬に気がついた。

この神社の近くに「駒止石」の説明板が設置されていた。その説明を要約すれば、三代将軍家光の時代、寛永8年(1631年)の秋に台風に見舞われ、隅田川が大洪水になった。家光は本所側(隅田川の対岸側、本所川と誤記していましたので訂正しました。説明板を確認願います。)の甚大な被害を憂慮、被害状況を調べさせようとした。濁流が激しく、誰もが尻込みする中、旗本の阿部豊後守忠秋は馬を繰って川を渡り、被害状況を調べて回った。その際、馬を止めて休憩したことろが駒止石。

当時の地元の住民が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀ったという。

追記(2024.04.26): 歴史には疎い。だが、阿部忠秋という名前、目にしたことがあるような気がするなぁ、と思って調べてみた。ウキペディアに載っていた逸話に明暦の大火に関するものがあった。明暦の大火の出火元は本妙寺とされているが、実は寺の隣りにあった忠秋の屋敷だった、というもの。

火の見櫓の歴史は明暦の大火のあった1657年の翌年に始まった。定火消が組織されその屋敷に火の見櫓が建てられたのだ。明暦の大火に関することについて調べていて(調べてという程でもないが)、この説を目にしていたのだろう。なお、この旧安田公園から程近い両国橋も明暦の大火後に、避難路確保のために架けられた(*1)。

ウキペディアによると、忠秋の没年は1675年(延宝3年)。この駒止稲荷は忠秋没後に祀られたものと推察されよう。記事を書く際、あれこれ関連情報を調べれば、いろいろ分かっておもしろいのだろうが、あまりしていない。時間も無いし(とは言い訳)、反省。

 
社殿前の狛犬を見る。小ぶりだがなかなか迫力がある。社殿に向かって左側(写真も左側)、吽形の狛犬の顔の表情が厳しい。この狛犬の頭部には角か? 上部が欠損していて判然としないが、一般的には右の獅子は宝珠、左の狛犬は角だから。では獅子の頭部に宝珠が見えないけれと、そこの様子は? 確認しなかった。説明のための写真は無造作に撮ってはならぬ、これ教訓。説明したいことを的確に捉えるようなアングルを探して撮らなくては、と反省。

 
社殿を背に狛犬を見る(位置関係に注意)。後ろ姿は撮らなかった。


阿形の獅子の台座。刻字されていた奉納年は欠損していて確認できない状態。「昭和三・・・・日」 昭和の狛犬だということは分かる。

奉納年について、「好奇心いっぱい こころ旅」というブログには**昭和33年6月22日に安田学園が奉納した狛犬です。*+*と記されている。安田学園のHPを検索してみたが、この狛犬に関する記事は見つからなかった。


*1 架橋については防災目的というより開発目的だったとする指摘もある。**幕府は、この大火を契機に隅田川東岸の本所・深川の低湿地の開発に本格的に動き出す。隅田川の両岸地域の連絡を確保するために万治二年(一六五九)に両国橋を架橋する。**(『都市計画家  徳川家康』谷口 榮(MdN新書2021年)85頁)ものごとは見方・捉え方の相違で、結論も変わるということだ。


3塚原鎮守神社の狛犬

2023-06-30 | C 狛犬


拝殿の前の階段脇に鎮座する狛犬



 

 
なんだか、メカっぽい。特に前脚。ロボット狛犬。右の獅子の頭には何も付いていない。左の狛犬の頭には角ではなく、宝珠が付いている。

台座に「昭和十年九月」「工師 上社前北原」と刻字されている。
 
480
神社の案内板

この神社のご祭神は諏訪大社のご祭神・建御名方神の父神、大己貴神(「因幡の白兎」の大国主神)と母神の高志沼河姫神ということを記した案内板。へ~、そうなんだ


 


14茅野市宮川 酒室神社の狛犬

2023-06-04 | C 狛犬

480
 茅野市宮川の酒室神社を再訪した。狛犬をもう一度見たくて。

既に書いたことを繰り返します。神社の参道や拝殿前に鎮座する一対の狛犬(参道狛犬)は別々の霊獣で、拝殿に向かって右が獅子、左が狛犬(想像上の動物)です。狛犬は頭に角がある一角獣。この神社の狛犬の後方は拝殿ではなく、社務所です。敷地の状況による制約があったのかどうか、拝殿は上掲写真の左隅にチラッと写っています。

仁王像と同様に獅子は阿形、狛犬は吽形。いつ頃からか、狛犬の頭の角がなくなり、獅子と狛犬の違いは口を開けているか、閉じているかだけになってしまっています。

さて、酒室神社の狛犬。向かって右側の獅子に本来ないはずの角があり、左側の狛犬には角の代わりに団子のような宝珠が付いています。また、口の開閉を見ると、獅子は当然開けているけれど、閉じているはずの狛犬(写真②)も歯が見え、口を開けているように見えます。5月16日に初めて見た時にこのことに気がつき、もう一度見たいと思った次第です。








真横からも、獅子も狛犬も口を開けているようにしか見えなません。角と宝珠を除き、両者の姿の違いが分かりません。体の巻き毛も尾の様子も同じにしか見えません。

後ろから見たらどうだろう・・・。




違いがわかる男のコーヒーも飲みますが、この獅子・狛犬の違いがわかりません・・・。


国立国会図書館デジタルコレクションのデータ

酒室神社の獅子に角があるのは、1794年(寛政6年)に刊行された『諸職画鑑』というイラスト集の獅子(右側)に角が描かれていたために、それを参考にしてつくったことに由るのではないか、と思いました。

明治初期までに、イラストの間違いに気が付き、角付き獅子は彫られなくなった、といいます。ならば、酒室神社の獅子・狛犬は江戸末期ころまでに彫られた古いものかもしれない・・・。


台座の刻字は昭和十一年七月、としか読めません・・・。では、なぜ?

分かりません・・・。


酒室神社は諏訪大社上社の末社 ご祭神は酒解子之神(さけとくねのかみ)


6富士見町の池生神社の狛犬

2023-06-02 | C 狛犬

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 富士見町の池生神社。ご祭神の父神は建御名方命、母神は八坂乃。この鳥居の手前にもう1基鳥居があって、長い参道が奥の森に向かって続いている。以前は森の手前の参道の両側は池だったとのこと。池は枯れ、現在は埋め立てられてしまっている。池の中を参道が通っていたころはダイナミックな景観だっただろうに、残念だ。


急な石段の上に社殿がある。石段の上り口に一対の狛犬が鎮座している。

 
狛犬は元々向かって右が獅子で左が狛犬と別の霊獣だったがいつ頃からか、この狛犬のように阿形と吽形の違いはあるものの両方とも同じ姿となった。狛犬の頭にあるはずの角もない。

なかなか好い表情をしている。

 
台座に刻まれた建立年は昭和8年。思いの外、新しい。


 


角と宝珠

2023-05-23 | C 狛犬

360
『諸職画鑑』北尾政美(鍬形蕙斎)1794年(寛政6年) 
 国立国会図書館デジタルコレクションより

 狛犬。今は両方の像をまとめて狛犬と呼ばれるが、もともと違う霊獣で、向かって右が獅子、左が狛犬だ。本来獅子は口を開いた阿像で角は無く、狛犬は口を閉じた吽像で角がある。ところが、江戸時代、寛政6年に刊行された『諸職画鑑』には逆の姿が描かれていて、右の獅子に角があり、左の狛犬に角はなく代わりに宝珠(*1)がある。

『諸職画鑑』に描かれたこのイラストを参考にして「獅子に角あり狛犬に角なし」像が各地につくられた。このような説明が『狛犬かがみ』たくきよしみつ(バナナブックス2013年)に載っている。

先日(16日)ひのみくらぶ会員の藤田さんの案内で茅野市と隣りの原村の火の見櫓を見てまわったが、最初に見たのが茅野市宮川の酒室神社のすぐ近くに立っている火の見櫓だった。その時、酒室神社の狛犬も見たことは既に書いた。この時は狛犬を見ることが目的ではなかったので、下の写真を撮っただけだった。

 
酒室神社の狛犬も『諸職画鑑』と同じ様に「右の獅子に角あり、左の狛犬に角なし」像だ。頭についているものが角なのか、宝珠なのか判然としない像もあるが、この狛犬は違いが分かる。右の霊獣には宝珠ではなく、角が付いている。また「獅子は口を開け、狛犬は口を閉じている」はずだが、写真では両方とも口を開けているように見える。それでどっちが獅子でどっちが狛犬なんだ、とぼくは混乱していた。

上の写真左側のように角ではなく、宝珠をつけた狛犬(宝珠狛犬)は明治期になると姿を消すと『狛犬かがみ』にある。となると酒室神社の狛犬はかなり古いものではないか・・・。

狛犬の見どころのひとつである尾を後ろから見なかったし、台座に建立年が刻まれているかもしれないのに、それも見なかった。

もう一度見なくては・・・。


*1 宝珠ってなんだろう・・・。ぼくは桃をモチーフにしているのではないか、と思い始めている。古事記にも出てくる桃には邪悪なものを追い払う力が備わっていると言われている。イザナギの命が黄泉の国から逃げ帰る時、追手に投げつけた桃だ。眉唾な珍説じゃないと思うけどなぁ。


酒室神社の狛犬

2023-05-20 | C 狛犬

 神社の参道や拝殿前に鎮座している一対の狛犬は、もともと獅子と狛犬で別々の霊獣だ。違いは口を開けているか、いないか。それから角の有無。下の写真は4月に日光東照宮の表門(裏側)で撮った獅子・狛犬だが、向かって右側が獅子で口を開けている。左側が狛犬で口を閉じ、角がある。これが一般的なパターン。尚、一角獣の狛犬は想像上の動物。

   

先日(05.16)諏訪地域の火の見櫓めぐり(ヤグ活)をしたことは既に書いた。午後4時過ぎから6時過ぎまでのおよそ2時間、茅野のヤグラー・藤田さんと一緒にヤグ活した。最初に見たのは茅野市宮川の火の見櫓だった。すぐ隣の酒室神社に狛犬が鎮座していた。随分古そうな狛犬だ。

 

酒室神社の鳥居の先に鎮座している狛犬は、両方の霊獣が口を開けているように見えるし、向かって右側の獅子?狛犬?に角がある。上に書いた一般的なパターンとは様子が違う。

石造狛犬で角があるのは珍しい。せっかく角をつくったのに、ポキッなんてこともあったのでは。だから角をつくらないケースもかなりあったのだろう。

この獅子・狛犬、もう一度見たいなぁ。どっちがどっち?


 


長野市権堂町 秋葉神社の狛犬

2022-06-03 | C 狛犬

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長野市鶴賀権堂町の秋葉神社

 善光寺から長野駅に向かう途中で権堂商店街に入った。アーケードを進むと、秋葉神社があった。久しぶりに狛犬観察をした。

 
 
口を閉じている狛犬(向かって左)と口を開けてる獅子(向かって右)

左の狛犬は前を向かず横を向いて参道を見ている。これが大きな違いなのかどうか分からないが、他に造形的な違いはあまり無い。後ろ姿はよく似ている。狛犬には角があり獅子には角がないとされているが、向かって右の獅子の方が角に見える。

  


左側の狛犬の台座に慶應四年戊辰六月と建立年が刻まれていた。西暦1868年、今からおよそ150年前ということになる。この狛犬のように古いものを観察するのは楽しい。

残念なことに昭和以降、岡崎で狛犬が大量生産されるようになり、全国に広まったということだ。岡崎現代型と呼ばれるこのような狛犬を見てもおもしろくない。なかなか上手いデザインだとは思うけれど・・・。


 


木型

2022-03-18 | C 狛犬



 

 前稿に書いたように17日に塩尻のヤマトインテックという会社を訪ねた。安土桃山時代から連綿と続く鋳物製造を営む会社で玄関ホールに鋳造に必要な木型が展示されていた。かなり大きな狛犬と小ぶりな狛犬の木型もあった。①の木型は有明山神社の狛犬②(過去ログ)のものと思われる。撮影方向が違うので分かりにくいが顔回りが同形だと思う。


 


生坂村五社宮の狛犬

2021-08-27 | C 狛犬

 久しぶりの狛犬。東筑摩郡生坂村下生野の五社宮に古い狛犬がある、ということをしばらく前に地元紙・MGプレスの記事(8月11日付)で知った。先日、所用で近くまで出かけた際、五社宮に立ち寄って観賞した。



一般的には向かって右側が口を開けている阿形(あぎょう)の獅子、左側が角があって口を閉じている吽形(うんぎょう)の狛犬、という配置だけれど、ここの狛犬はこの特徴からすると、左右逆。設置するときに左右間違えた、ということでないことは狛犬の姿形から明らか。まあ、何事にも例外はあるもの、この場合も何らかの理由でこうなっているのだろう(と割り切ってしまおう)。以下、便宜的に左右とも狛犬と書くことにする。

▽右側の狛犬




石段を登ったところに鎮座している狛犬。狛犬の際まで階段が迫っているので、正面から写真が撮れなかったが、全体のバランスは良い。目が青い。MGプレスの取材記者も目が青いことに注目したようで、いつ頃から青かったのか、取材を試みたようだが分からなかったという。このくらいの彩色なら気にならない。なかなか顔つきも好い。


▽ 左側の狛犬



つるりんちょな体 



尾がつるりんちょ(平滑)な体に貼り付くように彫られている。参拝する時は正面か側面しか目に入らないが、後ろ姿にも注目したい。バックシャンな狛犬も少なくない。




嘉永六丑年という刻字がある。その上の二文字が読めない。下は時?上は分からない・・・。読めないのは知らない漢字だからではなく、知識がないから。左側の文字は惣代世話人と読める。嘉永六年は西暦で1853年、黒船来航の年。この年に建立された。今から270年近く前のことになる。


△ 拝殿


△ 神楽殿 


 


豊丘村大宮神社の狛犬

2020-10-23 | C 狛犬

 

 狛犬を載せるのは久しぶりだ。先日(16日)、飯田方面へ火の見櫓巡りに出かけた際、下伊那郡豊丘村の大宮神社に立ち寄って、この狛犬と出合った。

神社の参道などに鎮座している一対の「こまいぬ」、一般的には向かって右の口を開けているのが獅子で、向かって左の口を閉じているのが狛犬だ。そう、両者はもともと違う霊獣だ。獅子には無い角が狛犬にはあるのだが、石造狛犬ではあまり見かけないように思う。この大宮神社の狛犬にも角はない。

  

 

台座に昭和25年という建立年の彫り込みがある。狛犬としてはそれ程古いものではない。しばらく狛犬を取り上げていなかったので、観賞眼を無くしてしまったようだ・・・。これはたぶん岡崎現代型。


 以下過去ログ再掲


福島県西白河郡中島村川原田の川原田天満宮(川田神社)の狛犬

信州高遠藩出身の石工・小松利平(1804~1888)の弟子で後に利平の養子となった小松寅吉(1844~1915)の作品、その姿から飛翔狛犬と呼ばれる。蹲踞した旧来の狛犬からは想像もつかないほど独創的なデザイン。
















西日暮里 諏訪神社の狛犬

2020-02-14 | C 狛犬



 12日は都内のホテルに宿泊した。翌朝、山手線西日暮里駅近くの諏訪(諏方)神社へ。久しぶりに狛犬を観察した。





江戸後期、1809年(文化6年)生まれの狛犬。古い狛犬は総じて彫りがすばらしい。 目や口に色を付けることで顔の印象が変わってしまっている。無彩色の方が好み、狛犬には彩色しない方が良いと個人的には思う。向かって右側が獅子、左側が狛犬だが、その狛犬の大きな角が折れてしまっているのは残念。


拝殿

 



拝殿前の青銅製の狛犬

この狛犬の来歴が台座に彫ってあるようだが、見落とした。やはり落ち着いてきちんと観察しなければいけない。この狛犬を紹介しているサイトを参照させていただいた。

文化6年(1809年) 石彫狛犬 れ組頭中にて奉納
大正12年(1923年)9月 関東大震災破損修理
昭和20年(1945年)5月 戦災破損修理
昭和43年(1968年)5月 青銅狛犬再建

神社の案内板の説明に**日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めた**とあるが、地元の人たちがこの神社を大切に思っていることが、この狛犬の来歴からもうかがえる。