透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

年越し本

2022-12-31 | A 読書日記

 今日は12月31日、大晦日。

29日(木)、今年最後の朝カフェ読書。いつものようにスタバ、略さず書くとスターバックス松本なぎさライフサイト店でおよそ1時間コーヒーを飲みながら読書をして過ごした。

スタバに入る前にTSUTAYA北松本店で本を探した。直木賞作家・今村翔吾の『羽州ぼろ鳶組』は火消が主人公の時代小説で、江戸の消防事情が分かる。現在10巻までと番外編1,2巻が刊行されている。全て読もうと思っている。第5巻まで読んでいるので第6巻を探したが、書棚に並んでいなかった。残念。

ならば、新書だ、と新書のコーナーへ。で、買い求めたのが『城郭考古学の冒険』千田嘉博(幻冬舎新書2021年)。城についてそれ程興味があるわけでは ないが、何でも読んでやろう精神で。国宝松本城もあることだし。



**文字史料からわかることが歴史のすべてではなく、物質資料や風習・慣行を調べることによってはじめてわかる歴史や文化があり、文字史料からの研究と物質資料からの研究は対立するものではなく、お互いを補完し合う関係にある。だから中世や近世のようにたくさんの文字史料がある時代でも、考古学的に城を研究していけば、これまでの文字史料からの研究では見落としてきた歴史を、わたしたちはつかめるに違いない。**(21頁) 著者の千田氏はこのように城郭考古学という学問の意義を説いている。

この本で年越しだ。


拙ブログを閲覧していただいている皆さん、どうぞ良い年をお迎えください。

2022.12.31
透明タペストリー工房 U1


火の見櫓の形の分類

2022-12-31 | A 火の見櫓っておもしろい

 
火の見櫓構成要素とそれらの名称   (左:安曇野市三郷 右:諏訪郡富士見町)

 なぜ火の見櫓に惹かれるのか。その一番の理由は形の多様性にある。

改めて火の見櫓の多様な形の分類について考えてみたい。火の見櫓の形の共通性に注目してなんとなくいくつかのグループに分けてみる、というのではなく、網羅的に、体系的に分類できるようにしたい。どんな形の火の見櫓でも納めることができる引き出しが必ずあるというように、論理的な分類肢によって。そのためには火の見櫓を構成する要素(①左参照)の何に着目すれば良いのだろうか。

分類するのに最も有効な観点(着目点)は柱の本数だ。屋根や見張り台、脚が無くても構造上火の見櫓として成立するけれど、柱無くして火の見櫓は成立しない。柱の本数が1本の火の見柱、2本の火の見梯子も一般的には火の見櫓と呼ばれるが、櫓は立体構造を指すのであり、立体構造は柱が3本以上でないと成立しない。分類上、これらを異なる名称で明確に区別する。

 
 火の見柱(柱1本 上高井郡高山村)      火の見梯子(柱2本 大町市美麻)

立体構造の火の見櫓の分類で注目するのは屋根と見張り台の平面形。仮に屋根と見張り台が①の左のような円形だけしかないとなると、分類の観点として有効ではないが、どちらも三角形、四角形、六角形、八角形、円形、その他、があり、火の見櫓の印象に関わる構成要素でもあるので、分類上の観点として設定したい。

櫓と脚は異なる部位(構成要素)として捉えるのが妥当だと私は考えているが、同一部位と見做して脚と捉えている同好者も居られる。だが、私はどうもこのような捉え方に馴染めない。ヒトの体の胴と脚をまとめて脚と呼ぶようで。

分類肢の名称は簡潔であること、また分類の根拠(着目点)が明確に示されていることが望ましい。このような考え方により、次に例示するように表記することとしている。①左の火の見櫓(安曇野市三郷)は柱が3本で屋根の平面が円形、見張り台も円形で、3柱〇〇型。円形を便宜的に〇(マル)とした。右(諏訪郡富士見町)は柱が4本、屋根と見張り台が4角形で、4柱44型。4柱で6角形の見張り台はあるけれど屋根が無い場合は4柱無6型(柱4本の櫓、屋根無し、6角形の見張り台)。

屋根と見張り台の形を分類の観点としている同好者は少なくない。表記は屋根、見張り台の順と逆の見張り台、屋根の順の両方があるが、私は前者を採っている。

①の2基の火の見櫓の脚の形はかなり違う。しばらく前から脚のタイプ分けを加えているので、上から下の並び順、即ち屋根、見張り台、脚が分かりやすい。脚のタイプ分けについては改めて取り上げたい。脚のタイプを分類する観点がまだ明確に定まってはおらず、名称もまだまだ。

ここで余談。先日観た映画「ラーゲリより愛を込めて」に収容所の監視塔が出てくる。初めの収容所の木造の監視塔のタイプは4柱44型ブレース囲いだった。尚、ブレース(筋交い)は片掛け。後から出てくる別の収容所(主人公を含む何名かは帰還の途中列車から降ろされて、再び収容所行き)の監視塔は確か屋根が片流れだった。火の見櫓にも片流れ屋根のものがあるが、その場合は4柱片流れ4型ブレース囲いとでもするか・・・。

上述したような考え方で、全ての火の見櫓(一般名称)の分類がすんなりできるわけではない。トビウオのように海中から空中に飛び出して進む魚もいるし、ペンギンのように海深く潜る鳥もいる。両者を明確に分類できているのは、このような行動に迷うことなく分類する観点がきちんと定まっていて、明確な定義付けがされているから。

330
山梨県北杜市

これの分類どうする? 火の見柱?火の見櫓? 単純に柱が3本だから火の見櫓とすることには抵抗がある。海中を泳ぐからといって全てが魚ではないのと同じように・・・。尚、これは今のところ「火の見梯子控え柱付き」としている。

火の見櫓を明確に分類するためにはまだまだ、知識も足りないし観察も足りない。あれこれ考えることが楽しい。


 


こんな書店が近くにあったらいいなぁ

2022-12-30 | D 新聞を読んで

 信濃毎日新聞の12月25日付朝刊に岩手大学人文社会科学部教授・丸山 仁氏の「個性勝負 街の書店の可能性」と題した論考が掲載されていた。丸山教授はネット通販全盛の時代にあって、**リアルな店舗に人を呼び込むためには、「店舗にまで足を運ぶ理由」、「店舗でしか味わえない楽しみ」を提供する工夫が鍵となる。**と指摘し、その仕掛けのひとつとして「御書印プロジェクト」を紹介している。

今年3月に全国の46店舗で始まったプロジェクトは10月22日時点で381店舗にまで広がったとのこと。私が時々行く塩尻市の中島書店もその内の1店舗。御書印は試みとしてはおもしろいと思うけれど、残念なことに有料だ。無料なら集めてみようかなと思わないでもない。いや、集めないか。本を買う書店は数店に限られるし、御書印だけのために書店に行こうとも思わないので。

また、論考には**「書店ゼロの市町村が全国で26%」という報道が目に留まり、愕然とした。**とあり、全国1位の沖縄県に次いで長野県では51.9%の自治体に本屋が無いことが紹介されている。

この数字は12月28日付 の同紙の「時の顔」というコラムにも出ていた。この日は文藝春秋の社長・中部嘉人(なかべよしひと)さんが紹介され、**長野県内で書店がない市町村の割合は52%を占め、沖縄県に次ぐ高い割合だったとの最近の全国調査結果を残念がる。「われわれもいい本を出し続けるので書店さんも頑張ってもらいたい」**

長野県は全国で最も村の数が多く、35ある。次いで沖縄が19(2022年10月1日現在)。人口の少ない村には書店が無いことが多いだろうから、沖縄県や長野県に書店の無い自治体が多いことは当然といえば当然のことだろう。

人口当たりの書店数を比較したらどうなるだろう。人口10万人当たりの書店数をネットで探すことができた。長野県は8.40軒で12位、結構多い。比較の仕方で結果は随分違うものだ。印象も違う。東京都は書店が全国で最も多いが、10万人当たりでは8.28軒で意外なことに長野県より少なく13位だ。

丸山教授は**日々の暮らしの中に本屋がない。そんな社会を私は子供たちに残したくない。**と書いておられる。このような視点で考えるなら、確かに書店の無い自治体が多いということは残念なことだと思う。小さな村にも書店があればいいなぁと思う。

この論考に長野市の「書肆(しょし)朝陽館」が紹介されている。この書店の前身は明治初期から続く老舗とのこと。**店主の情熱と目利き力で真っ向勝負をする姿勢は同じ。(中略)同店にはセンスで勝負の雑貨屋と、居心地のよさそうなカフェを併設している。コーヒーの香りに包まれて、早速買った本を読みふけるもよし、その場で友人と推し本談議で盛り上がるもまたよしである。** 同感。

善光寺に初詣に行くことにして、帰りにこの書店でコーヒーを飲みながら本を読もうかな。  「店舗でしか味わえない楽しみ」ってこのようなことを指すんだろうな。


 


キミの名はメジロ、だよね。

2022-12-29 | D キミの名は?

 隣家の柿の木はどうやら今年が当たり年のようで、収穫していない木にたくさんの実がついている。その柿の木に常連客のヒヨドリの他に小さな野鳥が来ていた。目の周りに白い輪、となるとメジロ。



メジロはウグイスとともに春の野鳥というイメージがあるけれど、冬でもちゃんと餌を求めて柿の木にもやって来る。メジロはヒヨドリより小さくて動きが俊敏。数枚撮ったうちの1枚だけ横向きの姿が写っていた。ピントがきちんと合っていないのか、ぶれているのか、シャープな写真ではないけれど記録として載せおきたい。


 


ブックレビュー 2022.12

2022-12-28 | A ブックレビュー



 少し早めの12月のブックレビュー。読了本は7冊。

『暴走する遺伝子 人類はパンドラの箱を開けてしまったのか』岡田正彦(平凡社新書2002年)
我が僻村の文化祭の企画「中古本プレゼント会」で見つけた本。もうパンドラの箱を開けてしまったんだろうな。
**遺伝子技術なんて、いらない!徹頭徹尾科学的に〝遺伝子幻想〟に警鐘を鳴らす。**カバー折り返しに書かれているこのことばがポイント。

『小説作法XYZ 作家になるための秘伝』島田雅彦(新潮選書2022年)

『すごいタイトル㊙法則』川上徹也(青春新書2022年)
書籍、映画、テレビ番組、楽曲、WEBコンテンツ。これらのタイトルの分析、論考。なるほど!な指摘あり。

『紫式部ひとり語り』山本淳子(角川ソフィア文庫2020年)
平安朝文学を研究する著者が研究成果を一般読者に分かりやすく説くために紫式部のひとり語りという形式をとって、「源氏物語」や「紫式部集」などからの引用をまじえて紫式部の日常、心の内面を詳細に綴った本。読みやすい良書。

『ルポ 副反応疑い死 ―ワクチン政策と薬害を問いなおす』山岡淳一郎(ちくま新書2022年)
コロナワクチンについて国が不都合な真実まで明らかにしているとは限らないし、メディアがすべてを伝えているとは限らない。ワクチン接種が自然免疫に何らかの影響、それも悪い影響を与えているということは認識しておいた方が良いのではないかと思う。


以下、この本を読んで書いた記事の一部を再掲する。

接種当日より、翌日に死亡するケースの方が3倍くらい多い。このことについて次のような記述がある。**半数を超える死亡者が接種後数日以内で亡くなっている事実は、ワクチン接種との密接な関連を黙示しているだろう。**(075頁)確かにワクチン接種と接種後死亡との間に因果関係がないのであれば、下の棒グラフは均一化されて、もっとフラットになるはずではないか。


△ 本書074頁にはワクチン接種後の死亡までの日数と死亡例のグラフが掲載されているが、その引用元のグラフ(「COVID-19ワクチン接種後の死亡と薬剤疫学的評価の概要」一般財団法人LHS研究所 )


『日本の分水嶺』堀 公俊(ヤマケイ文庫2011年初版1刷、2021年同4刷)
**「日本の背骨」を地図で旅する列島縦断6000キロ** 北海道の宗谷岬から鹿児島県の佐多岬まで連なる1本の線「中央分水界」は途中、ごく身近なところを通過している。これからは風景の見え方が変わるかもしれない。

『僕に方程式を教えてください 少年院の数学教室』高橋一雄・瀬山士郎・村尾博司(集英社新書2022年)
少年院で矯正教育の一環として行われた数学の授業に取り組んだ立場の異なる3人が、その意義と効果について綴った本。

**数学の本質(抽象性、論理性、記号化)はきちんと押さえて教える、計算の意味を理解してもらい、問題を解くだけの数学にはしない、解法の暗記にはしない、という合意をしました。**(147,8頁)


今年1月から12月までの1年間で「ブックレビュー」に載せた読了本は79冊だった。月平均6冊。5日で1冊か・・・。読書は趣味と言えるのかどうか、ぼくにとって読書は食事と同じ、日々の基本的な営みだ。まったく本を読まないという日はほとんどない、食事をしないということがないように。読書は量より質なのかもしれないが、それは月に4冊くらい読むということが前提の話ではないのかな・・・。

360
角田源氏全3巻、約2000ページ。

今年の成果は読まずに死ねるか本の『源氏物語』を読んだことに尽きる。長年の念願がようやく叶った。うれしい。 『源氏物語』を読んでいく経過をブログに書くことで、自分を律することができた。

今年も残すところ、あと4日。年越し本を探さなくては・・・。


 


今年の読み納め本は・・・

2022-12-27 | A 読書日記

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『僕に方程式を教えてください 少年院の数学教室』高橋一雄・瀬山士郎・村尾博司(集英社新書2022年)

 本書にかけられた幅広のブルーの帯に**数学の授業が矯正教育に驚きの効果をもたらす**とある。なぜ、数学の授業が矯正教育に有効なのか・・・。

**論理的思考の視点から、数学教育は生活指導における自分の考え、経験を文章化するための論理的思考の基盤となり、彼らの「内面を言語化」する下支えになっていると言って過言ではないと考えます。
「内面を言語化」するとは、いわば、自己を客観的にとらえ直すことであり、漠然と感じていた罪への反省感情をきちんととりだせる、自分を確立することにつながります。**(116頁)

なるほど、こういうことなのか、と思いながら読んでいる。

**「心の扉には取っ手は内側にしか付いていません。外側には取っ手がないのです」**(12項,124頁) 
内発的に心を開くようになる子どもたち・・・。

子どもたちのこころを育てるということはどういうことなのか、どうすればそれができるのか。今年の読み納めは重いテーマの本になった。


 


宗谷岬から佐多岬までを結ぶ1本の線

2022-12-26 | A 読書日記


『日本の分水嶺』堀 公俊(ヤマケイ文庫2011年初版1刷 2021年初版4刷)

 北海道の宗谷岬をスタートする中央分水界はどこを通って鹿児島県の佐多岬にゴールするのか・・・。日本列島を縦断する1本の線の存在を意識してから、このことを知りたくて本書を読んだ。この線上に塩尻峠や善知鳥峠があることは知っていたが、他の地点については全く何も知らなかったから、そうなのか、の連続で興味深く読んだ。

本書は北海道、東北、関東、中部、近畿、中国四国、九州と地方毎に章立てされ、第四章の中部編が7節まである他はそれぞれ4節にまとめてある。各節はさらに何項かに分けられ、全体で128項で構成されている。

著者は本書について次のように書いている。**(前略)大分水嶺の完全踏破記録でもなければ、洒落た紀行エッセイ集でもない。強いていうなら、大分水嶺という長大な未踏峰を紹介する〝知的エンタテイメント〟である。**(はじめに 15頁)著者によるこのような総括的な紹介は好ましい。何を書くのか、何を伝えたいのかを意識していないと、読者には分かりずらい書き方になりかねない。

中央分水界が長野県では身近なところを通過している、それもかなりまわり道していることを知ることができたし、琵琶湖周辺ではどこを通っているのかも知ることができた。知らないことを知ることって実に楽しいものだ、と改めて思った。

ところで本書には本州の中央分水嶺を単独完全踏破した人(*1)がいることが紹介されている。約2,800キロ、39年かけての踏破! ただただ、凄いとしか言いようがない。どんな世界にも凄い人って必ずいるものだ。


*1 細川舜司さん 『日本の「分水嶺」を行く』(新樹社)


 


平均寿命 人生長短じゃない

2022-12-25 | A あれこれ



 今朝(25日)、自分に課したのは24日付 信濃毎日新聞朝刊に掲載されたこの記事で何か書く、ということ。

**長野県は「寿命自体は伸びており、全国トップレベルの水準は維持できている」(健康福祉政策課)状況。ただ、前回15年より順位が落ち「残念だ」とした。今後は病気の早期発見・早期治療や健康づくり県民運動の推進などで更なる健康増進を図るとし、担当者は「次回はトップに戻りたい」と意気込んだ。** (拙ブログでは**で引用範囲を示しています。)

2020年の都道府県別平均寿命で長野県の女性の寿命が前回(2015年)の1位から4位になったということが、厚生労働省が5年ごとに発表している生命表で分かった、と記事にある。今回1位となった岡山県と4位の長野県の差は0.06歳。365日×0.06=21.36日、3週間の差・・・。人生で3週間の差に意味があるのかどうか、ぼくは意味があるとは思わない。人生は長短だけで捉えるべきではない、と思うから。

横軸に時間(人生の長さ)を据えるなら、縦軸に密度というか、生活の充実度という評価軸を据え、そこに描かれるグラフの積分値(面積)で捉えるべきだと思う。漫然と日々を過ごすのではなく、充実の日々を過ごす。そうすると、縦軸の値が上に行く。結果、グラフの面積は大きくなる。

時間と充実度による評価。そのために自分の価値観でキッチリ生きなきゃなぁ・・・。一寸の光陰軽んずべからず、だな。


 


「日本の分水嶺」を読む

2022-12-24 | A 読書日記

  


■ 今月(12月)の初めに塩尻市のえんぱーくで上のような塩尻市の地形模型を見た。赤の毛糸で塩尻市と他の町村との境界が示されている。その赤い糸をトレースするように黒い毛糸が伸びている(*1)。この黒い毛糸は分水界(分水嶺)の連続線を示している。

塩尻峠や善知鳥(うとう)峠のような雨水を分かつ境界点が連続的に連なって、日本列島に降る雨を太平洋側と日本海側に分けていることは容易に思い至ることだが、それがどこを通っているかということについてはこの模型を見るまで考えたこともなかった・・・。

上の地形模型を見た時、この黒い毛糸で示されている連続線は模型以外のところではどこを通っているのだろう、と思った。ネット検索して『日本の分水嶺』堀 公俊(ヤマケイ文庫2021年初版第4刷、2011年初版第1刷)を見つけた。


文庫本のカバーに日本列島の大分水界が赤い線で示されている。

この本の「はじめに」で用語の説明がなされている。以下その引用。
** 一本の川に雨や雪が流れこむ範囲を流域(集水域)と呼ぶ。お互いに隣り合う流域の境界線が「分水界」(流域界)である。(中略)その中で分水界が山や尾根にある場合は「分水嶺」と呼ばれる。**(8頁)分水界の大半が分水嶺であるために、分水界を分水嶺と呼ぶこともあるようだ。
**「中央分水界」とは、太平洋に注ぐ川と日本海に注ぐ川の分水界である。**(9頁)
**中央分水界から分岐する主な支線を加えると、日本の分水界の主脈がすべて網羅できる。これが本書のテーマである、総延長六〇〇〇キロにも及ぶ「大分水界」なのである。(9頁)

前述したように、えんぱーくで塩尻市の地形模型を見た時、分水界は日本列島のどこを通っているのだろうって思った。この本を読めば、その答えを知ることができる。うれしい。

さあ、北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬まで、全長6,000キロの旅、スタート!


書かれている文章は情緒的ではなく、論理的だ。著者・堀 公俊さんが大学院の工学研究科を終了された方であることと、無関係ではないのかもしれない。

*1 地形模型で下側の(善知鳥峠)から上の(鉢盛山)に至るまで、かなり遠回りをしていることが分かる。このことについて、本には**信濃川水系の奈良井川が中央アルプスに深く切れこ込んでいるため、その源流部流域をもつ旧楢川村をほとんどひと回りさせられてしまう。いわばこのあたりは、大分水界六〇〇〇キロの中でも屈指のまわり道ゾーンになっているのだ。**(192頁)と書かれている。近くにこんなゾーンがあることをこの本読むまで全く知らなかった・・・。このまわり道は善知鳥峠から一旦南下して、木曽駒ケ岳近くまで行き、北上に転じて引き返している。本のカバーを見ると、このゾーンはY 形になっているので確認できる。なるほど、こうなっているのか・・・。


「ラーゲリより愛を込めて」

2022-12-22 | E 週末には映画を観よう

 来週観ようと思っていた映画「ラーゲリより愛を込めて」を昨日(21日)観た。

この映画の原作、『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』辺見じゅん(文春文庫2021年23刷)を6月に読んだ。文庫本には帯が付いていて**珠玉の人間賛歌、心震わす感動巨編、映画化決定! 監督・瀬々敬久 主演・二宮和也 2022年公開予定**と大きな文字で書かれていた。このノンフィクションを読み終えた時、映画が公開されたら是非観ようと思った。山本幡男という人の人間性に強く惹かれたので。こんな素晴らしい人が実在したんだ、という驚きと感動。

カテゴリーを「週末には映画を観よう」としたのは、金曜日にはDVD(*1)を無料で借りることができるために映画を観るなら週末だ、と考えたから。でも映画館で観るなら平日の方が空いているだろうと思って昨日観た。カテゴリーは直さないでおこうと思う。

さて、映画「ラーゲリより愛を込めて」。

1945年(昭和20年)8月敗戦。シベリアの強制収容所(ラーゲリ)に収容された男たちの中に山本幡男がいた。極寒の地での過酷な労働、ひどい食事、栄養失調・・・。劣悪な状況下、死んでゆく仲間たち。だが、山本は決して希望を捨てることなく、仲間を励まし続けた。そんな山本を病魔が襲う。癌だった、それも末期の。余命3カ月という診断。彼は遺書を書くことを勧められる。

帰還が認められた時、書かれた遺書をどのようにして日本に持ち込み家族の手に渡すか・・・。紙に書かれた遺書を持ち帰ることはできない。見つかればスパイ行為として再び収監され、帰国(ダモイ)できなくなる。そこで彼らが考えた方法、それは遺書を暗記することだった。妻に宛てた遺書、子ども達に宛てた遺書、母親に宛てた遺書・・・。映画では分からないが、原作によると遺書の全文は字数5400字。一字一句確実に覚える・・・。

映画では山本幡男が収容所の仲間たちから人望を得ていく過程や、特にぼくが関心を持っていた、厳しい監視下で遺書を暗記する何人かの仲間たちの苦労、努力の様子の描写が思いの外、少なかった。

帰国(なんとそれは敗戦から11年後、1956年(昭和31年)12月のことだった)を果たした彼らが、家族の住まいを尋ね当て、奥さん、子どもたち、母親の前で暗唱、書き起こした遺書を手渡す。

その場面は感動して泣いたけれど、その後には不要ではないかと思われるショットがあったりした(言うまでもないことだが、これはあくまでもぼくの個人的な感想に過ぎない)。

映画の中では今現在、2022年に物語を直接的に繋ぐ場面があったが、この辺りは観客を信頼して表現しなくても良かったのではないか。観客はこの映画をそれぞれの想いで今現在に繋げたと思うから。

山本幡男の妻・モジミは夫の死を知った時、庭にとび出して慟哭する。この場面は部屋に座ったまま、静かに、理性的にと言っていいのかどうか分からないけれど、深い悲しみをぐっとこらえて、下を向いて嗚咽するというような表現でも良かったのではないか、と思う。観客はモジミと同じように嗚咽するから。同じような泣き方をすることで観客の心はモジミの悲しみにより共振するのではないかと思う。ぼくはそのような表現であれば、もっと泣いたと思う。

エンドロール。ここは出演者たちや映画製作に関わった多くの人たちの名前がゆっくり下から上へ流れていくような表現が似つかわしいと思ったなどと書けば生意気かな。流れる音楽は静かなピアノ曲だったら良かったなぁ、と感じた。もちろんこれもあくまでも個人的な感想だが、表現者の手を離れた作品を観客はどのように観賞してもよい、と言い訳めいたことも書いておこう。

*****

拙ブログを閲覧していただいている方にこの映画をお薦めしたいと思いますし、出来れば原作も読んでいただきたいと思います。


*1 先日の記事でVDVなどと書いてしまったが、なぜそんな間違いをしたのか分からない。DとVの組合せで、脳が視覚的なイメージ、同じアルファベットの間に別のアルファベットが入っているというイメージだけで、間違えた並びでの入力をぼくに指示した、ということなのかもしれない。


「思考力」って?

2022-12-21 | D 新聞を読んで



 今朝の(21日付)信濃毎日新聞の教育面に上掲した**国の教育目標の一つに位置付け 「思考力」あなたはどう考える?**という見出しの記事が載っていた。「コンパス」というコラムにこの記事を書いたのは数学者の秋山 仁さん。

学習指導要領に新たに掲げられた「思考力、判断力、表現力等」の中で、思考力については具体的な内容が示されていないそうだ。で、研究会「思考力を育む」を東京理科大学で開催して識者が議論したとのこと。「思考力を磨きなさい」と先生や親に言われても子どもたちは戸惑うだろうと。子どもたちに具体的にどうしたらいいの?と尋ねられたら、どう答えますか?と秋山さんは問う。それで、見出しは「思考力」あなたはどう考える?となったのだろう。

コラムの中で秋山さんは**思考力のある人を「問題発見能力と問題解決能力を兼ね備えている人」と定義づけている。自分で問題を見つける。そしてその問題を自分で解決する。従来の教育では子どもたちは与えられた問題について解き方を教えてもらい、それを暗記するということが一般的ではなかったか。暗記と言えば地理や歴史などの元々暗記ものと言われる科目はもちろん、数学でさえ、解き方を暗記する科目だと言い切る者もいた、と私の遥か彼方の記憶にはある。

思考力が求められるというのは時代の要請だろうか・・・。いや、本当は前々からそうであったように思われる。取り掛かりとなる「なぜだろう」という問いかけを普段からしているだろうか・・・。

答えがあるのかどうなのかなどと、先回りしてそんなことは考えずに、常に色んなことに「なぜだろう」という問いかけをするという姿勢でいたいものだ。

コラムの結びは次の通り。**皆さんは「思考力」について、どうお考えでしょうか?**


 


「アバウト・シュミット」

2022-12-21 | E 週末には映画を観よう

 週末には映画を観よう。先週の土曜日(17日)にジャック・ニコルソン主演の「アバウト・シュミット」をDVD(*1)で観た。

保険会社を66歳で退職したシュミットはネブラスカ州オマハで奥さんとふたり暮らし。さて、ネブラスカってどのあたりだっけ? ネット検索してアメリカのほぼ中央に位置する州だと分かった。デンバーに暮らす一人娘は結婚間近。

退職後、特にすることもないシュミットは退屈な日々。ある日、テレビでアフリカの子どもたちの支援プロジェクトを知り、6歳の少年の養父になる。で、少年に手紙を書くことでうっぷん晴らし。

ある日、シュミットが出かけている間に(郵便局に行っていたんだっけかな)、奥さんが急死してしまう。

孤独・・・。シュミットは奥さんと一緒に旅行に行こうと買っていた大型のキャンピングカーで娘を訪ねていくことにする。孤独を癒す旅。

娘の結婚相手の男も気に入らないし、男の家族も気に入らないシュミットだったが、結婚式ではきっちりスピーチ。でも孤独は癒えず。

ラスト、アフリカの少年から届いた手紙には少年が描いた絵が同封されていて、その絵を見たシュミットは涙する。人と人との繋がりって、とても大切なんだ、ということがストレートに伝わる絵。絵を見て僕もウルっときた。

ジャック・ニコルソンが定年退職した男を演じているなら、おもしろいというか、共感することもあるだろうと思って見たけれど、ストーリーは起伏に乏しく、ジェットコースター的なストーリー展開の映画に慣れてしまった者としては物足りなかった。次はあり得ないほどハッピーなストーリーの映画を観たいなぁ。そんな映画、何かあるかな。

そして、来週は「ラーゲリより愛を込めて」を観よう(原作は感銘を受けた『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』辺見じゅん(文春文庫))。

320


*1 まったく気がつかなかったけれど、DVDをVDVと書いていた。なぜだろう。ある方に指摘していただいたので訂正した。どうやら老人力がついてきたようだ。

ご指摘ありがとうございました。



「ドーダ」なのかな

2022-12-19 | A あれこれ

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 今日は12月19日。今年も残すところあと2週間となった。少し早いけれど、今日から来年、2023年のダイアリーを使い始めた。この時期になると、来年の予定が入ってきたりするのでそれらを記入するのに必要だから。毎年使っているダイアリーもこのような事情を考慮しているのだろう、12月の後半のおよそ2週間分が記入できるようになっていて、来年のダイアリーは19日(月)から。今日は年賀状を書いていたので、このことを生活記録欄(*1)に書き込んだ。書いた枚数も記入したから来年の今ごろ、参考になるだろう(昨年末に書いた今年の年賀状よりかなり枚数を少なくした)。

自室には1981年のダイアリーから保管してあり、2023年のダイアリーで43冊目になる。40年以上も前からの日々の仕事や生活が記録されている。自分の来し方を振り返るのに役に立つ。あの年のあの日、何をしたのかが分かるのだから。歳を取ってますます昔のことを懐かしく思うようになった。過去を振り返ってみたところで、それが何になるというのか・・・。けれど、過去志向は変わらない。

ここまで書いてきて、ふと、なぜこんなことを書いているのだろうと・・・。自問するに、「ドーダ」なのかなと思った。

「ドーダ」という言葉は東海林さだおの『もっとコロッケな日本語を』文春文庫に出てくる。この本には「いそがし自慢ドーダ」や「教養ドーダ」、「経済力ドーダ」などドーダな人が何人も登場する。ドーダは「ドーダ、おれってすごいだろう」の「ドーダ」だ。

ブログには色んなドーダが書かれている。海外旅行で高級ホテルに泊まった、ドーダ。こんなに凝ったお弁当作っている、ドーダ。高級外車でドライブした、ドーダ。

40年以上も生活記録つけてんぞ、「ドーダ」。って別にどうってことないなぁ・・・。


*1 横線しか入っていないダイアリーに縦線を何本か書き込んで、使いやすいように・・・、そう、カスタマイズしている。そうして本や新聞、ネットなどから得た情報を記録する欄も設けている。


 

 


「ルポ 副反応疑い死」を読んだ。

2022-12-18 | A 読書日記


 上掲した「免疫機能 過剰反応か 新型コロナワクチン 接種後死亡の4人」という見出しの記事が9月18日付 信濃毎日新聞に掲載された。気になる記事だったので、切り取ってクリアファイルに入れて手元に置いてある。

以下記事からの引用。**(前略)ウイルスを攻撃する免疫調節機能が過剰反応(暴走)し、患者の身体を攻撃する「サイトカインストーム」が起きて死亡した可能性があるとみており(後略)**

ヒトは体内に入り込んだウイルスに感染した細胞を攻撃する自然免疫システムを備えている。その免疫システムがワクチン接種によって混乱してしまい、本来攻撃対象ではない健全な、即ちウイルスに感染していない細胞まで攻撃してしまう・・・。このことで、細胞の集合体である臓器がダメージを受けて機能不全を起こす。それで最悪死に至る。ぼくはワクチン接種の負の側面をこのように理解している(あるいは間違った理解かもしれないが)。

9月18日の記事、広島大学の研究チームがまとめた成果を全国紙はどう伝えているのだろう・・・。気になって当日の朝日、毎日、読売、産経各紙をえんぱーく(塩尻市の図書館)で閲覧したが、記事は見当たらなかった。仮に私が見落としたなら、ごく小さく報じていたということだろう。ワクチン接種推奨という観点から、懸念材料を載せてはならぬなどと考えたのか、報ずるに値しない小さな情報と考えたのか・・・。

たとえ不都合なことであっても報ずべきは報じて欲しい。メディア情報はワクチン接種を受けるか、受けないかの判断材料になるのだから(そうでもないか)。ぼくは信濃毎日新聞の姿勢を歓迎したい。




『ルポ 副反応疑い死 ― ワクチン政策と薬害を問いなおす』山崎淳一郎(ちくま新書2022年)を読んだ。ワクチン接種後の死亡事例がレポートされている。帯に**ほとんど報じられない、ワクチンと死の関係に迫る。**とある。新聞などのメディアが報じようとしないのであれば、この様な本を読んで知識を得るしかない。

**「(前略)大手の新聞やテレビは、深刻な副反応の問題をほとんど報じませんね。国のワクチン推奨の方針に従っているからでしょうか。ワクチンがコロナ対策で必要だとしても、メディアは本当のことを言わなきゃいけませんよ」**(185頁)これは三種混合ワクチン接種を受けた娘さんが接種被害を受け、国を相手に行政訴訟を起こし、全面勝訴した方のコメントだ。

本書には合理的に考えればワクチン接種が原死因ですと解剖医がコメントしているような事例でもγ判定(評価不能)と判定された事例が紹介されている。「予防接種健康被害救済制度」があるけれど、実際に適用されるケースは極めて低い。**医学的に接種と有害事象の因果関係を方程式を解くように完璧に立証するのは不可能である。**(139頁)という事情によるのだろう。著者は続ける。**ワクチンを推奨した国は、被害を受けた人を救い、補償する責任を負っている。**(139頁)


 △ コロナワクチン接種会場で渡されたリーフレットに載っている「予防接種健康被害救済制度」の説明文 


   △ 厚生労働省のHPより

メモ:「副反応被害報告書」と「予防接種健康被害救済制度」とは異なる。

ワクチン接種が死に至るプロセスの惹起要因であることが確認できるような事例は救済して欲しいと思うけれど、設定されているハードルがあまりにも高い、ということを本書を読んで感じた。ワクチン接種した当日は元気でも翌日、2日後に自宅で急に亡くなって、家族が申請しても因果関係不明として扱われてしまっているのが実情ではないのか。そもそも申請に必要な書類をそろえることができるのかどうか・・・。

接種当日より、翌日に死亡するケースの方が3倍くらい多い。このことについて次のような記述がある。**半数を超える死亡者が接種後数日以内で亡くなっている事実は、ワクチン接種との密接な関連を黙示しているだろう。**(075頁)確かにワクチン接種と接種後死亡との間に因果関係がないのであれば、下の棒グラフは均一化されて、もっとフラットになると思うけれど。


△ 本書074頁に掲載されているワクチン接種後の死亡までの日数と死亡例のグラフの引用元のグラフ(「COVID-19ワクチン接種後の死亡と薬剤疫学的評価の概要」一般財団法人LHS研究所 )

接種翌日(2日目)の死亡者数が多い。また翌日のグラフの構成内訳の日付を見ると、カラーでないから分かりにくいが、日付が後になるほど死亡者数が増えていることが分かる。5月26日(1番下)と7月21日(1番上)で確認できる。この傾向は上のグラフで6日目まで読み取れる。これは接種回数と死者数との間の関連性を示しているのではないか・・・。

過去にも例えば天然痘やインフルエンザ、腸チフスなどの予防接種の事故例がかなりあったけれど、国が誠実に対応してこなかったという歴史的経緯についても本書に紹介されている。

**「(前略)COVID-19ワクチン接種は、人為的なCOVID-19感染とみなすことができます。それゆえ、ワクチン接種はSIRS(*1)を誘発するかもしれません」**(203頁)

信濃毎日新聞が報じた広島大学の研究チームのコメントが本書に載っている。ワクチン接種が人為的な感染とみなせるのであれば、接種によってコロナにかかって重症化したような状態に陥ることだって起こり得る、と理解することは間違いではないだろう。

他の本(*2)にはADEという現象が紹介されていた。その本には次のように説明されている。**ウイルス感染やワクチン接種によって体内にできた抗体が、感染や症状をむしろ促進してしまう現象** これもワクチンの懸念事項。


*1引用者注:全身性炎症反応症候群
*2『コロナワクチン 失敗の本質』宮沢孝幸 鳥集 徹(宝島社新書2022年)


私は18日の午前中に5回目のワクチン接種を受けた・・・。やはりワクチン接種については、諸情報をよく確認して各人がそれぞれ判断すべきでしょうね。


 


旧武川村のマンホール蓋

2022-12-16 | B 地面の蓋っておもしろい




  山梨の山荘からの帰路、北杜市武川町三吹で見た最後の火の見櫓、27基目(過去ログ)を背景に旧武川村のマンホール蓋の写真を撮った。

マンホール蓋(直径60cm)に円を入れてその外側に稲穂と「むかわ」「農集排」という文字を入れている。円の内側には中央に滝(精進ヶ滝)、左側に桜(山高神代桜)、右側に松(舞鶴松)を配している。この桜と松は国の天然記念物だという。無難にまとめたという印象のデザイン。

上の写真に舞鶴松と国道20号の案内板が写っている。


この火の見櫓とマンホール蓋を見た後、自宅目指して国道20号をひた走った。で、自宅着5時40分、走行距離は158km(2日間 計339km)だった。火の見櫓巡りをする時は思いのほか歩く。11日の歩数は約5,700歩、12日は約1,800歩だった。

本稿で11,12両日の火の見櫓巡りの記録を終了する。