■ 秋のフォトアルバム 080831
田んぼって水を張るんですから水平なんですよね。
ンなこと、あたり前じゃんと突っ込まれそうです。
今までそんなことを意識したことなかったんです。
カフェ・シュトラッセの横長の窓から田んぼを見て、
そうか田んぼって水平なんだ、って思ったんです。
日本浮世絵博物館 篠原一男 松本市島立南側外観
■ コンクリート打ち放しとガラスの組み合わせによるシンプルでグラフィックな南側外観。正方形が横に3つ並んでいる。正方形は1辺が7.2メートルだろうと合板型枠の枚数で判断。真ん中の正方形の左下の暗くなっているところが入口、その向こう側にガラスとコンクリートの直角2等辺3角形。コンクリート面の面積を求めよ、と中学の数学の問題になりそうな外観。
東側外観
東側も南側と同じ正方形が3つ横に並んでいる。手前はガラスの正方形でフレームの割付は合板型枠と同じ大きさのたぶん0.9m×1.8m、奥はコンクリートの正方形。
篠原さんの初期の住宅作品に「白の家」や「から傘の家」があるが、これらの作品の平面も正方形、シンプルな形で構成されている。篠原さんは正方形が好きだったのかも知れない。作品集でも手元にあればたぶん理由も分かると思うのだが・・・。
■ 考現学、生活学の今 和次郎(こん わじろう)。今は北海道から九州、さらに朝鮮半島まで各地を訪ね歩いて生活空間としての民家を観察して膨大なスケッチとメモを残した。大正から昭和初期にかけてのことだ。それらの多くを収録した『民家 見聞野帖』柏書房を久しぶりに取り出して眺めた。
やはり民家観察は、いや対象がなんであれスケッチが大切だと改めて思った。きちんと対象を詳細に観察してスケッチして初めて気がつくことが少なくないことは私も経験している。上の写真に納めたのは東京檜原村数馬の民家、1923年のスケッチだ。
私が檜原村を訪れたのは1978年のことだった。その頃は東京で生活していたが休日によく郊外に出かけていた。少しまとまった休みには遠出もした。北は北海道や東北、南は四国、九州にも出かけた。だが、民家と出会っても全景写真を撮るのみ。詳細な観察をすることなどほとんどしなかった。
あの頃もっと系統的に細部まできちんと観察して記録に残してたら、今頃有効な資料となっただろうに・・・。
人生を航海に喩えることがあるがその航海にはなんと後悔の多いことか。後悔なんてしても意味ないのに・・・。そういえば「愛とは決して後悔しないこと」とかいう映画のコピーがあったっけ。そうポジティブに!ポジティブに!
あれ、民家の観察記録の話じゃなかったのか。
今月の帯3本
■ 今日で8月も終わり。北京オリンピックにくぎ付けな日々であったから、今月読んだ本は新潮文庫3冊のみ。
夏目漱石の『こころ』期間限定スペシャルカバー、シンプルでモダンなカバーデザインに惹かれて購入、読了。
先生が手紙で告白した孤独な内面、ミステリーに欠かせない心理描写として白眉であった。そう、今回はミステリー小説として読んだのだった。
梯久美子の『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』戦争の愚を読み継ぐ責務あり。
『東京奇譚集』久しぶりの村上春樹。カフェで読んでいたディッケンズの「荒涼館」を隣りの席の女性も読んでいた・・・。
**偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過されてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけれど、空を見上げても何も見えません。**
私が『こころ』を読み始めたときMも『こころ』を持って東京から帰ってきた。偶然同じ小説を読み始めていたのだった。
愛知県岡崎市の美合町では昨日(29日)、午前2時までの1時間に146ミリの雨量を記録したそうです。3、40ミリでも大変な豪雨ですから、100ミリを越える豪雨はもう想像もつきません。「バケツをひっくり返したような」、とよく形容されるのですがそんなものではないでしょう。
映画「インデペンデンス・デイ」には直径が24キロ!という巨大なUFOが町を覆い尽くすように出現しますが局地的に降る豪雨はこの位の大きさの水槽を一気にひっくり返したくらいなのかもしれませんね。
小松左京に「首都消失」という小説があります。映画化もされたと思います。首都圏が巨大な雲に覆われてこの国が機能不全状態に陥るというSFです。局地的に発生した雨雲からの降雨ということであれば、巨大なUFOより「首都消失」の雲の方が実際の気象現象のイメージに近いのかもしれません。でも巨大なUFO程もある水槽をひっくり返したようだという先の表現のほうが今回の豪雨の激しさがイメージできるのではないかと思います。
床上まで浸水したとなると復旧が大変でしょう。大切なものが紛失したり壊れてしまたり・・・。被災された皆さんにお見舞い申し上げます。
松本市梓川(旧南安曇郡梓川村)で見かけた道祖神 文化八年(1812年)
■ 梓川(地名)は安曇野の南端に位置しています(安曇野のエリアは明確ではありませんが、梓川(河川名)より南側は安曇野からは外れると思います。これはその梓川(もちろん地名)で見かけた道祖神です。
道祖神の石質は安山岩が多いそうですが、この道祖神は花崗岩(白みかげ石)でできています。花崗岩の道祖神も珍しくはないようですが、私は白い道祖神を初めて見ました。よく目にする安山岩の道祖神は黒っぽいのです。
このように祠(?)に納まった道祖神は珍しいのかもしれません。但し道祖神に関する知識が無いため定かではありません。
これからは路傍の道祖神に注目してみたいと思います。何体も収集すれば自ずと何か気がつくことが出てくるでしょう。
■ 前稿で全国で2つしかないレアなポストについて書きました。塩尻市贄川、あと1つは香川県善通寺市にあることが分かりました。全く同じデザインのポストです。徳島という曖昧な記憶は間違っていました。
■ 北京オリンピックが閉幕しましたね。昨晩は閉会式をテレビ観戦しましたが、開会式同様、光りの演出が凄かったです。ハデハデ電飾、電飾とは古い表現ですか、ハデハデ・イルミネーションが文化(?)の中国らしい演出だったと思います。
国家体育場には「鳥の巣」という愛称が付けられているので、テレビに映し出される映像も先入観で「鳥の巣」に見えてしまいますが、私には抜け殻のようにも見えました。巨大な昆虫か何かの抜け殻。
上空からの映像はモスラか何かが飛び立ってきた抜け殻を俯瞰しているようにも見えました。そう、昔見たゴジラの映画のハイテク版のようなシーンにも見えたのです。
開会式も閉会式もこの「鳥の巣」の特徴を活かした見事な演出だったと思います。
ところで「鳥の巣」の映画があります。 http://torinosu-eiga.com/
残念ながら上映館が限られていて長野県では観ることができません。北京オリンピックの競技施設で話題になったのはなんといってもこの「鳥の巣」と「水立方」でしょう。他の会場の外観を私は一度もテレビで目にしませんでした。
東京オリンピックの施設で日本の建築レベルの高さを世界に示し、最も高い評価を得たのは丹下さんの代々木体育館でしたが、あの体育館は見る者に「和」をイメージさせます。日本を体現しているといってもいいかもしれません。
「鳥の巣」のゴチャゴチャした鉄骨フレーム、その溶接長さは延べ320km!にもなるのだとか。人海戦術によって完成したこの施設は、いろんな問題を抱えて混迷する中国の現状をビジュアライズしたもののようにも思えます。
オリンピック開催期間中、文章の頭に○をつけていましたが、本稿から■に戻しました。
○ 8月8日午後8時に華々しく開幕した北京オリンピックが今夜閉幕する。国威発揚、オリンピック開催の目論見としてはもう古いと評されようが中国はそれをした。
開会式の光りの演出は凄かった。例えば打ち上げ花火の大きな足跡が鳥の巣に向かって進んでいくあのシーン、上空からの映像が実はCGだったことが発覚した。でも凄い発想だと思った。
日本の選手はかつてのように日の丸の重圧など感じていないように見えた。まあ、それがあったとすれば野球や男子サッカーなど期待に反して不甲斐ない結果に終った団体競技の選手たちだろう。いや彼らにもそんな重圧などなかったかもしれない。
2大会連続で2冠を達成した北島康介にとって北京は自己実現の場ではなかったか。彼に限らない、私は多くの選手にその想いを感じた。
スポーツ競技は筋書きのないドラマだとよく聞く。なるほど確かにそう思わせる場面をいくつも見た。思い浮かぶままに挙げていくと、バトミントンで実力世界一の中国ペアを破った日本のペア(残念ながらふたりの名前が分からない)。3位決定戦で見せた谷亮子の豪快な一本勝ち。女子マラソン、まさかの途中棄権、土佐礼子の悲壮な表情。男子体操、吊り輪のフィニッシュで手がすべって落下した冨田。何回対戦しても勝利することができなかったアメリカを破って優勝した女子ソフトボール。上野選手の熱投、解説をしていた前監督の絶叫。個人記録のトータルだけで考えるとメダルに届かなかった男子400mリレー、何回も繰り返し練習したという絶妙のバトンリレー、強豪チームがバトンリレーで失敗して予選落ちというツキもあって獲ったメダル・・・。
華やかなオリンピックの陰で起こっているグルジア紛争や中国軍による発砲事件・・・。今回のオリンピックも本来の開催理念からは遠かった。
深刻だといわれている大気汚染、食の安全性、バス爆破などのテロ、大地震。開催前からいろいろあった中国でのオリンピックが今夜幕を閉じる。アルコールしながら閉会式をテレビ観戦するか。
1964年の東京オリンピックは戦後日本の復興を世界にアピールした大会だったというのが一般的な評価のようだが、この北京オリンピックに歴史はどのような評価を下すことになるのだろう・・・。
○「**「あの、今お読みになっておられるご本なんですが、それはひょっとしてディケンズじゃありませんか?」**
ピアノの調律を仕事としている彼はショッピングモールの大型書店で本を買い求め、カフェで読書に耽る。毎週火曜日の午前中の過ごし方だった。
閑散としたカフェの隣り合った席で、偶然にもまったく同じ本を読んでいた二人。そのことに気がついた女性が彼に声をかけたのだった。
不思議な巡りあわせに驚いた二人は初対面であるのにすっかり打ち解けて、昼食をとりながら最近読んだ小説や音楽について話し込んだのだった。
翌週の火曜日も二人は同じカフェで同じように過ごした。ある日女性は彼の手を握って告白をするのだが・・・。
『東京奇譚集』村上春樹/新潮文庫読了。
この文庫には5編の短編が収められている。この「偶然の旅人」はロマンチックに始まるが、そこは村上春樹、単なる恋愛小説ではもちろん終らない。奇譚の顛末を書いてしまうのは野暮だと思うのでこれ以上内容には触れない。
「品川猿」はときどき自分の名前を思い出せなくなってしまう女性が主人公。カウンセリングを受けつづけて、原因がやがて明らかに。タイトルと関係があるその原因とは・・・。
昨夏読んだ長編小説とはだいぶ雰囲気が違う作品ばかりだった。この作家の作品では長編のほうが私は好きだ。またいつか長編を読もう。
○ 先日初めて「カーボンフットプリント」という言葉を耳にしました。直訳の「炭素の足跡」だと意味不明ですね。
ある商品の一生、そう製造から廃棄に至る過程で排出する二酸化炭素の重量を各ステップごとに捉えてその総量を商品に表示する、というものだそうです。
地球温暖化の原因とされる二酸化炭素の排出量に注目して、消費者が表示された総量の少ない商品を選択、購入してくれたら・・・。そんな目論見のようです。
でも国内で製造されている、例えば食品を考えてみると、算出方法が分かりませんがメーカーによって製造過程で二酸化炭素の排出量に有意な差があるとは思えません。輸送時に排出される二酸化炭素の排出量には差が出そうですが、輸送先毎に表示を変えるなどということができるのかどうか。
例えば松本でつくっている、「久星のかりんとう」(ふと思い出しました。高校のクラスマッチの賞品が久星の箱入りのかりんとうだったことを)を九州まで輸送して販売する場合と地元松本で販売する場合とでは輸送時の二酸化炭素の排出量が明らかに異なります。この違いが「カーボンフットプリント」に反映されるような算出基準なのかどうか。もっと大雑把かもしれません。
机上の理論としては興味深いと思いますが、実態にうまく適応できるのかどうか・・・。
また、この「カーボンフットプリント」という指標はあくまでも二酸化炭素の排出量を減らすという目的のための手段だと思いますが、指標の算定が目的化してしまうのではないかと気になります。
こんな難しいことを考えなくて、もっとシンプルに、食品ならまず国内での自給率をアップさせよう、更に「地産地消」を推進しようということではいけないのかな、と私は思ってしまうのですが・・・。
成り行きに注目です。
追記
りんごさんのブログでコンビニの深夜営業はやめようという趣旨の記事を読みました。「カーボンフットプリント」はどのような営業形態の店舗で商品が販売されるか、によっても変わるということに気がつきました。でも商品に表示される指標には販売条件の違いによる二酸化炭素排出量の違いなどは当然反映されないですよね。やはり有意な値を表示することは不可能なのでは。
ついでに書くとコンビニなどが全国一律に営業時間を決めているのはいかがなものか、と思っています。24時間営業などという利便性が全国どこでも必要ということはないと思います。
都市は眠らなくなって不健康になったと思います。人にも都市にも充分な睡眠が健康上必要ですよ。
○ そうだった。昨年の夏は村上春樹の長篇小説を読んでいたのだった。長篇を一通り読了するのに約80日かかった。ジュール・ベルヌの小説に倣って「八十日間 村上春樹の旅」と書いておいたような気がする・・・。
昨晩の酔族会でSさんから今「クロニクル」を読んでいると聞いて昨夏の読書を思い出した。昨年の8月、ブログに好きな本を3冊に絞り込むことができなかったので4冊挙げている。赤く表示した4冊。順位はつけていない。
『羊をめぐる冒険』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『海辺のカフカ』
『アフターダーク』
あれから一年、今振り返ると、ものがたりとしては「海辺のカフカ」が一番よくできていて、面白いし、読みやすかったと思う。この作家の表現には隠喩的なところが多々あって、読む人によっていろんな解釈ができるところが魅力なのだ。この長篇にもその特徴があるが、素直に解釈して読み進むことができたと記憶している。
昨晩の酒席で村上作品では「アフターダーク」が一番と言った。この小説のどのような点を評してそう言ったのか説明しにくいが、特に印象に残っているのがこの作品だ。
そして一年ぶりに読む村上作品はこれ。
○ 松本城は松本一の観光スポット。せめて月見櫓には足の不自由な人でも上り下りできるようにとバリアフリー化の研究を始めたと地元の新聞・市民タイムスが報じています(写真)。
お城は敵方の進入を阻止するためにバリアフルですが、松本城は国宝に指定されているために新たに手を加えることができないそうです。スロープを設けることなど許可されないということなんですね(善光寺にはスロープが設置してありますが、なぜ設置できたのか理由は知りません)。もっとも松本城の場合、仮にスロープの設置が認められたとしても平面計画上難しいのでは。
建築的な対応が出来ないとすれば、人的な対応しかないと私は性急にも結論してしまうのですが、他に方法があるのかどうか。
体の不自由な人を運ぶために背もたれ付きの椅子のようなものを用意して、両側から二人で持ち上げて階段を上がり下りするという方法、基本的にはこの方法に限られると私は思います。
運ぶ人が階段で躓いたりしたら危険ですから、後は安全性をどうやって向上させるかがポイントになるでしょう。あるいはもう少し建築的な設えをお城の床や壁に固定しないように、いつでも片付けることができるように、行うという方法も採りうるかもしれません。
どのような方法が採用されるのか注目です。
○ 北京オリンピック、これからの興味は「なでしこジャパン」女子サッカー。決勝トーナメント進出がかかったノルウェー戦はすごかった。今夜はアメリカとの準決勝だ。
競技施設の情報を探してみると「日経アーキテクチュア」と「THE ARCHITECTURAL REVIEW」に載っていた。
「水立方」についてはあの大空間がどうして無柱で成立するのか、よく分からず霧中であったが、「日経アーキテクチュア 08/11号」に少し情報が載っている。
まず設計はオーストラリアに本社のあるPTWアーキテクツ。アラップというロンドンに本社のある総合技術コンサルティング会社がサポートしているようだ。コンピュータによる構造解析を繰り返して合理的なデザインを追及したという。
内部の熱環境を制御するシステムの概念図が載っている。小さくてよく分からないが2重の外皮の間に空気層が設けてあって、地上近くから外気を取り込んで屋根面から排気・排熱するようになっていると理解できる。
この2重の外皮はそれぞれ2層のフッ素樹脂フィルムでつくられている。2層のフィルムを風船状に膨らませて使っているのだが、その内部にさらに銀色のドットをプリントしたフィルムを使っているのが「ミソ」。ただしそれが内外どちらの外皮に使われているのかは記事からは分からないが銀色のドットで日射を反射させて温室のような水立方の室温を制御しているのだ。
水をモチーフに採って室温の制御にも上手く利用している優れた外皮デザインだと思う。残念なのは「日経アーキテクチュア」にこの技術の詳細についての説明がないこと。「建築技術」あたりで特集でもしてくれないかな。あるいは技術の全貌は公開されていないのかもしれない。
信濃毎日新聞(0817)読書面より
○ 今日の朝刊の読書面に取り上げられた『<盗作>の文学史』栗原裕一郎/新曜社の書評の**倉橋由美子「暗い旅」や庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」における海外作品の「模倣」疑惑(後略)** という件(くだり)を読んであれっ?と思った。
芥川賞受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』は高校生のときに読んだ作品だが、模倣疑惑があったとは・・・。知らなかった(「有名な話なのに知らなかったの」という声が聞えてきそうだ)。
ネットで検索すれば何でも載っている。この模倣疑惑についても何件もヒットした。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は昨年だったけ、あるいはもう一昨年のことかな、村上春樹訳が出て話題になったが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』とこの作品のプロットや文体(野崎孝訳)とがよく似ているというのだ。
小説に限らない、芸術全般に模倣疑惑はある。もちろん建築作品にも。詳細はすっかり忘れたが、プレハブ住宅のメーカーが他社のデザインを模倣したとして訴えられたことがあった。
建築に限らないと思うが過去の作品の「写し」はよく行われるし、「オマージュ」も模倣につながりやすい、というか模倣ではないかという指摘もある。
現代建築のボキャブラリーはコルビュジエが全てつくってしまっているともいわれる。その後の建築家はコルビュジエから引用してるだけ、という指摘は極端に過ぎるとは思うが、オリジナルなデザインの創造はやはり難しいと思う。
人は「未知」な状態をなかなか認知しようとしない。「既知」のものに帰着させようとする「癖」が脳にはあるらしい。だから建築作品、いや芸術作品を鑑賞する時にも既知のものに結びつけようと脳はするのかもしれない。その反応が既視感となるのだ(などともっともらしいことを書いてしまおう)。
月の表面の影だって餅つきをするうさぎだとか読書をする女性だとかカニだとか、既知のものに見立ててしまうではないか。あるいは星座だってそうかも知れないぞ、ばらばらな状態、わけの分からない状態はやはりいやなのだ。そこでばらばらな状態を秩序付ける「星座という方法」を考え出したのかもしれない。
なんだか、まとまらなくなってきた・・・。いきなり書き出すからいつもまとまらないのだな。
人は全く未知の、オリジナルなものなど創り得ないのかもしれない。少年少女雑誌(例えば小学館の「小学一年生」などのような)に昔よく紹介された火星人だってタコのようだったではないか。そして提示された作品を鑑賞する際にも既知のものに帰着させようとする。
創造する人も観る人も知らないものは嫌なのだ。それ故「模倣」ではないかという感想は常についてまわるのだろう。
以上、眉唾な「模倣について考える」をでっち上げて本稿、おしまい。