■ 「龍馬伝」が終わった。大河ドラマを欠かさず観たのは今回が初めてだった。このブログに既に書いたことだが、私は「龍馬伝」を恋愛ドラマとして観ていた。 円柱だって方向によって円にも四角にも見える。ドラマだって同じこと、いかようにも観ることができる。
龍馬の幼なじみ・加尾。千葉道場の佐那の憂いを帯びた表情。お龍が時々みせたどこか寂しげで、ちょっと暗い表情。長崎のお元のコケティッシュな表情。ストライクゾーンは広めかもしれない。お龍はそのど真ん中だった。
このドラマはどのように終わるのか興味を持って最終回を観た。私は龍馬が刺客に襲われた瞬間、それに同調するように画面も突然真っ黒になって、白い「完」の文字がすっと出て、その後エンドロールが静かに流れる・・・、とシーンの流れをイメージしていた。ドラマでは「付け足し」のようにその後の弥太郎を描いていた。あれ「弥太郎伝」だっけ、このドラマ・・・。
このドラマは映像がリアルでしかも美しかった。逆光の多用、強調された光と影、斬新なカメラアングル。
これで欠かさず観る番組が日曜美術館だけになった・・・。
■ 雑然とした風景。そこにシンボルが置かれるとなんとなく風景がまとまって、秩序すら感じるから不思議だ。雑然とした風景がシンボリックな存在の引き立て役になるからだろうか。松本市内の常念通りと呼ばれる通りから見る常念岳、この風景を一例として示す。
200810撮影
凡庸な風景に火の見櫓が加わるとなんだか魅力的に見える。これは火の見櫓ファン故の「あばたもえくぼ効果」によるものだと思っていたが(「あばたもえくぼ」はよく知られたことわざだからその効果とは何かについては特に説明を要しないだろう)、どうやらそうではなさそうだ。常念通りの風景同様、雑然とした風景がシンボルを引き立てるから、と理解した方がよさそうだ。
東京は西新宿、超高層ビルが林立する風景(近景)をそれ程好ましく思わないのはすべてのビルがシンボル的な存在であって、脇役的な建築がそこに無いからではないか。 ヨーロッパの地方都市が美しいのは、シンボルとしての教会の塔を周辺の低層群が引き立てるという、火の見櫓と集落と同様の関係によるものかもしれない・・・。
松本市今井にて
■ 松本清張の多くの作品が過去に何回かテレビドラマ化・映画化されている。もう何年も前に観た映画『砂の器』は印象的な作品で、ハンセン病の父親と全国を放浪する主人公の少年の姿が美しい風景と共に今でも記憶に鮮明に残っている。この映画は原作を越えた出来栄えだった。
『球形の荒野』はヨーロッパの中立国で終戦処理に奔走した外交官・野上顕一郎とその家族の「悲劇」を描いたミステリー。原作を最初に読んだのは中学生の時か、高校生の時。手元にある文庫(写真)は1975年と1998年に読んだというメモがある。
昨晩、テレビドラマ化された同作品の前編を見た。小説のラストは印象的だが、さて今晩の後編、そのラストやいかに・・・。
実は昨晩見た前編のあまりにも説明的な表現が気になっていた。これはミステリーのはずなのに・・・。今夜(27日)見た後編もそうだった。妻と娘を、そして国民を救うために自ら根なし草になった野上顕一郎の孤独。
「彼にとって、地球そのものが荒野だったんですね」いくらなんでもこの台詞はないだろう。タイトルの「球形の荒野」をこうもストレートに説明されては味気ない。
小説はお互い相手が誰であるのか知りながら、そのことを口にしないで野口雨情の童謡「七ツの子」を一緒に歌うことろで終わる。 ところがドラマは娘が男に「お父さん」と呼びかける。どうもこれも味気ない。
映画『砂の器』は原作を越えた出来栄えだったと書いたが、このドラマは原作を越えることはできなかった、残念ながらそう思った。
**国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。**川端康成の『雪国』の書き出しはよく知られている。
この書き出しとよく似ていると思うのが、**上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中**という「津軽海峡冬景色」の歌い出し。
ともに実に簡潔で上手い導入だ。
**道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すざまじい早さで麓から私を追って来た。** 『伊豆の踊子』の書き出しはなかなか味わい深い。
ストーリーはなんとなく覚えていたが、わずか40頁の短篇小説だということは忘れていた。
一人伊豆の旅に出た二十歳の私、修善寺温泉から湯ヶ島温泉へ。そして天城峠の茶店で旅芸人の一行と一緒になって、その後、湯ヶ野、下田へと同行。その間の芸人たち、とくに踊子・薫との交流を描いている。
**「あの芸人は今夜どこに泊るんでせう。」** と茶店の婆さんに問えば**「あんな者、どこで泊るやら分かるものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊るんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」**との答え。
湯ヶ野では別の宿に泊ることになるが、**踊子の今夜が汚れるのであらうかと悩ましかった。**などと私。
川端康成の小説にはエロティックな雰囲気が漂っている。この小説の場合、高校生くらいの年齢だと思っていた踊子が子どもだと分かってその雰囲気は消えていくのだが。
さて、次は何を読もう・・・。
■ 『日も月も』川端康成/角川文庫を読み終えた。36年も経つと随分変色していて、使った後のコーヒーフィルターのような色になっている。
**真裸の漁夫たちが、大鮫をかついで、画面の右から左へ、二列にならんでゆく。漁夫たちはみな前を向いているのに、一人の漁夫だけが横目をして、こちらを向いている。ぱっちりと涼しい目で、少女のように美しい顔だが、若者であろう。その一つの顔だけは色白で、細かく描き上げてある。その顔にくらべると、ほかの漁夫たちの顔は未完成のようだ。**(71頁)
この小説にはある絵画について、このような記述がある。
ある絵画とは、そう、青木繁の「海の幸」。小説のヒロイン・松子がある男性とブリヂストン美術館でこの絵を観る場面が出てくる。川端康成は絵画にも関心を持っていたようだ。そうでないとここまで詳細には書かないだろう。
ある男性とは松子のかつての恋人の弟で、ふたりで京都に旅行するところで小説は終わる。
読後感についてはいつか書く機会があるかもしれない。
メモ)
小説にでてくる絵画:夏目漱石(過去ログ)の「草枕」にミレー(ミレイ)のオフィーリア(ハムレットのヒロイン)がでてくる。このミレーは19世紀のイギリスの画家で先日書いた「晩鐘」のミレーとは別人。
■ 生活のリズムを可視化する。
21日(日曜日)の夕方、テレビ番組「夢の扉」を見た。日立製作所・中央研究所で行われている情報システムに関する研究開発を紹介するという内容だった。
番組で紹介された研究では腕時計型のセンサネット端末を24時間つけて活動し、腕の動き、脈波、皮膚温度を測定・記録して生活の基本的なリズムを把握する。得られた情報を体の活動量によって小から大の5段階に分け、それぞれに色を対応させて、時間軸に沿って表示する。こうして生活のリズムを可視化する。このビジュアルな情報を「ライフタペストリー」と呼ぶ。
テレビの天気情報で全国の気温分布を寒色から暖色の代表色によってビジュアルに表示しているのを見るが、情報の可視化(視覚情報化)という点で「ライフタペストリー」もこれと同じ。
「ライフタペストリー」を見れは、休日は遅くまで寝ている、毎日決まった時間に起床している、仕事中にオフィス内をよく歩いている、デスクワークが多い、といった活動パターンを直感的に把握することができる。
多くの他人のデータと比較すれば個人の活動の傾向はもちろんのこと、性格までが把握できるという。毎日同じパターンを繰り返す人は几帳面、というようなことだろうか。
企業の研究には(最近では大学の研究も)実用性が求められるが、例えばどのような活動パターンの時、仕事のモチベーションが高いか、といったことを自己分析することで、「ライフタペストリー」の仕事上での有効活用が可能だ。医療や老人介護の分野でも活用できよう。
番組では会社内で誰と誰がコミュニケーションしているかをビジュアルに表現する研究も紹介された。そのパターンを見れば組織が健全かどうか判断できるという。こちらは既に実用化され、いつかの企業に採用されているという。
見えない情報をビジュアルに表現してみたい(過去ログ)という好奇心というか、欲求は程度の差こそあれ、誰にでもあるのではないか。紹介された研究の根底にあるのは、この欲求だろう。興味深い番組だった。
■ 『山の音』、『千羽鶴』、『みずうみ』に続き『日も月も』を再読中。1974年の8月に読んだというメモがある。36年前の夏はこの小説を読んでいたのか・・・、と変色した頁を繰りながら思う。
**別府の裏の城島高原から見る由布岳もきれいでしたが、豊後中村駅から飯田高原にのぼる道で、九酔渓の紅葉が見られました。十三曲りをあがりきって振りかえると、逆光線が山裏や山ひだの色を沈めて、紅葉の美しさが深まっていました。山の肩からさす西日が紅葉の世界を荘厳にしていました。**(「千羽鶴」 波千鳥 新潮文庫222頁)
**
「桔梗もうつむいて咲くかしら。」
「はあ?」
「桔梗の花より小さいと思うが、どうだ。」
「小さいと思いますわ。」
「はじめ黒いように見えるが、黒でないし、濃い紫のようで紫でないし、濃い臙脂(えんじ)もはいっているようだな。明日、昼間、よく見てみよう。」
「日なたですと、赤みがかった紫色に透き通ります。」
**(「山の音」旺文社文庫190頁)
川端康成は自然に美を見出し、それを小説の中に効果的に織り込み続けた作家だった、と改めて思う。

秋のフォトアルバム 101121
■ 自然豊かな鄙里に暮らしていながら、野草や野鳥に疎い。
この頃、鳥が柿の実をついばんでいる。今朝、自宅の窓から写真を撮った。頻繁に動く鳥は枝に隠れてしまったり、後ろ向きになったりするから写真を撮るのは難しいことがわかった。
三脚を使って性能のよい望遠レンズでじっくりねらわないと鳥の鮮明な写真は撮れない。コンパクトカメラで撮れるのはせいぜいこんな写真だと、腕のことをを棚に挙げて書く。
さて、この鳥の名前は? ネットで調べてみた。ヒヨドリではないかと思うがどうだろう・・・。
野草や野鳥がきちんと同定できれば楽しいだろうな。
117
■ 松本市の南西に位置する神林からは、前常念岳と常念岳を結ぶ稜線が見える。市内から見える常念岳とは姿が違う。この地区の火の見櫓は常念岳を背にして立っている。すっかり葉を落としているのは桜の樹。来春、花の咲くころもう一度ここに来よう・・・。
「常念岳と火の見櫓」を収めることができるスポットは、案外少ないかもしれない。でも捜せばまだ見つかるだろう。
116
■ 松本勤労者福祉センター(松本市中央)のすぐ近くにこの火の見櫓が立っている。中心市街地をやや外れる立地。
平面が三角形の櫓は上方に向かって次第に細くなっているが、その絞り方が直線的で男性的な力強さを感じる。もし隅柱のアングルが脚部から上方へ曲線を描くように絞り込まれていれば女性的で優美な姿になっただろう。
円形の見張り台。手すりは実用に徹していて装飾が無い。緩勾配の円錐屋根、骨組が少し反っているようにも見える。
この火の見櫓も本来の役目を終えているのだろうか、スピーカーが設置されている。どうもスピーカーは火の見櫓には似合わない。火の見櫓本来の素朴な美しさが損なわれる。でも、取り壊されてしまうよりはマシか・・・。
追記140426 カタクラモールの再開発事業に伴って消防団詰所と共に解体撤去することが決まっている。
■ 『子どもの絵は何を語るか 発達科学の視点から』東山明・東山直美/NHKブックスを読み終えた。
過日、ある保育園で廊下に展示された子どもたちの絵(運動会などの行事の様子を描いた絵)を見る機会があったが、年齢によってかなり表現が違っていた。そのことを思いながら読み進んだ。
全八章から成るこの本で興味深かったのは、第五章の「立体や空間をどう認識し表現するか――三歳児から小学六年の絵の表現の変容」だった。
机の上に置いたサイコロ、皿の上に置いた三つのリンゴ、テーブルで食事をする家族、まるい池の周りに立つ六本の旗などを子どもたちはどのように表現するか・・・。著者は14,000点もの作品をもとに調査研究したという。
子どもたちの絵は年齢によって明らかに空間表現が違う。例えば水の入ったコップ。3歳児の描いた絵ではコップであることが分からない。4歳児から小学2年生くらいの子どもは側面を描く(左)。小学1年生から3年生くらいの子どもは口は楕円だが水面や底を直線に描いている(中)。小学4年生から6年生は口も水面も底も楕円形に表現している(右 個人差があるので年齢分けには巾がある)。
コップを立体的に表現するまでの過程
サイコロも、さらに複雑なテーブルで食事する様子も、年齢による表現の変化がなかなか興味深い。空間表現の推移が子どもたちの絵から見てとれる。
**子どもの絵を年齢順に見ていくと、どの子どももほぼ同じ発達の道筋をたどり、絵の表現にも共通性がある。**と著者は指摘している。
空間表現については、あらかじめ脳にプログラムされているということなのだろうが、表現に共通性があるというのは不思議なような気もする。
本書には著者のふたりの子どもの「絵を通しての成長記録」も章を割いて紹介されている。そうか、こういう方法があったか・・・。
秋のフォトアルバム 101114
ミレーの晩鐘! カフェ・バロの駐車場で目にした夕景。
ミレーは19世紀フランスの画家。農村に画題を求め、農民の暮らしを描いた。
「落穂拾い」や「晩鐘」、「種まく人」はよく知られている作品だ。
私が好きな「晩鐘」。
凡庸に見える農民の日々の暮らしにミレーが見出した崇高な営みが描かれた傑作。
静かな夕景、聞こえてくる鐘の音に畑で祈りを捧げる農夫婦。
移ろう季節、まもなく安曇野は冬景色に・・・。
115 東筑摩郡筑北村坂井(旧坂井村)にて
半鐘の音が遠くまで伝わりそうな環境
脚元に小さな道祖神が立っている
のどかな田舎の晩秋