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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ブックレビュー 1001

2010-01-31 | A ブックレビュー



 早いもので1月も今日で終わり。2月3日が節分、翌4日は立春!

1月のブックレビュー。

『神社の系譜 なぜそこにあるのか』**日本人は太陽を神として崇拝してきた。(中略)仏教では「西方浄土」といって西に「あの世」があるとするのも太陽崇拝の影響である。**この本は古今「東西」について、私なりの結論を得るのに参考になった。

『なぜ対馬は円く描かれたのか 国境と聖域の日本史』この本のタイトルから、日本列島が実際より東西方向にデフォルメされて描かれることがあるがそれはなぜ? この疑問について考える参考になるのではないか、と思って読んでみた。

『星のない街路』北杜夫の初期短編集。表題作は東ドイツから脱出してきたドイツの17歳の娘との交情を描いている。俗っぽい物語になってしまいそうだが、純文学に仕立てているのはさすが。「河口にて」は水産庁の漁業調査船の船医としてヨーロッパに出かけたときの体験がベースになっていると思う。「どくとるマンボウ航海記」も同体験を綴ったものだが、この「航海記」とは全く違った雰囲気の小説。

『日本辺境論』は辺境志向の日本人に関する論考だが、「奥」について考えるきっかけともなった。

『自然界の秘められたデザイン』著者はイギリスの大学教授。シンプルな数学的な秩序で成り立っている、という自然観。このことが「中心」志向のヨーロッパ人のベースになっていて、都市の構造にも反映されていると思う。「奥」志向の日本人とは対照的。このことについては改めて。


塩尻短歌館

2010-01-30 | あれこれ学ぶ



 広丘(旧広丘村、現塩尻市)は「近代短歌のふるさと」といわれています。広丘を中心として松本平から諏訪にかけて多くの歌人を輩出したことに拠るとのことです。

広丘にある塩尻短歌館(写真)は平成4年に開館しました。塩尻市大門にあった旧家を移築したものだそうです。説明板によると建設は明治元年(1868年)とのこと。立派な本棟造りです。今日(30日)久しぶりに出かけてみました。


展示の様子(蔵造りの展示棟)許可を得て撮影しました。

短歌館にはこの地に生まれた歌人太田水穂や若山喜志子(牧水夫人)、上諏訪町出身の島木赤彦(伊東豊雄設計の記念館が諏訪湖のほとりにあります)、松本市和田出身の窪田空穂(生家の向かいに柳沢孝彦設計の記念館があります)、湖みどり(喜志子の妹)、若山牧水らの資料が展示されています。

本棟造りの本館の後ろにある「いきいき学び庵」には短歌フォーラムで入選した小中高生の作品が展示されていました(塩尻では毎年夏に短歌フォーラムを開催しています)。

館内には、全国から寄贈されたという歌集を集めたコーナーもあります。数千冊もの歌集が書棚に納められています。短歌が趣味なんていいですね~。

命ひとつ
露にまみれて
野をぞ行く
はてなきものを
追ふごとくにも

太田水穂の短歌をメモしてきました。こんな気持ちで仕事に取り組めたらいいなって、仕事人間な私の感想です。


北へ奥へ

2010-01-30 | A あれこれ考える
 昨年末から年明けにかけてなぜ古今「東西」なのかについて考えていた。古来から太陽を(神として)崇拝する日本人の心的傾向、メンタリティーと大いに関係がある、と私なりに結論付けた。

登山をすると山小屋の外であるいは山頂で昇る朝日、御来光に手を合わせる。「初日の出」を毎年意識する。太陽のことをお天道様と言ったりもする。これらには太陽に対する特別な想いが出ている。東志向。

東志向な日本人だが、同時に「北」志向でもあることは、演歌が好んで北を歌うことにも表れている。「北国の春」、「北帰行」。「帰ってこいよ」で松村和子は都会から北へ帰って来いよと歌う。

この「北」がただ単に方角を表すことばではないことは明らかだ。「北」は故郷、日本人の心の奥底にある原風景としての故郷を象徴している。

「北」は「奥」と言い換えてもいいだろう。先日安楽寺で考えたのはこのことだった。安心できるのは「中心」ではなく「周辺、隅」、そして「奥」。そう、心の拠り所は「奥」にあるのだ。

被災者が町の広い体育館に避難する時、まず壁際に場所取りすることにも中心、中央ではなく隅が心が落ち着き安心できる場所であることが現れている。

別所温泉は塩田平の隅にあり、安楽寺はその温泉街の奥にある。この寺は日本人の「奥」志向が具現化されている。なにもこの寺に限ったことではないが。

古今「東西」から「北」、「奥」へと彷徨う・・・。

「ワインバーグの文章読本」

2010-01-29 | A 本が好き 



『ワインバーグの文章読本』翔泳社(発行2007年11月)。きれいなカバーデザイン。このデザインなら料理の本もありかな、と思う。友人に教えてもらった。

翔泳社? 国内に一体どのくらい出版社があるのか知らないが、この本の出版社の名前ははじめて。カバーには**ワインバーグ流「自然石構築法」で着想表現文章の組み立て方構成が楽しくおもしろくわかる!!**とある。

この週末読もうと思う。


三九郎マップ 中間報告

2010-01-28 | 日々の暮らし・行事



ネット検索して見つけた長野県行政界地図(マップファン)に色を付けました(塩尻市は緑色になっていますが、ピンク色で確定すると思います)。

「どんど焼き」のことを松本地方では「三九郎」と呼びます。では一体そのエリアは? この当然の疑問について、このところ知人・友人にヒアリングしています。今回はその中間報告です。いままでのヒアリングの結果、三九郎と呼んでいることが分かった市町村をピンク色で示しています。

大町方面では松川村と池田町(この地図では分かりにくいですが安曇野市の北に位置しています)まで。大町以北はどんど焼きです。

長野方面では、生坂村(池田町の東隣)も三九郎と呼んでいることがわかりました。筑北村は本城村、坂北村、坂井村が合併して出来ましたが、どんど焼きと呼んでいるようです。ただし旧本城村では三九郎と呼ぶところもあるようです。ここが境界でしょう。安曇野市になった旧明科町の隣村ですからそのことも頷けます。筑北村の隣り、麻績(おみ)村もどんど焼きです。

松本市の東側、青木村や上田市、長和町それから下諏訪町と岡谷市、辰野町は山によって分断されていますからどんど焼きでしょう。佐久市や千曲市はどんど焼きです。

残りの木曽方面については塩尻(旧塩尻市)は三九郎ですが、塩尻と合併した旧楢川村がまだ分かりません。木曽町はどんど焼きということが分かっています。木祖村(木曽郡木祖村です。「きそ」の漢字表記がなぜか違います)もまだ分かりません(Aさん、旧楢川村木祖村をよろしく)。

両村が分かれば三九郎マップは確定、としていいと思います。旧楢川村は三九郎、木祖村はどんど焼きと予想しています。ですから塩尻市がピンクに変わって三九郎マップは確定でしょう・・・、たぶん。




「奥性」 別所温泉の安楽寺で考えたこと

2010-01-25 | A あれこれ考える






安楽寺 八角三重塔(国宝) 撮影 100123

 別所温泉にある古刹 安楽寺。この寺には八角三重塔がある。昭和27年に長野県で初の国宝に指定されたと説明板に記されている。この塔は松本城よりも、善光寺よりも先に国宝に指定されたということになる。

塩田平を縁取る里山の麓に別所温泉はあるが、安楽寺はその温泉街の「奥」の山腹にひっそりと佇んでいる。

山門に続く長い階段をゆっくりのぼる。山門に立つと石畳のアプローチの正面に大きな屋根の本堂が見える。手入れの行き届いた庭木が奥行き感を強調する。めざす三重塔は本堂の更に奥、山の中にある。急な階段を何段ものぼる。

四重塔じゃないか、と思うが初層は屋根ではなく裳階(もこし)。屋根との違いが分からないが、庇か下屋と理解すればいいのだろう、だから三重塔。薬師寺の塔も三重だが、裳階が各層に付いているので六重塔に見える。

 *****

奥座敷ということばがある。住居で一番「奥」に大切な座敷を配置する空間構成。この考え方は建築だけでなく都市の構成、構造把握にも適用されている。東京の奥座敷といえば熱海温泉、それとも箱根温泉か。大阪だと有馬温泉あたりか。ちなみに別所温泉は信州の奥座敷ともいわれる。

どうも日本人には「奥」を好む心、「奥」を求める精神風土があるようだ。日光よりも奥日光の方がなんだか魅力的なイメージではないか。飛騨より奥飛騨。身近な浅間温泉も松本の「奥」にある。この安楽寺の立地も空間構成も「奥」というキーワードで読み解くことができる。

今よく読まれている内田樹氏の本のタイトルはずばり『日本辺境論』。中心より辺境志向の日本人が論じられている。これに対してヨーロッパは「中心」志向が強い。このことは都市の構造にもよく表れていると思うが今回は触れない。

京の都は元々中国の古い都市をモデルに計画されたが、歴史の流れと共に日本人本来の意識に沿ってしだいに中心から周辺へ向かって行き(その一例が桂「離」宮)、中心性が薄れていった。

石川さゆりが歌う「津軽海峡 冬景色」。北へ帰る人の群れは誰も無口で・・・。そう東京(中心)で生活していても奥(北)が気になってしかたがないのだ。奥に心惹かれる日本人。演歌がよく奥(北)を歌うのはその証左ではないか。

以前から日本の空間構成の特徴が「奥性」にあることを、例えば槇文彦氏の『記憶の形象』筑摩書房などで読んでいた。23日に別所温泉の安楽寺を訪ね、やはり日本人は「中心」より「奥」なんだなぁ~、と改めて思った。


 


全体像をビジュアルに示してみたい

2010-01-22 | A あれこれ考える



■ 三九郎について書いた過去ログにコメントをいただきましたが、改めて三九郎でこのブログの過去ログを検索してみたらいくつかの記事がヒットしました。

前稿に書いたように松本地方で「三九郎」と呼んでいる伝統的な行事は「どんど焼き」というのが一般的な呼び名のようですが、新潟では「さいの神」と呼んでいるそうです。新潟県の魚沼市と糸魚川市の知人に訊いて分かりました。さいにあてる漢字は塞でしょうか。

「三九郎」のエリアを知りたくて、知人・友人に訊いています。JRの大糸線沿いの大町方面ではどこで「どんど焼き」に変わるのか(①)、篠ノ井線沿いの長野方面ではどうか(②)、中央西線沿いの木曽方面ではどうか(③)。

できれば今月中に調べたいと思っています。

①については小谷村、白馬村ではどんど焼きと呼んでいることが分かりました。両村より松本寄りの大町市でもどんど焼きと呼んでいるとのことでしたが、「おんべ(御幣)」と呼んでいる地域もあることが分かりました。

では更に松本寄りの池田町や松川村(安曇野ちひろ美術館の所在地)ではどうでしょうか・・・。

池田町では昔はどんど焼きと呼んでいたそうですが、最近では三九郎と呼ぶようになってきた、という情報を得ました。どうもこの辺りに三九郎とどんど焼きの線を引くことが出来そうです。松川村では三九郎、との情報も得ました(さらに複数の情報を得て正確を期す必要がありそうですが)。

②についてはまだ分かりません。地図を見ないと町村の位置関係が分からない地域なんです。

③については木曽方面への入り口となる塩尻市では三九郎、木曽町ではどんど焼きと呼ぶことがわかっています。塩尻市と合併した旧楢川村(奈良井宿の所在地)と木祖村とは鳥居峠で分断されていますが、この峠が三九郎とどんど焼きも分けているのでは、と予測しています。

だらだらと前稿と同じようなことを書いてしまいましたが、ここから本題に入ります。

写真は今月7日付の市民タイムス(松本地方のローカル新聞)に掲載されたものです。

木曽町日義(旧日義村)のどんど焼きの写真ですが、ユニークな形をしていますね。この写真を見たとき、日本の五重塔のルーツ、インドのストゥーパ(卒塔婆)が浮かびました。

でも、この形から深い意味を読みとろうなどと考えない方がいいのかもしれません。

新聞記事によると10年ほど前にこのような昔の形に戻したそうです。真ん中の柱は「御柱」、その上部には御幣(おんべ)が飾ってあるそうです。松本と塩尻にまたがる内田地区の飾り御柱にも御幣が飾ってありました。そして前述のように大町にはどんど焼きのことをおんべと呼ぶ地域もあるそうですから、やはりどんど焼きと御柱、そして御幣は関係があるんですね。

どんど焼きは正月にしめ縄を頼りに降りて来た神様(年神様)をお送りする神事という見方もある伝統的な行事で、全国的に行われています。地方によって呼び名はもちろん、形も違っているようですから、写真を集めて日本地図上にマッピングしてみたら面白いでしょうね。


どんど焼き/三九郎

2010-01-21 | 日々の暮らし・行事

「どんど焼き」、松本地方では「三九郎」と呼称します。知人・友人に訊いてみると、小谷村(新潟県境の村)ではどんど焼き、木曽福島でもどんど焼き、千曲市も佐久もそう。では一体どこで呼称が変わるのだろうという疑問が浮かびます。

松本の東側は美ヶ原や高ボッチなどの山々が連なり諏訪地方とは地形的に分断されています。上田地方ともやはり山々で分断されていますから、そこで三九郎という呼称も切れているのでしょう、たぶん。

大町以北は、長野オリンピックのジャンプなどの会場となった白馬村、そしてその先の小谷村まで一応平野が続き、大糸線が通っています。一体どこで三九郎がどんど焼きに変わるのか・・・、大町はどっちだろう、白馬村は?

長野方面ではどこで呼称が変わるのか、木曽方面では? 調べてみたいと思います。

松本清張の芥川賞受賞作品『或る「小倉日記」伝』は小倉在住期間の森鴎外(明治32年から丸3年間小倉で生活していた)の日記が所在不明でその間の鴎外の暮らしぶりが分からないため、一青年が丹念に鴎外の事跡を捜して歩くというストーリーです。

小説のラストは**昭和二十六年二月、東京で鴎外の「小倉日記」が発見されたのは周知の事実である。鴎外の子息が、疎開先から持ち帰った反古ばかりはいった箪笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。**となっています。

この小説と同じように三九郎がどこでどんど焼きに変わるのか、調べ終えて地図上に線を引くことが出来たと思ったら、そのことを示す資料が見つかったりして。おそらく資料は在るでしょう。 でも自分で調べてみることに意義があると思います。


「星のない街路」

2010-01-21 | A 本が好き 
 

 北杜夫の初期短編集 昭和48年に読んだ。昭和48年、1973年ということは、もう36、7年前のことだ。一昨日(19日)から再読している。変色した用紙、小さな活字。

北杜夫の作品は「マンボウもの」に代表されるユーモア作品と「幽霊」や「楡家の人々」などの純文学作品とに大別される。読者もマンボウ派と幽霊派に分かれるかもしれない。

私は「幽霊」とその続編「木精」が特に好き。だから「幽霊派」ということになるだろう。これらの作品に漂う寂寥感、孤独な翳りが好きだ。

書店の棚には北杜夫の作品はあまり並んでいない。多くの作品が絶版になってしまったのだろう・・・。幸いなことに私の書棚には単行本の他に40冊くらいの文庫本が並んでいる(大半が新潮文庫、次いで中公文庫)。

これらの文庫本を時々再読しようと思う。

一茶の一句

2010-01-20 | あれこれ学ぶ

 
一茶の銅像と記念館

 小林一茶、江戸時代の俳人は北信濃 柏原村(現信濃町)の出身ですね。信濃町には一茶記念館がありますが、そこには一茶の銅像が立っています(090404撮影)。

一茶は3歳の時に母親を亡くし、15歳のとき江戸に奉公に出されるんですね。こんなことは知りませんでしたが、俄か勉強で知りました。50歳で帰郷、52歳で結婚して3人の子どもに恵まれましたが、3人とも幼少の頃に亡くなってしまい、まもなく奥さんも亡くなってしまいます。再婚するも数か月で離婚。再々婚しますが、どうもあまり幸福な人生ではなかったようです。

我ときて遊べや親のない雀 という句には一茶の孤独な心が投影されているのでしょう。私はこの句が好きです。



ところで松本清張の『影の地帯』という推理小説には木崎湖や青木湖と共に重要な場所として柏原が出てきます。そしてこんなくだりがあります。

**木南は、「一茶旧宅跡」と書かれた標識の傍を歩いた。旧宅はすぐだった。くずれかけた土蔵のような造りである。これが、信州の生んだ一世の俳人の生家かと思って見ると、いかにも彼らしい建物であった。**

先日ラジオの番組で、思ふ人のそばに割り込む炬燵かな という一茶の句が紹介されました。 一茶はこんな句もつくっていたんですね。一体どんな状況のときにつくった句なんでしょう・・・。

今回はこの句を記録しておきたかったんです。


「食堂かたつむり」 少し加筆

2010-01-19 | A 本が好き 

 久しぶりの小説、小川糸の『食堂かたつむり』読了。この小説は柴咲コウの主演で映画化され、来月公開される。



柴咲コウといえば織田裕二と共演した「県庁の星」。この映画で彼女はスーパーマーケットの店員を演じたが、食堂かたつむりのオーナーシェフ、倫子(りんこ、愛称はりんご)はこの店員とイメージ、そう頑張り屋さんのところが重なった。

中学を卒業した日に家を出て、都会で暮らしていた倫子。恋人にふられて声も失って10年ぶりに田舎に帰ってくる。山あいの静かな村で倫子は一日一組だけの食堂かたつむりを始める・・・。

ものがたりはほのぼのとした雰囲気で進んでいくが、母親がやっているスナックで毎年恒例のふぐパーティーを開くあたりから、雰囲気が変わっていく。それまでの小春日和から今にも嵐になりそうな雲行きに・・・。 急にバタバタとものがたりが進みだす。

ラスト、亡くなった母親(おかん)が残した手紙を見つけて読む倫子。この場面、涙があふれるところだろうが、そのようなモードにはならなかった。それは終盤、ものがたりに勢いがありすぎるからではないか、そんな気がした。私の好みからすれば、ものがたりは、小春日和のまま静かに終って欲しかった。

この作家は料理がかなり好きなんだろう。やはり好きなことを書くのがいい。

「料理」といえば藤沢周平の『武士の一分』のラスト、映画ではキムタクが離縁した妻がつくったと気が付くシーンが印象的だった。あの場面では涙があふれた。

映画ではおかんの役は誰がやるんだろう。熊さんは、お妾さんは、梢ちゃんは・・・。エルメスという豚も当然出てくるんだろうな。公開されたら観に行こう。


国民読書年

2010-01-14 | A 本が好き 



 なぜか前稿が消えてしまいました。パソコンが、いや私が何かしでかしたのでしょう。

今年は「国民読書年」だそうですね。文字・活字文化振興法の施行5周年にあたる今年を国民読書年にすることが、2008年に国会で決議されていたそうです。

今日、14日の朝刊の文化欄は国民読書年の特集でした。作家の恩田 陸さんが読書の魅力について語っています。恩田さんの小説は新潮文庫に収録されている『夜のピクニック』しか読んだことがありませんが、気になる作家のひとりです。

新聞には恩田さんの顔写真と共にプロフィールが載っています。仙台市生まれ、ということは知っていましたが、幼少の頃に松本で暮らしたことがあるとは知りませんでした。今度何か読んでみようと思います。

さて、本題。

『神社の系譜 なぜそこにあるのか』宮元健次/光文社新書を読み終えました。このところ速読しています。今年になって読み終えた本がこれで5冊になりました。

この本では「自然暦」という視点から神社の配置を捉えています。「自然暦」なる言葉をはじめて知りましたが、太陽の動きを神の宿る「神社」の配置に応用したものだと、著者は説明しています。

ある神社と背後にある山を結ぶ線の方向に冬至の日が沈むとか、夏至の日が昇るとか、この手の話が満載です。古今「東西」がこの本を連れてきた、という感じです。本の内容については機会を改めて書こうと思います。

次、『自然界の秘められたデザイン 雪の結晶はなぜ六角形なのか?』イアン・スチュアート/河出書房新社。

昨年の11月に東京した時(「東京する」などという表現はいかがなものか、と自分でも思いますが、好きなので)、丸善本店で買い求めました。

帯の**数学的秩序に満ちた美しい世界はなぜ生まれるのか?**に惹かれました。自然が数学的秩序に満ちているのは一体なぜなのか、興味深いテーマです。

この本を読み終えたら、小説モードに変えようと思っています。

夕方、書店に出かけてみると小川 糸さんの『食堂かたつむり』が平積みされていました。写真は単行本のように見えるかもしれませんが、文庫本です。早いですね、もう文庫(ポプラ文庫)になっていました。

小川さんの『喋々喃々』や確か穂高が舞台の『ファミリーツリー』も読んでみたいと思いますが、まず話題になったこの小説です。

恩田さんは読書は日常習慣の一部だと語っていますが、私もそうです。今年も「本の連鎖」を楽しみたいと思います。以上!

 


「2010年宇宙の旅」

2010-01-11 | A 本が好き 
 昨日、10日の朝刊(信濃毎日新聞)の読書欄は「2010年の一冊」という特集でした。書評委員10人が年頭に手に取って欲しい本を紹介するという企画です。

取り上げられている本10冊の中で、読んでみたいと思ったのは『宇宙創成はじめの3分間』ちくま学芸文庫です。著者は79年にノーベル賞を受賞した理論物理学者だそうですが、S・ワインバーグという名前は知りません。

**比喩とレトリックで理解したような気にさせるのではなく、物理の本質をストレートに表現して読み手に迫る。科学好きの読者はその妥協のなさに引き込まれるはずだ。** 

**ビックバン直後の膨張で宇宙の温度が急激に下がり、10億度になる頃までに水素やヘリウムなど普遍的に存在する元素が出来上がる。計算によると、所要時間は僅か3分。(中略)観測事実と物理法則を組み合わせ、(中略)1兆度の1兆倍の1億倍の温度にまで達する宇宙開闢(かいびゃく)の瞬間にまで遡ろうとしている。**

右脳人間の私はビジュアルにイメージできないようなことを理解するのは苦手です。この紹介文を読むと、『宇宙創成はじめの3分間』を理解するのは無理なような気がします。

では他の本は、と探しても読みたいと思うような本がありません。

この手の企画で書評委員が取り上げるのは専門書が多いと思います。経済学者は経済の本、物理学者は物理の本、教育学者は教育に関する本という具合に。ちなみに先の本を取り上げた書評委員は観測宇宙論が専門の大学教授です。

でも、一般の読者は読んで欲しい本として専門書を挙げられてもあまり読んでみようという気持ちにはならないのでは。

異なる分野の本、たとえば物理学者が美術史の本を、経済学者が童話を紹介してくれたら、それだけで読んでみようと思います。趣味としての読書ってそういうものだと思うのです。物理学者としての視点から美術史を眺めるとどんなことになるのでしょう。



私が書棚から取り出したのは『2010年宇宙の旅』です。ただし、おすすめの本としてではなく、自分が読んでみたい本としてです。今年にぴったり、でしょ。

今年はこのSFを読み直してみようと思います。昨年末から小説モードにならないのでいつになるか分かりませんが・・・。

飾り御柱

2010-01-10 | 日々の暮らし・行事



冬のフォトアルバム 飾り御柱@松本市内田 撮影日100110

 松本の東山山麓に位置する内田地区で毎年行われる飾り御柱です。松本市の重要無形民俗文化財に指定されています(平成12年)。

御柱といえば諏訪が全国的に知られていますが、松本にはこんなにきれいな御柱があるんですね。長野県内には他にもこのような飾り御柱(呼称は違うかもしれません)を行うところがあるようです。

電柱と比べると高さが分かりますね。すっとまっすぐに伸びた赤松(はぜ木のように毎年同じものを使っているのかも知れません。確認できたら書きます)の木、そこに細い竹を何段も取り付けて、さらに縄で竹を縦に繋いで、色紙で作った御幣を飾っています。しめ縄の紙垂(しで)と同じ形だと思います。

飾り方は地区によって少しずつ違っているようです。竹を水平ではなく、扁平した菱形を縦に繋ぐように取り付けてあるものを他地区で見かけました。

これはどうやら三九郎(正月飾りやだるまなどを焼いて無病息災を願う伝統行事)や道祖神と関係のある祭りらしいのですが、詳しいことは分かりません。

私はこの飾りを見て秋田の竿灯を思い出しました。竿灯は稲穂をモチーフにしたもので五穀豊穣を願う祭りと聞いていますが、この飾り御柱にもそんな願いが込められているのでしょう。


「なぜ」

2010-01-10 | A 本が好き 



 タイトルに「なぜ」がつく本はやはり気になる。『なぜ対馬は円く描かれたのか 国境と聖域の日本史』黒田 智/朝日新聞出版 読了。次、昨日書店で手にした本は『神社の系譜 なぜそこにあるのか』宮元健次/光文社新書。

対馬が丸く描かれた理由。この本のタイトルに対する答えは本を読み始めてすぐに出てきた。**即興で地図を描こうとすると、無意識のうちに書き手の住まいやなじみ深い地域を詳細に書き込んでしまう例を、だれしも経験したことがあるだろう。描かれた地図は、しばしば濃淡のあるものとなり、制作者の意図や制作目的が強調されたものになる。**

ではなぜC型のクロワッサンのような対馬の地図が描かれたのだろう・・・。
その答えは第1章「対馬は円かった!?」に書かれている。

C型クロワッサン対馬地図、「日本国対馬島之図」は『海東諸国紀』という朝鮮王朝官僚たちのバイブルだった歴史書に収録されている。

中世の対馬は日朝を結ぶ海上交通の要衝だった。対馬は津島が転じた(この本には明確にこのことが書かれてはいないが、そう思った)。津は港。

利用できる港の情報を示すことが目的だった地図。多くの寄港地と通交者の多い地域を伸張させて地名を書き込むスペースを確保した。逆に寄港地が少ない地域は圧縮された。このような理由による海岸線の伸張と圧縮の結果がC型クロワッサン、というわけ。簡単にまとめるとこのようになるだろう。

本書ではこの部分を現在の地図とも対比させながら、実証的に、詳細に論じていて興味深い。ただしこの本の大半(第2章以降)は別のことの論考。

対馬市厳原町の西方に位置する有明山(安曇野の有明山と同じ、このことでふと思ったことがあるがそのことには触れない)、その麓にある厳原八幡宮は対馬にいくつかある社廟の代表的な存在で、かつて下津八幡宮と呼ばれていたとのこと。そしてもうひとつ、海神神社は上津八幡宮と呼ばれていたそうだ。

対馬は南北に長い島だが、北津と南津ではなくて上津と下津としたのは「東西」志向の日本と無関係ではないかも知れない・・・。

これから読む『神社の系譜 なぜそこにあるか』の第3章は「大和朝廷と東西線」。古今「東西」が年を越してしまった・・・。 

「対馬」 過去ログ