透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

春だ 本でも読もう

2011-04-29 | A 読書日記



■  Kさんへ、今日話題にしたのはこの作品です。『われらの時代』 新潮文庫。 

手元にあるのは昭和44年11月20日12刷。 大江健三郎20代の作品。  ヘミングウェイの作品のことは最近まで知りませんでした・・・。




■ 先日注文しておいた本が届いた。

朝日新聞がスクープした大阪地検特捜部検事の証拠改竄事件の深層。押収したフロッピーディスクのデータが改竄された・・・。雑誌に掲載された佐藤優氏の書評を読まなければ買い求めることにはならなかっただろう。

読みかけの本『形の生物学』 本多久夫/NHKブックス、読み始めた本『江戸の坂 東京の坂』 横関英一/ちくま学芸文庫。2冊読了後にこの本を読もう。多忙な日々、いつになることやら・・・。




 『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』 内田樹/文春文庫 読了。



幕末の浮世絵師・歌川国芳の作品「東都三ツ股の図」

この浮世絵の隅田川の対岸の塔がスカイツリーだと、話題になった。このことは以前書いた。私は前景の舟を福島原発に見立てた。放射能汚染物質が風に流されていく。ふたりの職人は原発事故を収束させようと奮闘している作業員にも見える。

映画も観る人に多様な解釈を許す。「エイリアン」「大脱走」「ゴーストバスターズ」 内田氏のなるほど!な解釈。


松本のカエル

2011-04-28 | F 建築に棲む生き物たち


山屋のカエル

「市民タイムス」に先日掲載された記事によると、戦時中は山屋御飴所が中心になって軍人の携行食として飴をつくって陸軍に納入していたそうで、このカエルは戦地に赴いた軍人が無事帰ってきて欲しいという願いを込めて据えられたそうだ。


松本市丸の内の某建築に棲息しているカエル なかなか堂々とした姿


棲息地:松本市大名町の住宅の玄関先の小屋根 観察日110428

玄関先の瓦屋根の上にちょこんと据えられたカエルを見つけた。 松本市内にはあちこちの建築にカエルが棲息しているようで・・・。



 


156 松本市四賀の火の見櫓

2011-04-27 | A 火の見櫓っておもしろい


156 松本市四賀

見張り台の高さが4mくらいと小ぶりだが、火の見櫓のデザイン要素を一通り備えている。

反りのついた屋根の避雷針と軒先の蕨手。見張り台の手すりの巻きひげ状の飾り。リング式ターンバックル付きのブレース。トラス状に組まれた脚部。そして梯子。

まだまだ続く火の見櫓巡り。


 


155 東筑摩郡筑北村本城の火の見櫓

2011-04-26 | A 火の見櫓っておもしろい


155



亜鉛めっきした構造用鋼管による火の見櫓。

アングルでできた火の見櫓は50年以上前につくられたものが多い(昭和30年代前半)。これは亜鉛めっき鋼管を構成部材とする火の見櫓で、比較的新しい。隣接している役場の建設年度などから、20年くらい前(1984年頃)につくられたものだろうと推察する。等断面の櫓は珍しい。でもやはり上方に向かって絞り込まれていく櫓がいい。


 


津波の想定高さ その根拠の公開はいつ?

2011-04-25 | A あれこれ

 今月24日付朝日新聞に「東電、06年に大津波試算」という見出しの記事が載っていた。

東京電力は福島第1原発に想定を超える津波が来る確率を50年以内に約10%と予測し、06年に国際会議で発表していたと記事は伝えている。また、私が知りたいと思っている津波の高さについては、なぜ5.4メートル(筆者注:福島第1原発5.7メートル、福島第2原発5.4メートルという想定値、第1原発5.7~5.4メートルという想定値もある)と想定したかについて東電は社内で経緯などを整理している段階で今のところ公開できないとしている、と記事の最後にある。

40年も前から稼働していた原発の、津波の想定高さについて、説明できるような資料がいままでなかったとは・・・。

どうやら、想定高さは学術的、技術的な領域だけの理路で導き出してはいなかったようで、一般人には到底理解できないような、そして専門家からは妥当な値だということを認めてもらえるような複雑な論理フローをいまつくっているところなのかもしれない。

貞観地震・津波を考慮する必要性を指摘されたのにもかかわらず、なぜ無視したのか、過去の地震については、なぜ塩屋崎沖地震で代表させることができるのか、その理由をきちんと示してほしい。 分かりやすい資料にまとめて公開することは、国民に対する当然の義務だ。





「ニッポンの書評」

2011-04-23 | A 読書日記


「ニッポンの書評」 豊由美/光文社新書 

著者の豊さんは**自分が心の底から素晴らしいと思った本を、簡にして要を得た紹介と面白い読解によって、その本の存在をいまだ知らない読者へ手渡すことに書評の意味と意義があるんです。** と書いている(150頁)。今日(23日)、雑誌「アエラ」に掲載されていた佐藤優氏の『証拠改竄』朝日新聞社の書評を読んで、注文した。

豊さんは**問題は、取り上げた本を利用して己の思想を披瀝する輩です。つまり、相手の土俵に上がるのではなく、自分の土俵に書評対象の本を無理矢理引っ張り込み、相手が無抵抗なのをいいことに自分の得意技でうっちゃる、そういう蛮行をふるうタイプの書き手。わたしは、そんな輩を優れた書評家とは思いません。**と書いている(164、5頁)。

このくだりを読んで私はそうかなあ・・・、同意できないな、と思った。そんな人こそ優れた書評家だと私は思う。もっとも、「書評そっちのけ」というのはもちろんダメだが、まったく取り上げた本に触れないということはないのでは。

自分の土俵に持ち込むからこそ、面白い読解ができるのではないのかな。例えば生物学者が建築の本を生物学的な視点で、経済学者が科学技術の本を経済学的な視点で論じてもらえたら、こんなに興味深いことはない。

『進化の設計』講談社学術文庫は航空工学が専門の佐貫亦男氏がその視点から進化の過程で次から次へと登場した動物の「デザイン」を論じた本だし、『生きものの建築学』平凡社(1981年発行の古い本)は建築評論家の長谷川堯氏が様々な動物の巣を建築として捉えて、その空調システム、構法などを実際の建築と対比的に論じた本だが、共にとても面白かった。福岡伸一氏が現代建築を論じたら、面白いだろうな。

繰り返す。書評って、対象の本を自分の土俵、つまり専門領域に持ち込むからこそ、そうして独自の視点から評するからこそ、面白いのではないのか。自己の思想を披瀝する輩、と山さんは書いているが、そもそも書評って己の思想、「思想」はちょっと大袈裟な表現か、「考え」を書くものではないのかな。

本としてリリースするということは、読み手にどんな読み方も許すということだ。この意味において、読み手が自分の得意技を使って読み解くのは当たり前、違うのかな。自分の得意技を使わないで、何を使えというのだろう、などと批判的なことを書いてはいけなかった・・・。
 


152 松本市出川町の火の見櫓

2011-04-20 | A 火の見櫓っておもしろい


152 松本市出川町の幹線道路沿いの火の見櫓 110420

 数日前、車でここを通りかかった時は火の見櫓だとは気がつかなかった。いったい何の櫓だろう、とその時は思ったが、今日再びここを通りかかって、偶々信号待ちとなって、ドラ型の半鐘に気がついた。よく見ると梯子も設置されている。

火の見櫓はやはり屋根付き、見張り台付きがいいな、と思う。