
■ 7月の読了本。
本日「日帰り東京」、往復の車中で『古道具 中野商店』読了。電車の中ってやはり最良の読書空間だ。読書に集中することが出来た。この小説については機会を改めてなにか書こう。
このまま小説モード継続、さて次は漱石の『こころ』。先日限定スペシャルカバーだという白い文庫を購入したからそれを読もう。
■ ようやく『金閣寺』三島由紀夫/新潮文庫を読み終えた。今回はこの小説を金閣寺を論じた優れた建築論として読み進んだ。金閣と心中するに至る学僧の心情を追うことはしなかった。
**戦乱と不安、多くの屍と夥しい血が、金閣の美を富ますのは自然であった。もともと金閣は不安が建てた建築、一人の将軍を中心にした多くの暗い心の持主が企てた建築だったのだ。美術史家が様式の折衷をしかそこに見ない三層のばらばらな設計は、不安を結晶させる様式を探して、自然にそう成ったものにちがいない。一つの安定した様式で建てられていたとしたら、金閣はその不安を包摂することができずに、とっくに崩壊してしまっていたにちがいない。**
**金閣は風のさわぐ月の夜空の下に、いつにかわらぬ暗鬱な均衡を湛えて聳えていた。林立する細身の柱が月光を受けるときには、それが琴の絃のように見え、金閣が巨きな異様な楽器のように見えることがある。**
うーむ、これは文学。
**・・・・私はようやく手を女の裾のほうへ辷らせた。
そのとき金閣が現れたのである。**
**みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、・・・・肉を乗り越え、・・・・不惑のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。
私の言おうとしていることを察してもらいたい。又そこに金閣が出現した。というよりは、乳房が金閣に変貌したのである。**
うーむ、これも文学。学僧には気の毒としか言いようがない。
このところAモードだったが、ようやくBモード、それも小説モードになってきた。次は川上弘美の『古道具 中野商店』を新潮文庫で読む。
武家屋敷あるいは豪農等の屋敷の前面に配置された長屋状の建物で中央に出入り口のための開口を設けたものをいう。
長屋門について俄勉強して私なりにまとめてみました。
最近長屋門を目にする機会が何回かありました。あることを意識しだすと不思議とそれに関連することに出合うようになるものです。
昨日安曇野市堀金(旧堀金村)に「あおいやね」の見学に出かけたことは既に書きましたが、その所在地のすぐ近くでこの土蔵造りの長屋門を見かけました。なんでもかんでもこのような造りの建物を長屋門としてよいのかどうかはわかりませんが、先の長屋門の説明に一応当て嵌まると思いますので長屋門と記しておきます。
私的な領域のエッジを明確に示し、公的な領域との繋がりを示す建築としてなかなか優れた意匠だと思います。
見学の帰り道で更にこの長屋門に遭遇しました。全景写真をきちんと撮りませんでしたが、先日紹介した市松模様に窓を配した繭倉の近くですからまた訪ねる機会があると思います。もう少し周辺の様子がわかる写真がやはり必要ですね。
年々消えつつあるとはいえ、まだまだ民家は全国各地に点在していると思います。昔のように民家探訪の旅をしたいものです。
■ 民家は地元に産する材料を使って造られていました。地産地消です。もちろん屋根材も然り。諏訪地方には地元産の鉄平石で葺いた屋根が今でも残っています。石は重いので構造をその分丈夫にしなくてはなりませんが、耐久性や耐火性に優れていることからよく使われていました。
鉄平石を床に使う例は今でもたくさんあると思いますが、屋根材としてはあまり使われなくなったのではないかと思います。藤森照信さんが自身の作品に鉄平石を使っているのを雑誌で見かけるくらいです。
さて「民家 昔の記録」今回は茅野市内の民家です。鉄平石を大版のまま一文字葺きにしています。注目は棟の中央に祀ってある小さな祠。屋根に祠を祀ってあるのは、珍しいのではないでしょうか。
この祠は『滅びゆく民家』川島宙次/主婦と生活社にも紹介されています。
私がこの屋根の祠を撮影したのは1979年の5月4日、連休で東京からの帰り茅野駅で途中下車して上諏訪駅まで歩いたルートが5万図(5万分の1の地図)に記録してあります。
民家探訪の記録 茅野駅から上諏訪駅まで 19790504
『滅びゆく民家』を購入したのは翌年、1980年の4月です。自分が既に撮った写真と同じアングルの写真をこの本に見つけたのでした。きっと屋根を撮ることができるポイントが限られていたのでしょう。民家に関してはこういうことをときどき経験しました。
日本の原風景の中にあるのはやはり民家、その民家が本のタイトルのように次々と姿を消しています。残念でなりません。
北側(道路側)外観
■ 安曇野市内にあるかつて養蚕に使われていた繭蔵。木造3階建て、明治27年建設。路上観察、敷地内観察、さらに内部観察もさせていただきました。
1階部分の外壁は下見板張り、上部の土壁には突き出し窓が市松模様に配置されています。鉄板の突き出し窓を開けたり閉めたり、さらに開放する角度を変えて風通しを調整したそうです。市松模様に窓を配置したのは風通しを自在に調整するための工夫なんですね。
南側外観
南側には下屋が付いていますが上部は北側同様に窓が市松模様に配置されています。
蔵の持ち主の方にお願いして内部を見せていただきました(内部の写真は載せないでおきます)。5間×7間の大きな蔵です。2本の通し柱が棟木を支えています。棟木は継ぎ手なしの1本もの。桁行方向7間ですからその長さは約13mです。クレーンなどの重機が無い時代のことですから建て方も大変だったでしょうね。
この蔵は県外で再生の計画があるそうです。再生されたら是非見学に行きたいと思います。
■ 白馬村佐野坂の蔵
そうか、蔵の外側の柱って雪囲いのためにあるのか・・・。北安曇郡白馬村で目にした蔵を観察しました。雪囲いは春になると外してしまうのでしょうが、この蔵には残っていました。近づいて囲いの内側を観察。柱に貫を通して、その外側に縦胴縁を打ち付けて板を張って雪囲いの完成。
柱は登り梁を先端で支えて積雪荷重を負担すると共に雪囲いを取り付ける下地の役目もしているんですね。 豪雪地ならではの工夫です。
松本辺りでは軒の部分の屋根下地は垂木だけですが、ここ白馬や小谷では登り梁を軒の先端まで持ち出して母屋を載せています。これも雪に備えて軒先を丈夫にするための工夫です。
所変わればデザイン変わる。だから民家は面白い。
『民家巡礼』東日本篇、西日本篇 溝口歌子・小林昌人/相模書房 1979年発行。
■ 大変な労作です。民家の美しさにひかれたふたりが日本全国津々浦々歩いて写真に納め記録したものをまとめた本です。
「松本平の民家と道祖神を訪ねて」という巡礼記録には東筑摩郡山形村の二階建ての立派な長屋門が載っています。
昨日この長屋門の前を偶然通りかかりました。『民家巡礼』にこの長屋門が載っていることをなんとなく覚えていましたから、車を停めて路上観察しました。白壁を始めとしてきれいに改修されています。奥には立派な本棟造りの民家が。
ラッキーなことにここは現在蕎麦屋さん、次回はこの民家の中を観察したいと思います。蕎麦を味わうことより、民家観察優先です。
■ 近距離恋愛って何? 社内恋愛のこと?
この映画はそれ程ヒットしていないのかも知れない。近距離恋愛をみたと比較的映画に詳しい?Sさんにメールしたら、「見てはいけない社内恋愛でも見たの」と返信してきた。別に不適切な社内恋愛を見たわけではない。
映画館は休日にもかかわらず空いていた。梅雨が明けてとにかく暑いから外出しようという気も失せるのかも知れないし、3連休で海にでも出かけてしまったのかもしれない、今日は海の日だし。が、どうも映画館が空いていたのはそういう理由ではなさそうだ。ターゲットがいまいちはっきりしない映画なのだ。一体誰に観て欲しい映画なんだろう・・・。この手の映画のターゲットはやはり女性だろう。ならば女性をきちんと主人公に据えればよかったのに・・・。主人公に感情移入できない恋愛映画はつまらない。自分が主人公になったような気がする恋愛映画でないと。
この映画の原題を直訳すれば「花嫁付添い人」となるそうだ。ただしメイドのスペルがMAIDではなくてMADEとなっているのには何か意味があるのだろう(パンフの写真)。それを「近距離恋愛」という邦題にしたところはなかなかセンスがいい。センスのいい邦題がヒットに繋がる、ということにどうやら今回はならないようだ。
「近距離恋愛」で検索すればいくらでもヒットして、しかもどれもストーリーを紹介しているから、ここに書く必要もないだろう。大学時代のハロウィンパーティで不適切なハプニングで知り合ったふたり、トムとハンナがその後何故か男と女の間では成立しないのではないかともいわれる親友になって約10年。
スコットランドへの出張で突然の恋に落ちて婚約までしてしまったハンナ。本来未婚の女性が務めるはずの花嫁付添い人を頼まれたトム。
ここに至ってようやくハンナを愛していることに気が付いたトム。何もかも婚約者に劣っているトムは一緒にバスケットをした後シャワールームで股間のジェット機も婚約者はジャンボだと知る。果たしてトムはハンナを奪い返すことができるのか・・・。
もちろん映画だから答えは「できる」に決まっている。むかし観た映画「卒業」を思い出した。そう、土壇場、教会でようやく花嫁を奪い返すあのシーンを。
さて、休日で夕方からビールしている中年オジサンだが、この映画が訴えていることをキッチリ書いて本稿を閉じることにする。それは「愛」、そう「愛は勝つ!」というメッセージなのだ。5月に観た「最高の人生の見つけ方」も「愛」、「家族愛」の大切さを訴えた映画だった。
今アメリカ人に、いや別にアメリカ人に限らない、世界の人々に必要なのは「愛」ですよ~っ、皆さん!というメッセージをこの映画は伝えたいのだ。これほんと!
■ 一斉休漁で港に停泊している漁船、今朝の新聞がこの写真と共に燃料高の窮状を訴えて全国で20万隻が一斉休漁した昨日の出来事を報じている。
この写真をみて、お!漁船、繰り返しの美学だ、などとのんきなことを言ってはいけない。
**燃料高は漁業者の自助努力の限界を超え、廃業の瀬戸際だ。**将来のある若い漁業者が見切りを付けて転廃業している。**などと記事には書かれている。
今の原油価格の高騰は投機マネーの流入が主な理由とのことだが、石油は埋蔵資源だから当然有限、やがて枯渇することになる。それはもう数十年後に迫っているともいわれている。
やがて、投機的な理由と共に、残量わずかという理由で原油価格が高騰するだろう。そんな事態になる前にガソリンに替わる燃料で動く車が主流になるのかもしれない。漁船も然り、ということなのかもしれない。
でもここで、少し私たちは心配性になってもいいのではないかと思う。昨日の漁船の一斉休漁は、「将来起こりうる事態の予兆」、「決して一過性の出来事ではない」と捉えるべきではないのか。一日漁を休んだくらいでは魚の供給には影響が出ることはないだろう。でもこのような事態が続くことになったら・・・。
魚に限らない、やがて深刻な食料不足に陥る、という危機意識を一体どのくらいの国民が抱いているだろう・・・。既に飢餓に苦しむ人々の数は世界で億の単位だという。
「食料の自給率の向上」に関して長期的なビジョンをたてて確実に実践に移さないと危ない・・・。
自国に優先して日本を養ってくれる国などあるはずがない。
既に時遅しか・・・、今回は暗い。
■ 朝のラジオ番組「日本全国8時です」、毎週火曜日のゲストは詩人の荒川洋治さんです。今朝、荒川さんは文庫本のカバーデザインについて語っていました。取り上げていた文庫の1冊がこれ、集英社文庫の「伊豆の踊り子」です。
森本さんが「おっぱい丸出しかと思った」と確か言ってましたが、確かにそう見えますね。 集英社、何を考えているんだか。こういう奇を衒ったデザインって一過性で長続きしない、と私は思います。川端康成の文学に相応しいとは思いません。このデザインでは書店で手にしようとは思いません。あ、いや、あれ?って気になって手にとってよくよく見るかも知れませんが、購入しようとは思わないでしょう。集英社新書のデザインは好きですが。
ちなみに集英社文庫の「こころ」は
これです。若い人たちに読んで欲しい、という意図でしょうか。京極夏彦か乙一かと思ってしまいます、でもどちらとも少し違うかな。
岩波文庫は品位を保っていると荒川さんが言ってましたが確かに岩波の良識を感じます。角川のデザインも悪くないですが、「こころ」というか漱石に相応しいかどうか。
この白いカバーをみてあれ?って思いませんでしたか? 先のラジオ番組でも話題になっていましたが、これは新潮文庫の期間限定スペシャルカバー、だそうです。このデザインからは近代文学の名作というイメージは伝わってきません。上品なデザインだとは思いますが、現代文学かなと思ってしまいますね。
こうしてみるとデザインって多様ですね。そしてデザインの力が売上を大きく左右するだろうなって改めて思います。
漱石といえばやはり一番右の津田青楓が装幀をした「色鳥」から採ったというデザインが好きです。