■ 関東大震災で東京は壊滅状態になりました。地域のコミュニティーの場でもある銭湯も壊れました。
「銭湯を豪華に造り直すことで街に活気を取り戻そうと考えた。すっかり沈んでしまった街の人々を元気づけようとした」
NHK教育TVの「美の壺」では東京の銭湯が豪華につくられた理由をこのように説明していました。
亀の湯@北区西ヶ原
先日山手線の駒込駅から旧古河庭園に向かう途中でたまたま見かけた銭湯を路上観察、といってもこの写真を一枚撮っただけですが。
いわゆる宮づくりといわれる銭湯。神社仏閣に見られる唐破風が印象的です。
浴室の壁一面に富士山が描かれているんでしょうか・・・。こんな銭湯でゆったりと一番風呂を楽しむことができたら幸せでしょうね。
残念なことにこのような昔ながらの銭湯が次第に姿を消しています。取り壊してしまうのはもったいないことです。
東京の谷中で銭湯を改修してつくったギャラリー(谷中のギャラリー)を見かけたことがあります。広いスペース、高い天井、高窓から入る自然光、これらの条件は彫刻等の展示スペースに向いています。
でもやはりこのような立派な銭湯には、ず~っと現役でいて欲しいと思います。銭湯の存在は街が健康なことの証のような気がします。
■ 上野の国立西洋美術館は1959年に開館した。今年開館50周年を迎える。これを記念して「ル・コルビュジエと国立西洋美術館」が開催されている。先週の土曜日(0627)に出掛けた。たまたま無料観覧日だった。
国立西洋美術館はル・コルビュジエが設計した日本で唯一の作品。坂倉準三、前川國男、吉阪隆正の3人がコルビュジエをサポート。坂倉準三と前川國男は前稿で取り上げた国際文化会館も設計している。
国立西洋美術館の本館は正方形のプラン。中央の吹き抜けの空間を囲むように展示スペースが構成されている。サボア邸とよく似た空間構成だ。目当ての展示会場はこの吹き抜けの空間だった。
この美術館は数回増改築されているが、そのプロセスを追った模型が展示されていた。その模型でも確認できたが、やはり開館当初の完結的な形が一番美しい。
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この美術館の常設展示を観たことがあったかどうか・・・。本館の展示作品は、そのほとんどが宗教画。あまり興味がないのでざっと観た。一点、コルネリス・ド・へーム(どんな画家かは全く知らないが)の「果物籠のある静物」はじっくり観た。1654年頃の作品、日本は江戸前期か・・・。完璧な構図、瑞々しい果物の質感、印象に残る絵だった。新館はすっきりした展示になったようだが、今回はパスした。
ルーブル美術館展の混雑ぶりがウソのように館内は静かだった。やはり外で2時間も待って入館するなどというのは異常だ。
なんだか中途半端だが、以上で本稿を終える。
会館は、前川國男、坂倉準三、吉村順三の共同設計による建築。確か取り壊しも検討されたが、耐震補強や大規模な改修工事が行われて生まれ変わったのが数年前のことだった、と記憶している。
同行の友人によると、本館棟の客室は以前は中廊下型で狭かったが、改修工事によって片廊下型となり、ゆったりとした客室に生まれ変わった、ということだ。
パンフレットには客室の内観写真が載っている。モダンな和の空間は吉村順三主導で設計されたのだろうか。外観のデザインは坂倉準三主導ではないか。薄いスラブや細い手摺、写真には写っていないが本館棟の妻壁は鎌倉の近代美術館に通ずる雰囲気だ。1階の壁に使われている大谷石も近代美術館と同じでは。
増築棟は東京都美術館と同じレンガ調タイル打ち込みの外壁。設計は明らかに前川國男。では、本館棟の前川國男のデザインはどこだろう・・・。
ロビーやティーラウンジはなんとも心地よい上品な空間。「普通の空間」と一体どこがどう違うのか。床や壁、天井、開口部など、空間構成要素を分析的に捉えても分からない。やはり空間の雰囲気は様々な要素が統合されて醸し出されるものだろう。確かなことは「時間」という要素が必須ということだ。
屋外には豊かな緑の庭園が広がっている。静寂な空間は都心に位置するとは思えない。京都の造園家 小川冶兵衛の作とパンフレットにある(旧古川庭園の作庭者も同一人物だが、庭園のパンフレットは小川治兵衛となっている)。
機会があれば再訪したいと思う。
■ 中公新書が通巻2000点を迎えたことを記念して製作された『中公新書の森 2000点のヴィジリアン』。昨日(0627)紀伊国屋新宿南店で入手した(無料)。 やはり東京の大型書店は松本の書店とは違う。
冊子には川上弘美のエッセイ「『宦官』のころ」、渡邊十絲子さんと奥原光さんの対談、「思い出の中公新書」というアンケートの回答(179人分)などが収録されている。
対談には渡邊さんの中公新書ベスト20が載っているが、その中に偶然にも先日ブログに取り上げた『近代絵画史』と『美の幾何学』が入っていた。長谷川尭さんの『建築有情』はサントリー学芸賞を受賞している。
巻末の略年譜によって、透明なビニールカバーから紙カバーに変わったのが1989年ということと、初代編集長が宮脇俊三さんだった、ということを知った。
アンケートの回答を読むと『胎児の世界』三木成夫を複数の人が挙げている。胎児は成長する過程で、生物の進化の過程をトレースするということを紹介している本らしい。この本はたぶん未読、今度書店で探してみよう。
繰り返しの美学@新宿サザンテラス 090627撮影
■ スポーツでも稽古事でも研究でも、まあ何でもそうだと思うがときどき基本にかえることが大切だと思う。
繰り返しという数理的な秩序は端整で美しい。
まあ、繰り返しの美学とはこのようなものだろう。その対象というか概念を平面的な繰り返しにまで広げた。それによって例えばヨーロッパの街並みの「美」も繰り返しの美学という概念で括ることができると考えた。
さらに繰り返しの美学と対をなすというか、相反する概念として繰り返さない美学についても考え始めた。知性によって知覚する繰り返しの美学ではなくて感性によって知覚する美学、日本庭園などの美などがその代表例だ。
今は更にそこから仏像にまで興味が及んでいる。発散的だが仕方がない。対象を広げることで本来の繰り返しの美学がより鮮明になる、ということもあるだろう。少し遠くから、しかも高いところから全体像をみることによって明確になる繰り返しの美学の本質。
昨日新宿南口を出て、紀伊國屋書店に向かう途中で見かけた「繰り返しの美学」。スタバのサッシの方立につけられた小旗。直線的に規則正しく繰り返すと、そこに美が生まれるということを前提にしたディスプレイ。
何回でも書く、繰り返しは美しい。
■ しばらく前から読んでいる『のぼうの城』はいよいよ後半、俄然面白くなってきた。が、注文しておいた武澤秀一さんの『空海 塔のコスモロジー』春秋社が届いたので、ちょっと寄り道。こちらを一気に読了した。
同じ著者の『マンダラの謎を解く』講談社現代新書や『法隆寺の謎を解く』ちくま新書と同様、「!」な謎解き。
先日取り上げた中公新書は学術的にオーソライズされた内容のものが多い、と思う。もちろんそれはそれで興味深いのだが、「!」な内容となると物足りなくも無い。その点、「謎を解く」という明快なスタンスで書かれた武澤さんの著書は読み物としても面白い。
武澤さんはローマのパンテオン(内部に空間をはらんでいる)とインドのサーンチーの塔(内部に空間を持たない)を内と外の反転、虚と実の反転とトポロジカルな捉え方をしている。
このあたりの見方や伽藍配置の変遷から塔の意味、位置付けの変化を読み解くあたりはやはり建築家の眼だろう。
図版を豊富に示しながらの実証的な論考、大変興味深く読んだ。
**それにもまして大きな懸念があった。半球体という裸形の幾何学が日本の風景のなかに露出することへの違和感である。中国で拒否された「卵」が日本で受け入れられるとは、とうてい思われない。インドの塔をもってきても日本の風景になじまなければ、そしてそこでつちかわれた感性になじまなければ、結局のところ根づかない。日本人の感性を考えると、大きな「卵」が露わになるのは、中国における以上に違和感をもたれる恐れがある・・・。(中略)
そこで編み出されたのが、すでになじんでいる伝統的な屋根を塔全体にかぶせ、さらには巨大な「卵」に直接取り付けて「卵」は一部だけ見せるという、大胆な折衷的デザインであった。**
インドのサーンチーから大塔(だいとう 表紙の高野山創建大塔復元立面図参照)へのデザインの転換についての考察。これを空海のデザインセンスと指摘する著者。このあたりが「!」なのだ。
「歴女」ということばをテレビのクイズ番組で知った。
■ 戦国武将や幕末の志士に恋する若い女性。歴史に関するマニアックな知識の持ち主。
一昨日、昨日と歴女に関する特集記事が新聞に掲載された。「草食系男子」は付き合いやすいが結婚や子育てのことを考えたとき、非常に頼りなさを感じてしまう女性が多く、それで強くて、決断力がある武将に憧れを抱くのではないか、というなかなか興味深い分析が紹介されていた。
どうも周りの男が頼りなく感じられ、強く逞しい歴史上の男とのバーチャルな恋に落ちる、ということらしい。
真田幸村が戦国武将で人気ナンバー1、理想の男性像なんだそうだ。歴史に疎い中年オジサンは、幸村がどんな武将だったのか詳しくは知らない・・・。
バーチャルな恋もいいけれど、リアルな恋に落ちて欲しいと思う。でないと、ますます結婚しない女性が増えてしまう。少子高齢化に歯どめがかからない。でも、しかたがないか。
いつ頃までかは、分かりませんが、昔の中公新書には透明のカバーがついていました。長谷川 尭さんの『建築有情』も透明のカバー付きです(写真はカバーを外して撮りました)。昭和52年7月に再版された本です。もう30年以上も前に読んだことになります。
今、この本を読んだら、どんな感想を持つだろう・・・。『のぼうの城』を読み終えたら、読んでみようと思います。
このブログの過去ログを見て、何回も中公新書を取り上げていることが分かりました。既に書いたことですが、内容の充実度では他の新書を大きく引き離していると私は思います。でも中公文庫はほとんど取り上げていません。読んでいないんです。
ウイスキーはサントリーなのに、ビールはアサヒかキリン。新書は中公なのに文庫は新潮か文春。何故なのか、理由はよく分かりません。
自室の書棚に並ぶ中公新書には、こんなタイトルのものもあります。学生のときに読んだ本です。よく覚えていませんが『美の幾何学 天のたくらみ、人のたくらみ』は繰り返しの美学に通ずる内容だと思います。昔から関心があったようです。
『近代絵画史 ゴヤからモンドリアンまで』この本の帯には**近代の西欧美術を概観して最もスタンダードな“読める”通史**とあります。忘れていましたが、少しは美術史の本を読んでいたようです。
新聞記事によると編集部では通巻2000点を記念して『中公新書の森 2000点のヴィリジアン』という冊子を作成したそうです。
この冊子に川上弘美さんのエッセーが収録されていることを記事で知りました。入手しなくてはなりません。
古い建物のない町は思い出のない人間と同じだ
■「タウン情報」というタブロイド版のローカル新聞があります。週3回発行のこの新聞のコラム担当者の一人に安曇野ちひろ美術館と長野県信濃美術館の館長を兼務している松本猛さんがいます。
先日掲載された「南ドイツの旅」と題するコラムで松本さんは先月(5月)末から今月のはじめにかけての旅行(ドイツ南部に東山魁夷の取材地をトレースすることが目的だったそうです)について書いていました。
およそ40年前、東山魁夷はドイツを旅して数々の名作を描いています。そのうちの何点かを信濃美術館の東山魁夷館で観ることができます(油絵も何点かあって大変興味深いです。全て油絵だったかな?)。
松本さんは、魁夷の取材地の多くを特定することができたそうです。魁夷の絵と符合するポイントが見つかったんですね。
40年前と景観がほとんど変わっていない、いや、魁夷が学生時代に訪れた75年前と変わっていない、ということが文中に書かれています。
第二次世界大戦で破壊された中世の町をドイツの人々が見事に復元したことはよく知られています。
ドイツには「古い建物のない町は思い出のない人間と同じだ」ということわざがあるそうですが(*1)、このような意識を持っているドイツの人々にしてみれば、先のことは当たり前なのかも知れません。日本では考えられないことです。伊勢神宮の式年遷宮、あれは例外的な「儀式」でしょう。
時計の針がありません。ちゃんと保管されているんでしょうか、気になります。
東京駅前の東京中央郵便局の保存問題にについて鳩山前大臣は取り壊すことは「トキを焼き鳥にして食っちゃうようなものだ」と発言しました。「それより剥製にして残すほうがいいだろう」と。
この発言に対してある政治評論家が「あんなものはカラス、剥製にする価値などない」という趣旨の反論をしていました。この建築の魅力が分かりにくいことも確かだとは思いますが。
古い建築を何のためらいもなく次から次へと取り壊してしまう、都市を記憶喪失状態にしてしまう・・・。
悲しいことです。
追記:*1 どうもこれは画家の東山魁夷の言葉のようです。
Ao(アオ) 090329撮影
低層棟はステップガーデンになっていて、屋上緑化されている。誘客効果を考えると前面道路側からその様子がチラッと見えるような計画の方が良かったのでは、などと勝手なことを考えてしまう。
それにしても、あたまでっかち・・・。「モード学園スパイラルタワーズ」に**確かに美しいんです。デザインも素晴らしいんです。しかし…どことなく不安になるんです。**と昴さんからコメントをいただいたが、そのままこの「Ao」にもあてはまる感想ではないか、と思う。
高度な構造解析によって、安全性は充分検証されているのだろうが、やはり「あたまでっかち」は不安定な印象だ。
昔、運動会のかけっこで転ぶと、「あたまでっかちだから(頭が大きいからバランスが悪く、転びやすい)」と言われたものだ。
地階にテナントとして入った紀ノ国屋
この敷地にあった紀ノ国屋のどっしりとした青い店舗がなつかしい。
■ 上野で開催された阿修羅展。阿修羅像をグルッと360度観ることができたから、鑑賞者はそれぞれ好きなアングルを見つけることが出来ただろう。いや、もしかしたら会場が混雑しすぎていてそんな余裕は無かったかもしれない。
私は正面右側の顔を斜め後方から見るのが断然いいと思った。何冊か読んだ雑誌の中に同様の指摘をする文章があったような気がする。
彫刻にはやはりベストだと思えるアングルがあるものだ。いや人にだってもちろんベストアングルはある。顔をアップにするなら右側からにして、とか注文をつける女優もいるらしい。
この写真は松本近郊の某小学校の昇降口前に据えられているブロンズ像。所用で出掛けた際、好きなアングルから撮った。右手の指の先には小鳥でも飛んでいそうだ。残念ながら空を見ている顔の表情はこの写真では判然としないが、優しいおおらかな表情をしている。「希望」という名前にふさわしいと思う。
このブロンズ像の作者は地元出身の彫刻家Mさん、東京藝大で彫刻を専攻した方だと記憶している。芸術作品には作者の人柄はもちろん、知性も感性もにじみ出るものだと思う。
この像を子どもたちはどのように見ているのだろう・・・。
■ 一昨日(16日)の午後、長野県内は各地で雷雨となり、局地的に雹も降った。直径が1.5cmほどあったというからビー玉くらいの大きさか。
レタスやキャベツなどの野菜に穴があいたり、リンゴやナシなどの小さな実が裂傷するなどの被害が出たそうだ。松本市の南西部でも降雹があって、昔の同級生から届いたメールにも被害が出た、と書いてあった。
自然が相手の農業は天気の急変には対処できない。大変だなぁ、と思う。
■ さて、本題。で、本の話題。
『のぼうの城』和田 竜/小学館を読み始めた。この本も友人から借りていた。かなり話題になった本だと聞いたが、書店で見た記憶がない。まあ、平積みされていたとしても、手にとることもなかっただろう。友人に感謝。
時代小説(歴史小説との違いが分からないが)を読むことはあまりない。最近読んだのは『利休にたずねよ』山本兼一/PHPくらいのもの。
タイトルの「のぼう」とは、
「しかし和尚、御屋形の従兄弟をのぼうのぼうと呼んでもらっては困る」
「でく、をつけんだけありがたいと思え」
という会話があるように「でくのぼう」のことなのだ。
本の帯に**智も仁も勇もない。しかし抜群に人気はある。**とある。主人公は人々からのぼう様と呼ばれ、親しまれている。
さて、こののぼう様、いったいどんなことをして読者を楽しませてくれるのだろう・・・。
090616撮影
■ 名古屋駅前、モード学園スパイラルタワーズ。このランドマークなタワーについては建築雑誌「建築技術」の08年7月号に詳しい。
ドレスをまとったような柔らかな曲面をつくるカーテンウォールの設計、施工。高度な構造解析・・・。
**時代の先端を行き、お互いに切磋琢磨し合う学生達の溢れんばかりのエネルギーが、からみあいながら上昇し、社会に羽ばたいていく様**を表現しているのだそうだ。
技術的にクリアしなくてはならない問題が設計段階から施工段階まで次から次へと出現したことだろう。
日本で最初の超高層、霞が関ビルからおよそ40年、こんなデザインまで出来るようになったのか・・・。
でも技術的に実現可能ということとデザインの必然性とは当然異なる。
県境の村 小谷にて 090615
■ こんな急斜面にも棚田があるんですね。田植えも稲刈りも大変でしょうね。この地で生きるという強い意志を感じます。
棚田のある風景に魅せられる人は多いですね。カメラマンにとって棚田は絶好の被写体ですね。夕焼け空を写すピンク色の棚田、青々と苗の育った夏の棚田、実りの秋の黄金色の棚田、雪の棚田などなど、四季折々の棚田の写真を展覧会や写真雑誌などで見ることがあります。
棚田に魅せられるのはなぜだろう・・・。自然の中に組み込まれた田圃、その繰り返しによってゆるやかに秩序づけられた風景。
棚田って繰り返しの美学なのだと気がつきました。これからは棚田のある風景にも注目です。