感謝、感謝。
今年一年 「透明タペストリー」を閲覧いただき、ありがとうございました。
どうぞ皆さんよい年をお迎えください。
新島の民家 撮影1980年7月
平屋寄棟 新島産抗火石の屋根と塀
三宅島の民家 撮影1982年7月
平屋寄棟 波トタン葺き
■ 伊豆七島あたりは台風の常襲地帯。民家は風対策として平屋。屋根は切妻より有利な寄棟。建物周りを塀などで閉じるのも風対策。気候風土が民家をデザインする。実感。
あの頃は毎年夏になると島に出かけていた。なつかしい・・・。
北安曇郡池田町相道寺にて
■ 藁を編んでつくられた「やす」と呼ばれるお堂に納められた道祖神と二十三夜塔と左側の石仏は・・・、観察はまたの機会に。
花崗岩に彫られた双体道祖神、抱肩握手像。肩にかけた手はよく見ないと分からない。像の右側に相道寺村という刻字がある。建立年は不明。
道祖神と同じく花崗岩に彫られた二十三夜塔。道祖神より大きい石が使われることが多いと聞くがここはほぼ同じ。
満ち欠けを繰り返す月は死と復活の象徴として人びとの心と密接なつながりをもっていて、昔から信仰の対象として崇められてきた。二十三夜塔もその一例。
■ 早いものでもう年の瀬。
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉已に秋声
この漢詩を知ったのは随分昔のことだった。中学生の頃だったと思う。一寸の光陰軽んずべからず 時間を無駄にするな、無為に過ごすなということだが、当時は全く実感が無く、人生なんて途方もなく長いものだろうと思っていた・・・。でもこの歳になって、人生の総体を実感するようになった。
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10月に北杜夫が亡くなった。最も長く親しみ続けた作家だった。今、代表的な作品を再読しているがその文学的才能に驚くばかり。
『夜と霧の隅で』 夜と霧にまぎれて行われた、いや堂々と行われた地獄のような、歴史上のとても不幸な出来事・・・。あの時代の沈鬱な雰囲気が漂うドイツの精神病院が舞台の小説。芥川賞受賞作品。海外が舞台の作品が芥川賞を受賞するのは珍しいこと。
『私が源氏物語を書いたわけ』山本淳子 こなれた現代語訳がとてもよい。来年は古典に親しもう。まずは先日丸善で買い求めた『紫式部日記』山本淳子訳注/角川ソフィア文庫の現代語訳を読もう。それから原文も?
『白きたおやかな峰』 久しぶりに読み応えのある小説を読んだ。
『五重塔のはなし』監修濱島正士・坂本功/建築資料研究社 日本人の叡智 五重塔のなぜ? に研究者、設計者、施工者が回答する。視覚的にも不安定な五重塔が地震で倒れないのはなぜか・・・。 **五つの帽子を積み上げたような五重塔は、地震のときスネーク・ダンスをするが、真中を通っている心柱がその乱れを抑えて、しだいに振動を弱めていく**類書『五重塔はなぜ倒れないか』上田篤編/新潮選書の帯より。
東京スカイツリーにも応用された心柱構造。
『伊礼智の住宅設計作法 小さな家で豊かに暮らす』伊礼智/発行アース工房 設計とは整理すること。複雑に絡んだ諸要素を解きほぐしてより単純な形に落とし込む・・・。解けそうにない複雑なパズルにチャレンジするようなものか。その過程はとても大変だが、それがまたとても楽しい・・・。
端正なデザインでまとめられた作品がスケッチや詳細図、カラー写真と共に紹介されている。
■ 今年読んだ本の中から印象に残った3冊を挙げる。
『江戸の坂 東京の坂』 横関英一/ちくま学芸文庫
著者の関口さんは仕事のかたわら長年江戸の坂、東京の坂について研究を続けてこられた方。切絵図などの古地図を調べ、坂に関する史料をあたるなどして、坂の所在地の特定を試み、呼び名の由来やその変遷などを詳細に研究した、その成果が収録されている。火の見櫓についてもこの位徹底的に調べ上げたら凄いだろうなと思う。大変な労作だ。
『日本人の論理構造』 板坂元/講談社現代新書
再読本 初読は1977年
どうせ短いいのちなら。
どうせ二人はこの世では花の咲かない枯れすすき。
どうせおいらは一人者。
どうせひろった恋だもの。
どうせ気まぐれ東京の夜の池袋。
例えば「どうせ」について著者はこのような例を示し、日本人の心情にぴったりするものらしく、流行歌に頻出度がきわめて高いと指摘する。そして、すべて人生に対する否定的な思想であり、あるいは絶望的な評価であるとし、**行きつくところは孤独感無常観の袋小路である。おそらく流行歌の作者は無意識のうちにこういう価値判断の様式をとり入れることによって、庶民の胸をゆさぶるのであろうが、これが何ともいえない共感を呼ぶところに日本らしさがあるのである。**とまとめている。
さらに、
「どうせ買うなら飛び切りいものにしよう」
「どうせ行くなら、思い切ってヨーロッパにでもするか」
「どうせやりかかったことだ、とことんまでやってやろう」
このような例を示し、**決断のしかたが論理的に大飛躍する点とそれまでの思考の過程と無関係におこなわれる点で、やはり思考放棄の一形式である。**と述べている。
さらに続けて **だが、マイナスの面ばかりがあるのではない。明治以来、このどうせの論理が成功した点も忘れてはならない。どうせやるなら一流のものを完璧なものをというのは、無理が通れば思いの外の成果をおさめることができる。(中略)その時の必要限度をはるかに超えたところに目標が置かれたのが、五年後、十年後に実を結んだ例は少なくない。戦後の復興も、最近のコンピューター熱も採算を無視して飛びついたと思われる点がなくもないのは、このどうせの論理の目が表に出た例と考えられる。**と考察している(49~52頁)。
どうせ の他に、なまじ、いっそ、せめて、さすが、しみじみ、などの言葉についても用例をいくつも示して日本人のものの考え方や心理を曖昧さを排除して的確に分析している。
『白きたおやかな峰』 北杜夫/新潮社
久しぶりに読み応えのある小説を読んだ。**なんであんな山に登りたがるのだ。たかが雪と氷のちょっとしたでっぱりじゃないか。なんでそんな真似をするのだ。もうみんなやめてくれ。**(291頁) 北杜夫の冷徹な眼が生んだ山岳小説の「白眉」。
年越し本は『楡家の人びと』 新潮文庫。北杜夫はこの長編小説を30代半ばで書いている。驚きだ。今これほどの力量のある作家っているのだろうか・・・。
東筑摩郡山形村上大池の火の見櫓
■ この火の見櫓を取り上げるのは2回目です。
櫓全体のプロポーションがなかなかいいです。ながめていて気が付くのはどこか日本ではない、アジア的な雰囲気が漂う屋根まわりのデザインです。
反りの大きな軒先のラインとそれを強調する蕨手。建築でいうと鼻かくしに相当する部位の「ひらひら」。やけに大きな避雷針。みな個性的なデザインです。
見張り台は手すりに飾りがついていますが、直線材で箱のようにできています。曲線と直線。屋根と見張り台の対比的なデザインがユニークです。
踊り場まで梯子が櫓の外に架けられています。櫓の途中でデザインを変えています。他の部分のようにブレースを付けると踊り場に入れませんから。ここのデザインもまた特徴的です。
なめらかな曲線を描いていますし、きちんと脚元までトラスで構成されています。理想的な脚部です。
追記140427 この火の見櫓は現存しない。
■ 今月22日にオープンした松本駅前の丸善で今日(26日)『週刊ブックレビュー 20周年記念ブックガイド』NHKサービスセンター を買い求めました。店員にこの本を探してもらうと、これが最後の1冊ですと言われました。何冊あったのか分かりませんが、帯に「読書人必携」とあるこの本が売り切れとなって、うれしかったです。
丸善は松本に出店するに際し、マーケティングリサーチをもちろんしたと思います。松本20数万の市民でこの書店を支えることができないと、学都を標榜している都市として面目ないなどと余計な心配をしたりもします。
地元紙の報道によると、丸善書店の社長は**書店業界は非常に厳しく売り上げは下げ止まらないが、歴史と文化と学問の街である松本への出店を決めた。**と開店披露の会の席上で語ったそうです(信濃毎日新聞12月23日付朝刊)。
かつて長野県は教育県だといわれていました。長野県民は教育熱心だったということですが、このことを示す具体的な事例として、開智学校の建設に関るエピソードを挙げたいと思います。それは明治初期に開校した開智学校の建設費約1万1千円の約7割を市民(松本町民)の寄付で賄ったということです。 松本の人たちのこの学校に託した想い、教育に寄せる期待と熱意をうかがい知ることができます。
明治4年、筑摩県に赴任した永山盛輝は教育熱心で教育環境の充実に尽力して、日本一の就学率を達成したそうです。どうやらこの辺りに長野県民が教育熱心だといわれるようになった「源」がありそうです。
開智学校の大工棟梁として指名された立石清重は東京方面へ徒歩!で出かけて西洋館を見て回ったそうです。それも少なくとも2回(『日本の近代建築』藤森照信/岩波新書による)。市民の期待に応えようと立石清重も一所懸命だったのでしょう。
このような土地柄、読書欲旺盛な市民がこの大型書店に足しげく通って本を買い求めることを願うばかりです。でもその一方で既存の中小の書店のことが心配になります。創業が明治23年という松本の老舗書店の鶴林堂も数年前に閉店しましたから・・・。
これからは、このような買い方をやめようと思います。 丸善の地階の専門書のコーナーも随分充実していて、建築のコーナーは書棚が48スパン! 1スパン75cmとして、36mにもなります。もちろんこの本もありました。
『白きたおやかな峰』 北杜夫/新潮社
■ 再読を終えた。
**ついに現れてきた。今まで夢と写真でしか見たことのない、目くるめく巨大な山塊が。地球の尾根といわれる大地のむきだしの骨格、カラコルムの重畳たる高峰の群が。
はじめは岩山であった。これまで見つつづけてきた砂漠の荒涼たる色合と同質で、しかしそれが平坦ではなく、のしあがり、刻一刻とのしあがり、飛行機の高度にとどくとばかりにのしあがってきた。
それは比類なき重量を秘めた殺伐たる岩の厖大な集積であった。**
この山岳小説は引用した書き出しで始まる。ああ、この表現力。そしてこの小説にも北杜夫の作品に共通する特徴、そう、ユーモアがときどき顔をのぞかせる。例えば次のように。
**「実はドクターがもうへばりました。少からず見っともない格好で歩くので、ポーターの手前、日本登山隊の体面にも関りますから、ここで休ませてゆこうと思います。第二パーティはこれを収容して下さい。どうぞ」 (55頁)** 隊員どうしのトランシーバーによる会話だ。このドクター柴崎のモデルはもちろんカラコルム遠征隊に加わった北杜夫だ。
この「どくとるマンボウ カラコルム遠征記」的な雰囲気は圧巻のラストに向かって次第に薄れ、ディラン峰(7273m)初登頂を目指す山男たちの壮絶な物語へと昇華していく。
ふたりの隊員がアタックするも冷酷で拒絶的な山に阻まれて後退。別の隊員ふたりによる2回目のアタック。薄い酸素、雪と氷、悪天候・・・(結末は書かないでおく)。
この作品は文庫化されたが今は絶版になっているようだ。残念ながら手元に文庫本はない。是非、復刊して欲しい。
箱に印刷されている著者のことば
**山にのめりこもうとする気持ちと、そうした密着を拒否しようとする意志との相剋から、この小説が生まれたのだと私は考える。**
『黄いろい船』
『どくとるマンボウ青春記』
『どくとるマンボウ途中下車』
『どくとるマンボウ追想記』
『どくとるマンボウ昆虫記』
『どくとるマンボウ航海記』
『夜と霧の隅で』
『白きたおやかな峰』
以上読了
■ 2008年の秋、上野でフェルメール展が開催されました。 そして今、ふたたびフェルメール展(フェルメールからのラブレター展)がBunkamura ザ・ミュージアムで開催されています(来年の3月14日まで)。
「手紙を書く婦人と召使い」
2008年の展覧会で買い求めた絵はがき
フェルメールが残した作品は30数点。真贋不明な作品があるために作品数が定まりません。今回は「手紙を書く婦人」、「手紙を読む青衣の女」、「手紙を書く婦人と召使い」の3点が来ています。
3点とも透明な空気感に満ちた室内に柔らかな光が左の窓から入ってきています。左からの光による演出というのがフェルメールの作品の特徴で、右側からの光を人物にあてた作品は「赤い帽子の娘」、「レースを編む女」くらいです。「眠る女」という作品はどちらからの光なのか私にはよく分かりません。上の絵は静かな室内でふたりが言葉を交わしているように見えます。「手紙を読む青衣の女」も手紙を音読しているように見えます。
今朝(25日)の日曜美術館でフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が紹介されました。あのターバンの青はウルトラマリンブルーと呼ばれ、ラピス・ラズリというアフガニスタン原産の石の粉末に亜麻仁油を加えてつくるとのことです。この青が「手紙を読む青衣の女」にも使われているのでしょう。
完璧な画面構成、巧みな陰影による立体的な表現もフェルメールの絵の魅力だと私は思います。
上野の国立西洋美術館で開催中の「ゴヤ展」、そして竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「ヴァレリオ・オルジャティ展」(スイスの建築家)とセットで日帰り東京してもいいかなと思います。まだ他にも観たい展覧会が開催されているかもしれません。
■「花」という対象に対する視点やアプローチの方法は様々だ。画家と植物学者とでは全く異なる。画家は自身の感性によってひたすら花から「美」を抽出しようとする。一方植物学者は知的好奇心に根ざした分析的な視点で、例えば花の構造を把握しようと仔細に観察する。
対象を火の見櫓に変えても同じことだろう。火の見櫓のある場所の雰囲気や風景を捉えようと観察する人も、ぐっと火の見櫓に近づいてその構造や構成要素を分析的に観ようとする人もいる。
言いたいのはどちらが優れているか、ということではない。対象に対する視点やアプローチの方法は人それぞれでいい、ということだ。
ところで、木を見て森を見ないとか、医者は病気を診て人を観ないというようなことが言われる。この批判めいた指摘は複視的に部分も全体もみるべき、ということだ。
趣味で火の見櫓を観察しているのだから、このような指摘など気にすることはない。前述したように、人それぞれでいい。私は先に挙げたふたつの視点で火の見櫓を観察したい。時には火の見櫓のある風景の郷愁を、時にはものとしての成り立ち、システムを。
(過去ログ加筆)
松本市波田中波田の火の見櫓
■ 随分スレンダーで背の高い火の見櫓だ。ブレースが8段、そして踊り場が2ヶ所ある。この位のサイズになると固定荷重(自重)、風圧力、地震力に耐えるように脚部を丈夫に造る必要がある。で、がっちりトラスを組んでいる。
平面形が4角形の櫓に8角形の屋根と見張り台。半鐘が2ヶ所に吊るされている。
トラスを組んでがっちり造っている。前稿で取り上げた三郷温の火の見櫓の簡素な脚部と比べると違いがよく分かる。
この火の見櫓を取り上げるのは2回目(過去ログ)
安曇野市三郷温の火の見櫓
235 撮影111224
■ 上長尾公民館の南側に立っている火の見櫓。なななかいいロケーションで遠くからでもよく見える。右側後方に美ヶ原王ヶ鼻が見える(王ヶ頭はこの場所からだと王ヶ鼻の後方にかくれて見えない)。堂々とした立ち姿には風格すら感じる。必要な部材のみで構成された美しいフォルム。ただし後から設置されたスピーカーやアンテナは邪魔。
脚部 カーブが実に美しい。
安曇野市三郷小倉の火の見櫓
234
■ 変わり種の火の見櫓に遭遇した。これだけスケスケだと注意していないと気がつかないだろう。脚元に屋外消火栓とホース格納箱、そして丸い消火栓の標識。火の見櫓ファミリーの集合写真。
現地では気付かなかったが左隣の注連縄の下は道祖神かもしれない。見ていても見えていないんだなあ・・・。難しく言うと視覚的な情報が脳に伝えられても脳がその情報を認識しないということ。これはよくある。
道祖神と火の見櫓は立地条件が似ているということなのか、地区の人たちが道祖神の近くに火の見櫓を建てようと単純に考えたのか・・・。右側はごみ置き場。共に火の見櫓の親戚のような存在だ。
写真では分かりにくいがブレースには普通のターンバックルが使われている(半鐘の横に注目)。踊り場にはどのようにして入り込むのだろう・・・。
安曇野市三郷小倉の火の見櫓
233
■ 三郷北小倉公民館の横に立っている火の見櫓。櫓や見張り台の大きさに対して屋根が少し小さい。大きなスピーカーが目ざわり。
安曇野市三郷小倉の火の見櫓
232
■ 安曇野のヤグラー・のぶさんがご自身のブログで取り上げておられたが、安曇野市三郷にはこのタイプの火の見櫓が何基もある。3本柱の櫓ではあるが、梯子状の櫓(櫓は立体的な構造物だと考えているので、梯子状の櫓という捉え方はおかしいが便宜的に櫓と呼ぶ)に控え柱(つっかえ棒)を付けたような印象だ。
以前もこのタイプの火の見櫓を取り上げたが(過去ログ)、のぶさんからその所在地を問うコメントをいただいた。安曇野市三郷にある火の見櫓だが、三郷(旧三郷村)はもともと温、明成、小倉の3ヶ村が合併してできた村なので(三郷という名前の由来)広いが、小倉地区にあることは間違いないと思う。今日出かけてみたが、残念ながら見つからなかった。
同じ小倉地区の北小倉でこの火の見櫓にたまたま出会った。ドラ形の半鐘に雨がかからないように小屋根を付けている。簡素でいいデザインだ。
松本市島立の火の見櫓
231
数日前、松本合同庁舎前の道路を走っていた時、センサーがこの火の見櫓に反応した。あれ、こんなところに火の見櫓がある! で、今日出かけてきた。なかなか整った姿形の櫓だ。脚下に小さな文字書き道祖神が祀られている。
梯子が見張り台の床を突きぬけて伸びている。ちょっとした配慮だが、こうしておくと上り下りしやすい。梯子が床までのものとはかなり違う。半鐘は取り外されている。屋根の頂部の大きなダンゴは松本市内の比較的小ぶりな火の見櫓によく見られる。
脚部に注目。3面のうち2面は水平部材をかなり低い位置に取り付けて、斜材で補強している。残りの1面だけ違うがこれは元々同じだったものを櫓内部に出入りしやすいように後で改修したのだろう。下の写真でそのことが分かる。
ブレースを調整するためのリング式ターンバックルを上半分だけ残し、水平部材のアングルに溶接してとめている。既に書いたが、このターンバックルは変形しやすい。だが、火の見櫓のような工作物では強度的に問題が無いのだろう。