春のフォトアルバム 月と金星と木星と 撮影120327 夜8時ころ
coltyさん、私も精一杯頑張って撮りました。
■ (←フェルメールブルーのつもり) NHK BSプレミアムの朝の番組「額縁をくぐって物語の中へ」を今までときどき見ていた。残念ながら、昨日(23日)が最終回だったようだ。今までに100点の絵を紹介したという。過去ログ
タイトルが示す通り、番組出演者(池田鉄洋とふせえり)が絵の中に入りこんで、描かれた人物にインタビューしたり、周りの様子を観察したりして、絵を深く理解し、観賞するというおもしろい企画の番組だった。
このところフェルメールの絵を取り上げていたが、昨日はこの絵「音楽の稽古」が紹介された。
以下、メモした内容などを載せておく。
○人物や物を画面の右半分に描き、左半分を空けてあるのは、窓から入る光を効果的に見せるための工夫。(なるほど)
○フェルメールは遠近法を研究していた。遠近法というのは、2次元で3次元的な世界を描くための工夫のことで、この絵は透視図法で描かれている。透視図は建築設計でもよく使われる表現法だ。
○窓の上の梁、床(大理石は当時、10軒に1軒くらいの割合でしか使われていなかったという。22日に紹介された「手紙を書く女と召使い」で説明があった)と壁の交線、窓の下端、テーブルの左端、これらの線を延長していくと1点に集まる(消失点)が、それがちょうど背中を向けている女性の左腕あたりにくる。これは視線をこの部分に誘導するための工夫。(なるほど!)
○フェルメールの絵は室内の何気ない光景を描いたものが多いが、どれもミステリアスな雰囲気が漂っている。これは日常のそのままを描かず、分かりやすい要素をそぎ落としたことにもよる。この絵ははじめ、女性が右側の男性の方を向いていたが、フェルメールはこのように描き直している(鏡に映っている女性の顔は男性の方をむいたままだ)。このように描くことでふたりの関係を明らかにせず、鑑賞者にふたりの関係をもっと知りたいという気持ちを抱かせている。(鑑賞者の目と心を惹きつける工夫というか、仕掛けがなされている。深い!)
○フェルメールの絵は描かないものを表現するためにある。数々の名言を残したフランスの詩人・作家のジャン・コクトーはこのように評した。
「額縁をくぐって物語の中へ」 7時15分からの15分番組だったが、なかなか充実していた。
■ 松本駅お城口(東口)広場の改装工事がほぼ完成した。
駅前広場は町の顔、以前に比べるとこの性格は薄れているかもしれないが、それでもやはり町の顔だ。そのデザインはどうあるべきか、検討が繰り返されたに違いない。その際、松本らしさって何?という問いかけが当然あっただろう。
「松本らしさとは何か」という問いに対して、抽象的にしか示されない松本のイメージ。それを具体的な形にまで落とし込むという、デザイン作業は大変だっただろうと思う。その前に、そもそもこの駅前広場にどのような機能を負わせるのか、という基本的な問いかけにも答えなくてはならなかったはずだ。このような観点から、いずれこの広場を観察したいと思う。
今回はとりあえず駅前広場の駅側を縁どるコリドールを載せるに留めておく。ごく薄いフラットな屋根と等間隔に並ぶ柱、繰り返しの美学・・・。
■ 道路標識や施設内の案内板、商品の取り扱い説明書、カタログ等々に「分かりにくい表現」があふれている。
開館間もない公共施設で、トイレの位置を示すサインが分かりにくいのか、「トイレ」という文字と「→」を紙に書いて張りだしてあったりすることがある。こんな光景を目にすれば、設計者はがっかりするだろう。
こんな時には、利用者の空間認識能力にも問題があると、設計者は言いたくなるのではないか。ただ、以前より施設内の案内表示は改善されていて、例えば大きな病院でもあまり戸惑うことなく、目的の部屋まで行くことができるようになったのも事実だ。廊下の床に数本の線が引かれていて、例えば赤い線を辿ると病室、黄色い線を辿ると診察室というように、目的の部屋に行くことができるような工夫がされていたりもする。
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昨日(19日)、4人で千葉県市原市まで車で出張した。 ♪運転手は君だ、車掌は僕だ、じゃない、助手席は僕だ、というポジションだった。松本から千葉まで行く場合、首都高速を通ることになるが、おのぼりさんには車についているカーナビの案内だけではどうも分かりにくい。それで僕は助手席でカーナビの情報を補う役をした。
下調べをして道路名くらいは頭に入れておくべきだった、と反省している。でも、でもだ。道路標識が分かりにくいことに文句を言いたい。
**情報の送り手は、受け手の人物像、プロフィールを設定し、それに応じた表現を選ばなければなりません。**(『「分かりやすいい表現」の技術 意図を正しく伝えるための16のルール』藤沢晃治/ブルーバックス 58頁) そう、道路標識にはどのような情報が求められるのかということと、その情報を分かりやすく伝えるにはどう表現すればよいか、ということをもっと研究して欲しい。
千葉から松本に帰る場合、首都高速の標識に示して欲しい情報は銀座だ箱崎だといった都内の行き先情報ではなく、中央自動車道への案内だ。どうもこのような情報のニーズがあることをきちんと把握できていないような気がする。もっとも、かなり新宿に近づいたところで、ようやく中央道や東名高速の案内もあったが。
確か映画の字幕には10文字くらいというルールがある。瞬間的に読みとることができるのはこのくらいの文字数だと言われているのだ。このような知見が、道路情報には活かされていない。2行にもなるような電光表示の文字を高速走行中に読みとることができるはずがない。助手席の僕がそうだったのだから、運転者はもっと困難なはずだ。
先に挙げた病院のように、道路上に色の違う線を引いて欲しいなどと言うつもりは、もちろんない。高速走行中、一瞬で情報が分かるような工夫、例えば中央自動車道なら「中央道 CHU ↑」東名高速道路なら「東名 TOM ↗」というような分かりやすい表示を考えるべきではないのか。このような表示を車線変更を要する地点にきちんと表示することだ。
帰路、運転手・Mくんの的確な判断がなければ、銀座方面へ迷い込んだかもしれない・・・。
松本→長野自動車道、中央自動車道、首都高速4号新宿線、首都高速9号深川線、首都高速湾岸線、東関東自動車道、京葉道路→蘇我
■ **gooブログでは、より皆様の書いた記事をわかりやすくそして、ユーザー様同士のコミュニケーションがはかれるよう、「人気キーワード」に紐づいたブログがひとめでわかる新コーナー(ベータ版)を運用中です。**ということだそうだ。
紐づいた? 紐づける?
知らない言葉だなぁ ということで検索してみた。「紐づけるとは 関連づける 相互に結び付ける などという意味の言葉。コンピュータやインターネット関連の業界で特定のデータと別のデータを相互に関連づけるという意味で使われる。」 ということだそうだ。
gooブログでは紐づけの運用をはじめたということだ。画面の右側に表示されているカレンダーの下に最新記事が10表示されているがその中の「北杜夫再読」をクリックしてみるとその記事だけが表示されて、記事の下にキーワードが表示される。これが上の説明にある「人気キーワード」だ。そのなかの「どくとるマンボウ青春期」をクリックすると上の画像のような表示で、紐づいたブログが紹介されている。
なるほど、いろいろ考えるもんだなぁ。
旧山辺学校 撮影120311
■ 大工棟梁が見よう見まねで洋風に造った松本の学校。「和」の職人のデザインだから、完全に「洋」にはならず、「和洋折衷」となる。擬洋風建築として有名なのは旧開智学校だが、この旧山辺学校の落ち着いた佇まいもなかなかいい。渋好みだ。
旧開智学校の塔と比較すると、この塔の特徴がはっきりする。この塔は「和」を強く感じる、というか「和」そのものだ。上の写真では判然としないが(塔の軒下の垂木が写っていない。この時は何を写したいのか考えていなかった。やはり漫然と写真を撮っていてはダメだ。もっとも、晴れた日に軒下をはっきり写すためには露出を調整する必要があるが。屋根の雪もレフ板の役目をしてくれてはいない・・・・。)、軒天井を張らずに下り棟や垂木を見せている。漆喰の壁と黒ずんだ柱は古い寺院を思わせる。となると窓は火灯窓に見え、手すりの親柱のてっぺんは擬宝珠に見える。いや擬宝珠そのものだ。この塔の印象を数値化すると洋1:和9くらいの比率か、いや和がもっと多いかな。塔の・・・、名称が分からないので基部としておくが、塔の基部が下見板張りにでもなっていたら洋0:和10としただろう・・・。
旧開智学校
旧開智学校の塔の基本的な構成は旧山辺学校の塔と変わらないのに、塔の軒下に天井を張り、柱を塗装し、手すりのデザインに曲線をとりこんだりすると、あら不思議、全く違った雰囲気に。窓はどう見ても火灯窓には見えない。この塔は洋8:和2くらいかな。
デザインっておもしろい。
追記 旧山辺学校の大工棟梁は地元出身の佐々木喜重という人で、旧開智学校の建設にも携わったという。塔の基本的な形がよく似ているのも当然か。
■ NHKの「週刊ブックレビュー」、1991年4月にスタートした書評番組が終わった。今朝(17日)6時半から最終回の放送を見た。今まで放送してきた番組のVTR映像をメインに構成した総集編。21年間続いた番組で紹介された本は2万冊にもなるという。僕はこの番組をスタートした時から見てきた。
1時間番組の前半は3人のゲストがおすすめの本を持ち寄っての合評コーナー。本の読み方は人それぞれ、本の評価も人それぞれだということを実感した。
番組後半のゲストコーナーには述べ4,500人が出演したそうだ。北杜夫も川上弘美も出演している。有川浩(女性作家、念のため)も。テレビ出演を断る作家でもこの番組の出演依頼にはOKすることが多かったという。
しばらく前に買い求めた『週刊ブックレビュー 20周年記念ブックガイド』の「番組20年の歩み」という記事に、この番組がどんな経緯で生まれたのか、紹介されている。**「明治時代から本をたくさん読む人というのは、おそらく人口の1割くらい。すると視聴率は最高でも10パーセント。しかも、そもそも本が好きな人はテレビが嫌いなことが多い。となると、本を読まない人でも見るような工夫をする必要がある。しかし、それをやると今度は本好きな人からは好まれない内容になってしまう。そこからして、すでに大変なジレンマを抱えているわけです」**(70頁) 確かにそうかもしれない。視聴率はそれ程高くはなかっただろう。
毎回楽しみにしていた番組だっただけに、終わってしまったのはとても残念だ。
アシスタントを5年、司会者を3年務めた中江有里さんは、この番組を1番長い物語のようだったと評し、終わらない物語はないと語った。始まりのあるものには必ず終わりがある。確かにその通り。でもこの番組ほど終了を寂しいと思った番組は他にない。
『黄いろい船』
『どくとるマンボウ青春記』
『どくとるマンボウ途中下車』
『どくとるマンボウ追想記』
『どくとるマンボウ昆虫記』
『どくとるマンボウ航海記』
『夜と霧の隅で』
『白きたおやかな峰』
『楡家の人びと』
『幽霊』
『木精』
以上の作品の再読を終えた。以下の作品やその他の読みたい作品はまたの機会にしよう。
『輝ける碧き空の下で』
『さびしい王様』
『どくとるマンボウ医局記』
■ 北杜夫の代表作といえば、『どくとるマンボウ青春記』『どくとるマンボウ航海記』『楡家の人びと』ということになるだろうか。芥川賞を受賞した『夜と霧の隅で』はドイツのある精神病院が舞台ということもあって、それ程なじみが無いのでは。私は好きな作品として『幽霊』と『木精』を挙げる。
北杜夫は『幽霊』を昭和25年、23歳の時に書き始めている。同作品は昭和27年にひとます完成、「文芸首都」(北杜夫ファンには馴染みの雑誌)に、その年から翌年にかけて掲載された。『木精』は『幽霊』の続編だが、『幽霊』の発表の実に21年後に出版されている。3部作、あるいは4部作として構想されていたようだが完成をみなかった。全て読みたかった・・・。
『幽霊』について、北杜夫は評論家の奥野健男との対談で、**「幽霊」は記憶のよみがえりというテーマでしょう。それで、プルーストにも「失われた時を求めて」という小説があって、それがやっぱり記憶のよみがえりを主題にしていることを聞いたもんですから、うっかり模倣に陥ったらいかんと思いまして、小説を書き終わるまで読まないでいたんです。**と語っている(『北杜夫の文学世界』奥野健男/中央公論社 昭和53年2月発行)。
**人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。―だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。**
『幽霊』のこの魅力的な書き出しに、小説のモチーフが端的に表現されている。そう、『幽霊』は心の奥底に沈澱している遠い記憶を求める、「心の旅」がテーマの作品だ。幼年期から旧制高校時代までを扱っている。抒情的というのか、やわらかな文体で書かれた小説だ。
『木精』は20代の半ばから30過ぎまでの時代を扱い、若い人妻、倫子との恋を描いている。不倫といえば確かにそうだが、初恋のように初々しい。全くのフィクションではないことを北杜夫も認めているが、まあこれも「心の神話」という位置づけだろう。
既に何回も読んだ両作品だが、またいつか読みたい。
261 松本市里山辺惣社
■ 被写体にカメラを向ける。何を撮りたいのか、何を伝えたいのかをよく考えて、それを的確にとらえるためのアングルやフレーミングを工夫することが大切だ。 適切なアングルをさがし、余分なものを排除する。被写体を漫然と撮っていてはだめ。いつもこのことを心がけて記録写真を撮っているつもりだが、これがなかなか難しい。
この火の見櫓の特徴は屋根の平面形が12角形ということ。屋根の大半は3角形、4角形、6角形、8角形、円形のいずれかで、他に片流れやかまぼこ形(ヴォールト屋根)もあるがごく少数。12角形というのは珍しい。で、12角形であることがきちんと分かるような写真を撮る。上の全形写真にも屋根は写っているが、形は分からない。
カメラを被写体に向けてシャッターを押す前にもう一度何を撮りたいのか、確認すること。これがポイント!
258
■ 松本市寿地区の他の火の見櫓でも見たが、梯子の下の部分を着脱式にしてある。簡単に登ることができないよう、安全上の配慮がなされている。
火の見櫓を構成する鋼材が錆びているものが少なくないが、この火の見櫓はきちんと錆止め塗装がしてある。鋼材が空気中の酸素に直接触れて酸化する、すなわち錆びるのだから、この現象を防ぐためには鋼材と酸素を接触させなければ良いわけで、塗装はそのためのものだ。
火の見櫓本来の機能を既になくしていても、きちんと手入れをしてあるものは見ていて気持ちがいい。 火の見櫓の状態にその地域のコミュニティーの健全性が現れるなどと言えば言いすぎだろうか・・・。
■ 1925年に台東区東上野に建設され、1970年まで使用されていた火の見櫓。1977年に解体されたが、上部が「江戸東京たてもの園」に移築保存されている。設置されている説明板(上図はその一部)によると、この火の見櫓の高さは23.6m、保存されている部分の高さは7mとのこと。
東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」、同僚のN君が過日ここに行き、この火の見櫓を観察してきた。
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円形の見張り台は直径が3メートルと大きい。長時間に及ぶ監視のために写真のように小屋になっている。屋根は銅板一文字葺き、立派。
「江戸東京たてもの園」には前川國男邸が移築されていることは知っていたが、火の見櫓が保存されていることは知らなかった。これは行かなくては・・・。
棲息地:松本市里山辺の蔵 観察日 120311
■ 「藤森照信展 諏訪の記憶とフジモリ建築」のカタログに収録されている「路上観察学会 座談会in茅野」で、藤森さんはこの部分には名前はないとした上で、「蔵ワッペン」みたいなものだと発言しているが、この部分には牛鼻という名前がついている。
日本の建築文化の凄いところは事細かに名前がついていることだ。従ってこれだけの飾りに名前がついていないということなど、まずあり得ない。彰国社の「建築大辞典」にも確かこの名前は載っていたと思う。この辞典は手元にないので、今確認することはできないが。
この牛鼻には家紋や水、寿という文字を鏝絵でつくることが多いが、この写真のような縁起のいい生きものも少なくない。
山形村にて
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■ 松本市寿北、牛伏川(ごふくがわ)の両岸に立っている2基の火の見櫓。両者は500mと離れてはいない。上は火の見櫓というよりも火の見梯子とでもいった方がいいような簡便なもの。吊るされている半鐘を見れば、電柱や火の見櫓が傾いていることが分かる。
上瀬黒公民館の北隣に立っている火の見櫓は背が高い。周囲の様子やブレースが4段入っていることからもそのことが分かる。横架材間を2mとみると、この火の見櫓の高さはざっと12m。
このように2基の火の見櫓の様子というか仕様に違いが出るのはなぜだろう・・・。
機能の差に因るのかもしれない。梯子状の簡便な火の見櫓は、単に火災の発生や鎮火をそれ程広くない範囲の住民に知らせるためのものであり、背の高い火の見櫓は見張り台から火災の状況を把握し続けるためのものでもある、ということではないかと思われる。より広い範囲の住民に火災を知らせるためでもあるだろう。
このようにもっともらしく推測してはみたが、本当のところはどうなんだろう・・・。
メモ 上瀬黒公民館の北隣の火の見櫓は既に紹介している。過去ログ
■ 高さ約1.5m、巾約1.7mという大きな自然石の直径約74cmの真円の中に彫られた抱肩握手の道祖神。右側に嘉永五子二月八日とある。子はねずみ。西暦で1852年。左側の棒状の石碑は蚕玉(こだま)守護神。蚕(かいこ)の守り神。
半肉彫で立体感のある道祖神、細かな線まで実にていねいに彫ってある。160年も前に彫られた像だとはとても思えない程、損耗していない。この地は信仰心に厚く、経済的にも豊かな人びとが暮らす集落だったに違いない。そうでなければこんな立派な道祖神を祀ることはできなかっただろう。