撮影日時 180831 05:17AM
早朝の空を見ていて飽きることはない。
遠く東の山を覆う雲、その上方の空が淡く染まっている。色は紅色か、朱色か・・・。
その上の雲の下の端が白く縁取りされている。
今朝の水彩画のような空もなかなか好い。
撮影日時 180831 05:17AM
早朝の空を見ていて飽きることはない。
遠く東の山を覆う雲、その上方の空が淡く染まっている。色は紅色か、朱色か・・・。
その上の雲の下の端が白く縁取りされている。
今朝の水彩画のような空もなかなか好い。
1043 上田市芳田町吉田 町吉田生活改善センター 4脚4〇カンガルーポケット型
「町吉田分団」という切文字
蝶の口吻を思わせる蕨手
バルコニーのように張り出したカンガルーポケット
前稿の火の見櫓の梯子の桟は丸鋼だったが、この梯子の桟はアングル(等辺山形鋼)、手でつかみにくい。
脚元の様子
1042 上田市芳田 4脚4〇KP(カンガルーポケット)型 撮影日180830
■ 東信方面によくあるタイプの火の見櫓。同行のSくんにこの火の見櫓について説明した。
以下その内容
ブレースが櫓の上部と下部とで違っている。上は平鋼の交叉ブレース、下はリング付きの丸鋼ブレース。
櫓が直線的に広がっているが、松本平では東京タワーのような末広がりの櫓が見られる。
屋根の先に付いている飾りは蕨手(わらびて)といい、石灯籠や祭り神輿にもついている。
見張り台の床の下地が放射状に配置されている。
バルコニーのような踊り場は東信方面でよく見られ、私はカンガルーポケットと呼んでいる。
梯子の手すりを床面の上まで伸ばしてある。
梯子の桟に丸鋼を2本並べている。
構成部材のジョイントにリベットを使っている。
櫓は上下2つのユニットで現場に運搬されていることが分かる。
現場で一体化して人の力で立て起こした。
銘板が付いていて製作した鉄工所名が記されている。
梯子桟の数とそのピッチで見張り台の高さが分かり、見張り台の床から屋根までの高さ約2m、屋根の高さ約1.5mを足せば火の見櫓のおよその高さが分かる。
これでSくんも火の見櫓に気がつくようになるだろう。
上高地五千尺ロッジ 撮影日180826
繰り返しの美学
建築の構成要素を等間隔に並べるとそこに秩序が生まれる。
このホテルの外壁のリズミカルな構成はまさに繰り返しの美学。
1041 北安曇郡小谷村中土犬川(?) 撮影日180827
■ 小谷(おたり)村は長野オリンピック(1998年開催)でジャンプ競技が行われた白馬村の北隣に位置し、村の北側で新潟県糸魚川市に境を接している。ちなみに深田久弥の「日本百名山」に入っている雨飾山は小谷村と糸魚川市の境にある名峰。
国道148号沿いにある下里瀬(くだりせ)地区から奉納(ぶのう)温泉までは6、7キロの距離だが、その途中の集落(犬川地区かどうか定かではない)に立っている火の見櫓。
この姿を目にして、思わず「え? 何これ」と声をあげてしまった。串に刺しただんごのように、鋼管柱に突き刺さった火の見櫓とでも言いたくなるような姿ではないか。
中心の鋼管柱は消火ホース乾燥塔だが、そこに後から火の見櫓をつくったということだろうか。その逆ということは考えにくい。鋼管柱を無視すれば3脚44型だが、鋼管柱を含めると型(タイプ)はどうなるのかな。例えば4脚44型、これはオーソドックスな火の見櫓を念頭にしたタイプ分けだから、この火の見櫓のような珍しいものは当て嵌まるタイプがない。
類例を挙げるとすれば大町市の木崎湖のすぐ近くに立っているこの火の見櫓か(619)。だがこの火の見櫓には屋根がない。
今回はこの火の見櫓を見て引き返したが、奉納温泉まで行く間にはまだ火の見櫓が立っているかも知れない。機会があれば奉納温泉まで行ってみたい。
撮影日時 180828 05:32AM
東の窓から望む透明な朝の空
撮影日時 180828 05:46AM
空は刻々と表情を変える
自然の造形力は凄い
上の写真を撮って15分後にはこんな表情に
今日も何か良いことがありますように・・・
1040 北安曇郡小谷村中土太田 撮影日180827
■ 道路沿いの樹が成長して火の見櫓を隠している。だが、我が優秀なるヤグラセンサーがキッチリ反応した。
3脚33外付け梯子型 とんがり屋根
脚元までリングの無い丸鋼の交叉ブレース
■ 「上高地で旧交を温める会」の開催通知がはがきで届いたのが5月末のことだった。上高地の明神館に高校の同級生が集まり、旧交を温めようという企画を東京在住のT君が立ててくれた。その後の連絡で参加者は8人とのこと。明神館のオーナーも同級生。
昨日(25日)の午前11時に集合場所の松本駅の改札口に集まったのは6人。集まったメンバーと会うのは6年ぶりか。H君がいない。聞けば静岡からバイクで来松、沢渡まで登るとのこと。
往復きっぷ(4550円)を買い求め、入場。上高地線の乗り場に入ってきたのは「なぎさトレイン」、これは幸先が良い。
車内には登山客が多い。上高地線の終着駅新島々で定期バスに乗り換える。上高地の終点・バスターミナルで下車、昼食(普通のカレー)。
河童橋周辺はまだ人、人、人。
梓川左岸沿いの林間歩道を歩いて明神館に向かう。明神館までは4キロ程だが、腰が痛い、膝が痛いでは参加できない。参加できてうれしい。
河童橋から小一時間で明神館に到着。外で立ち話をしているとH君も到着した。彼とは実に33年ぶりの再会だが、高校時代に瞬間移動。久しぶりという気かしないから不思議。入浴して汗を流し、夕食。ビールが美味い。
食事の後、消灯(9時半)まで別室に移動して、飲みながら話し込む。そこで初めて聞く高校時代の驚きの、いやな出来事。 え?そんなことがあったのか? 知らなかったなあ・・・。振りかえれば、あの頃に人生の方向が定まったような気がする。
割り当てられた部屋に戻る。即眠りに落ち、熟睡。
朝6時過ぎに撮影した明神岳
今日(26日)上高地は朝から晴れ。客室から明神岳を間近に望む。開けた窓から涼しい風が室内に流れ込んでくる。
神奈川から参加したS君はひとり、朝食前に下っていった。明日、喜多方で行うセミナーの下準備をするとのこと。忙しい人だ。
朝8時半ころ出発。徒歩で5分ほどで明神池に着く。ここは穂高神社奥宮が鎮座する神域。
ふたりは何願う?
昨日とは反対側、梓川右岸(上流から見て右側)の歩道を河童橋目指して歩く。すれ違う人たちと「こんにちは!」とあいさつを交わしながら進む。
河童橋の近くまで来てひと休み。そこから望む明神岳。静岡のH君は別行動だった奥さんと合流するとのことで、ひとり先に下って行った。彼は外科医。奥さんとバイクでツーリングをしているそうで、今回もバイクで来ていた。
残る5人は河童橋から1キロほどのところにあるウエストンのレリーフを見に行く。
このレリーフを見てから河童橋まで戻り、昼食。
午後2時過ぎ発のバスで上高地を後にし、新島々で下車、上高地線の電車へ松本駅へ。帰りも「なぎさトレイン」だった。 3時半過ぎ、松本駅で解散。
2日間の歩数は約2万歩(25日:7258歩 26日:13098歩)。久しぶりによく歩いた。皆まだ現役、彼らの元気な姿に力をもらった。
■ 今月19日に箕輪町、南箕輪村、伊那市の火の見櫓巡りをしてきた。撮影した方向はまちまちだが、こうして並べてみると姿・形が似ていることが分かる。既存の火の見櫓を手本にすることがごく普通に行われていたということを以前ある方から聞いた。だから製作した鉄工所が違っても形が似ているというのは当然のことだ。
4脚44(面取り)4型で屋根と見張り台の形もよく似ている。方形の屋根のてっぺんの飾り、蕨手も。踊り場まで外付け梯子というのも皆共通、踊り場にも半鐘を吊り下げて切妻の小屋根を掛けていることも然り。
寛政十二正月七日(1800年)
大正九年三月日(1920年)
昭和五十五年二月(1980年)
■ 伊那市西箕輪吹上に祀られていた庚申塔。庚申塔は60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の年に祀られた。次の庚申の年は1980年の60年後だから2040年。その頃も新たな庚申塔が祀られるような世情のままだろうか・・・。
1039 伊那市東春近渡場 4脚44(面取り)4型 撮影日180819
■ 自治体の対応はまちまちで、ピカピカの火の見櫓もあれば、このようにサビサビ(錆々)の火の見櫓もある。姿・形は悪くないのだが、この様子は残念。後方に防災無線柱が写っている。ということは、この火の見櫓は役目を終えているということだ。いや、もしかしたら消火ホース乾燥塔としてはまだ現役かも知れない。
踊り場にも半鐘が設置されている。消防団員はどのように半鐘を叩いていたのだろう。上の梯子の手前に左向きに立ち、ブレースの間に腕を入れて叩いていた?
脚元の様子。消火栓と消火ホース格納箱、それから文字書道祖神。 道祖神が火の見櫓のすぐ近くに祀られていることは珍しくない。設置場所の条件が共通するからであろう。
以上で8月19日の火の見櫓巡りの記録は終り(掲載省略3基)。
反省:全形を撮って、屋根と見張り台、踊り場、脚元を撮る。それでおしまいということが多かった。もっとじっくり観察しなければ・・・。